チェット・アトキンス(Chet Atkins/出生名:Chester Burton Atkins/1924年6月20日~2001年6月30日)は、アメリカ合衆国のミュージシャン、ギタリスト。

 

 

 

1924年6月20日、チェスター・バートン・アトキンスは、アメリカ合衆国テネシー州ラットルで誕生。父はヴァイオリンやピアノを演奏し、母違いの兄もギターを弾けるという環境に生まれ、チェットも早くから音楽に目覚めていった。

最初はウクレレの演奏を始め、やがてギターに転向した。

しかし、少年時代は喘息を持っていたため、父とともにジョージア州に移る。

1939年、マール・トラヴィスやレス・ポールというギタリストの演奏をラジオで聴き、衝撃を受けたチェットは、我流でマスターしようとする。そのことが、チェット独特のピッキング・スタイルの元となっていった。そのため、デビュー当時は「マール・トラヴィスの真似事」と批判されたこともある。

ハイスクール卒業後は、ラジオ番組でギタリストとしての仕事を得る。

この頃、クラシックのアンドレス・セゴビアや、ジャズ畑のジャンゴ・ラインハルトを知り、影響を受けていった。

 

1946年、初めてシングル・レコード"Guitar Blues"を発表。

 

程なくRCAビクター(RCA Victor/後のRCAレコード)と契約し、チェットの黄金時代に繋がっていく。

 

 

1947年、シカゴにてRCAビクターとして初めてのレコーディングを行なったがリリースされなかった。

同年、いくつかのラジオ番組に出演したが、テネシー州ノックスビルに転居してホマー&ジェスロとともにラジオ局WNOXにて土曜の新番組『The Tennessee Barn Dance 』および人気番組『Midday Merry Go Round 』に出演するようになった。

 

 

1949年、WNOXを離れ、ジューン・カーター with マザー・メイベル&ザ・カーター・シスターズに参加し、ミズーリ州スプリングフィールドのラジオ局KWTOに出演するようになった。長く活動してきたカーター・ファミリーは母メイベル・カーターとその娘たちジューン、ヘレン、アニタを中心に活動するようになっていた。アトキンスを含むこのグループはすぐに『グランド・オール・オープリー』からの興味を惹き、1950年代中期、グループはテネシー州ナッシュビルに転居した。アトキンスはレコーディング・セッションを始め、WSMや『オープリー』で演奏するようになった。1950年代、アトキンスは『オープリー』のメンバーとなった。


1954年、アルバム『A SESSION WITH CHET ATKINS』が高く評価される。

同年、シングル“Mister Sandman”(Mr. Sandman)がカントリー・チャート(以下「カントリー」)13位にランク・イン。これによりチェットは大きな名声を得た。

 

同年、Hank Snowと共演した"Silver Bell"がカントリー15位をマークした。

 

この頃、自己名義での活動以外にも、スタジオ・ミュージシャンとしても活動。

 

 

1955年、"Poor People of Paris (Jean's Song)"が全米52位をマーク。

 

 

1956年、エルヴィス・プレスリー(Elvis Presley/1935年1月8日-1977年8月16日)の大ヒット曲“ハートブレイク・ホテル” (Heartbreak Hotel)や“ハウンド・ドッグ” (Hound Dog)でリズム・ギターを演奏した。

 

 

この頃、ハンク・ウィリアムスやエヴァリー・ブラザース等のセッションにも参加。

チェット・アトキンスの独自の奏法による逸話として“ヤンキードゥードル・ディキシー”(Yankee Doodle Dixie)がある。チェットはコンサート会場でリクエストを受け付けたが、「“ヤンキードゥードゥル”(アメリカ独立軍歌)を演ってほしい」という客と「“ディキシー”(南北戦争時の南軍の軍歌)を演ってくれ」という客が争いになってしまった。チェットは「では2曲同時に弾きましょう」と言い、2つのまったく別の曲を同時に弾いて見せた。後にレコーディングされ、4曲入りEPのB面に収録された(独自のアレンジを加えており、さらに2曲とも作者不詳だったため、作曲者としてチェット・アトキンスの名前が載っている)。

 

 

 

1957年、アルバム『Chet Atkins at Home』をリリース、全米21位。

 

 

1959年、新しいアルバム『Teensville』からのリード・シングル、"Boo Boo Stick Beat"が全米49位、"One Mint Julep"が全米82位、タイトル・トラック"Teensville" が全米73位をマークした。

 

 

 

1960年9月、アルバム『Teensville』をリリース、全米16位。

同年、シングル"Theme from 'The Dark at the Top of the Stairs'"をリリース、全米103位。

 

12月、アルバム『Chet Atkins' Workshop』をリリース、全米7位。

 

 

1961年5月、アルバム『The Most Popular Guitar』をリリース、全米119位。

11月、アルバム『Christmas with Chet Atkins』をリリース、全米12位。

同年、シングル"Jingle Bell Rock"をリリース、全米106位。

 

 

1962年7月、アルバム『Caribbean Guitar』をリリース、全米33位。

同年、アルバム『Down Home』をリリース、全米31位。

12月、アルバム『Our Man in Nashville』をリリース、全米135位。

 

 

1963年、アルバム『Teen Scene』をリリース、全米93位。

 

 

1964年、アルバム『Guitar Country』をリリース、カントリー1位・全米64位。

 

 


1965年、日本で行われたパッケージ・ツアー「ポップ&カントリー・フェスティバル」に参加。

同年、アルバム『More of That Guitar Country』をリリース、カントリー4位。ここから、"Yakety Axe"がカントリー4位・全米98位をマークした。

 

 

1966年3月、アルバム『Chet Atkins Picks on the Beatles』をリリース、カントリー6位・全米112位。

同年、アルバム『From Nashville with Love』をリリース、カントリー26位・全米140位。ここからのシングルは、タイトル・トラック"From Nashville with Love"が全米132位になった。

 

同年、シングル"Prissy"がカントリー30位に入った。

 

 

1967年、アトキンスの誕生日にトリビュート・ソング“チェッツ・チューン”が制作され、エディ・アーノルド、コニー・スミス、ジェリー・リード、ウィリー・ネルソン、ハンク・スノウなど、RCAビクターのアーティストが多数参加した。この曲は、アトキンスの友人であるナッシュビルのソングライター、サイ・コーベンによって書かれた。このシングルはカントリー38位に達した。

同年、アルバム『It's a Guitar World』をリリース、全米148位。

同年、アルバム『Class Guitar』をリリース、カントリー26位・全米189位。

 

 

1968年、アルバム『Hometown Guitar』をリリース、カントリー17位。

同年、アルバム『Solid Gold 68』をリリース、カントリー18位。

同年、アルバム『Solo Flights』をリリース、全米184位。

 

 

1969年、アルバム『Solid Gold 69』をリリース、カントリー33位・全米150位。



1970年、ジェリー・リード(Jerry Reed)との共演作『ミー・アンド・ジェリー』(Me and Jerry)は、カントリー13位を記録。グラミー賞ベスト・カントリー・インストゥルメンタル部門を受賞した。

 

同年、アルバム『Yestergroovin'』をリリース、全米139位。 

同年、アルバム『Pickin' My Way』をリリース、カントリー30位。

 

 

1971年、アルバム『For the Good Times』をリリース、カントリー17位。

 

 

1972年、アルバム『Picks on the Hits』をリリース、カントリー38位。

 

 

1973年、アルバム『Alone』をリリース、カントリー42位。

同年、シングル“Fiddlin' Around"がカントリー75位。

 

同年、日本歌曲のカヴァー・アルバム『日本の詩』(Discover Japan)を発表。

 

 

1974年、Merle Travisとの連名のアルバム『The Atkins – Travis Traveling Show』をリリース、カントリー30位に入った。

 

 

1975年、アルバム『The Night Atlanta Burned』をリリース、カントリー30位。ここからカットしたタイトル・トラック"Night Atlanta Burned"がカントリー77位に到達した。

 

同年、アルバム『Chet Atkins Goes to the Movies』をリリース、カントリー43位。

 

 

1976年にリリースした『チェスター・アンド・レスター』(Chester & Lester)は、チェットにとって憧れの存在であったレス・ポール(Les Paul)との連名のアルバムで、カントリー11位・全米172位をマーク。同作もグラミー賞受賞に至った。

 

 

同年、コンピレーション・アルバム『 The Best of Chet Atkins & Friends』をリリース、カントリー25位。ここからリカットした"Frog Kissin'"がカントリー40位・全米36位をマークした。

 

 

1977年、アルバム『Me and My Guitar』をリリース、カントリー50位。

同年、アルバム『Chet, Floyd & Danny』 (with Floyd Cramer and Danny Davis)をリリース、カントリー46位。

 

 

1978年、再びレス・ポールとのコラボレーションによるアルバム『Guitar Monsters』をリリース、カントリー27位。


1979年、品質改善が見込めないとしてグレッチとのエンドーズ契約を解消する。以降はギブソン製のギターを使用する。ギブソン契約前にはフェンダーなどの他社のギターも使っていた(チェットがソリッドボディのギターを弾くのは非常に珍しい)。

 

 

1980年、シングル"Blind Willie"と"I Can Hear Kentucky Callin' Me"が、ともにカントリー83位になった。

 

 


1982年、長年籍を置いてきたRCAレコードを去り、コロムビア・レコード(Columbia Records)に移籍。その後も精力的な活動を続ける。

 

 

1983年、アルバム『Work It Out with Chet Atkins C.G.P.』をリリース、カントリー64位。

 

 

1985年、アルバム『Stay Tunedをリリース、全米145位。



1990年代もアトキンスは演奏を続けていた。

 


1990年、マーク・ノップラー(Mark Knopfler)との連名でアルバム『ネック&ネック』(Neck and Neck)をリリース、カントリー27位・全米127位。ここからは、シングル"Poor Boy Blues"が全米92位に達した。

 

 

1992年、Jerry Reedと共演したアルバム『Sneakin' Around』をリリース、カントリー68位。

 

 

1993年、グラミー生涯功労賞を受賞。

 

 

1994年10月18日、Suzy Boggussと共演したアルバム『Simpatico』をLiberty Recordsからリリース、カントリー55位。

 

 

1996年、再び大腸がんと診断されてから健康状態が悪化した。

5月、アルバム『Almost Alone』をコロムビアからリリース、カントリー74位。

 

 

1997年12月、『ビルボード』誌は「傑出した創造的業績に対する最高の栄誉」であるセンチュリー賞を彼に授与した。





2001年6月30日、ミスター・ギターの異名を持つ、チェット・アトキンスこと、チェスター・バートン・アトキンスは、癌のためテネシー州ナッシュビルの自宅にて死去。77歳だった。

追悼式はナッシュビルのライマン・オーディトリアムで行われた。

彼はナッシュビルのハーペス・ヒルズ・メモリー・ガーデンに埋葬された。

 

 

 

 

2002年、アトキンスは死後、ロックの殿堂入りを果たした。賞はマーティ・スチュアートとブライアン・セッツァーによって授与され、アトキンスの孫であるジョナサン・ラッセルが受け取った。

 

 

2003年、アトキンスはカントリーミュージックテレビジョンの「カントリーミュージック界の最も偉大な40人」で28位にランクされた。

 


2011年11月、『ローリングストーン』誌は「史上最も偉大なギタリスト100人」のリストでアトキンスを21位にランク付けした。

アトキンスは、その幅広い影響力で知られている。彼が様々なスタイルの音楽に傾倒していたのは、ストライド・ピアニストのジェームズ P. ジョンソンの“ジョンソン・ラグ”を録音した初期の頃の記憶から、アトキンスの録音セッションに招待されたエリック・ジョンソンのロック スタイルまで遡ることができる。ジョンソンは、アトキンスが彼の影響力のあるロック曲“クリフス・オブ・ドーバー”を真似しようとした際に、アトキンスが“ロンドンデリー・エア (ダニー ボーイ)”のユニークなアレンジを創作するきっかけとなった。

彼のアルバムのほとんどすべてに収録されているクラシック・ギターの曲は、現在この分野で活動している多くのアメリカ人アーティストにとって、初めて耳にするクラシック・ギターだった。彼は、今日でもアメリカのラジオで演奏されているスムーズ・ジャズ・ギターを録音した。


ジョージア州南西部(ラグランジとコロンバスの間)の州間高速道路185号線は「チェット・アトキンス・パークウェイ」と名付けられている。この州間高速道路はフォートソンを通っており、アトキンスはそこで幼少期の大半を過ごした。

13歳の時、将来のジャズギタリスト、アール・クルーはペリー・コモ・ショーでのアトキンスの演奏に魅了された。彼はドイル・ダイクスにも大きな影響を与え、トミー・エマニュエルにもインスピレーションを与えた。ジョニー・ウィンターの親指ピッキングのスタイルはアトキンスの演奏から生まれた。スティーブ・ハウはアトキンスをお気に入りの「オールラウンドギタリスト」と呼び、「音楽の様々な分野で彼より優れた人はいるが、全般的に同じ能力を持つ人はいない。私にとって、彼の演奏を聴くことは勉強になった」と付け加えた。

クリント・ブラックのアルバム『Nothin' but the Taillights』には“Ode to Chet”という曲が収録されており、歌詞には「ロミオがジュリエットにしたように彼女を虜にできるから、チェットのようにレガートで弾けるところを見せられるなら」や「CGPのように弾けるようになるには、メル・ベイ1、2、3だけでは足りない」などがある。アトキンスはこの曲でギターを弾いており、曲の最後に、ブラックとアトキンスは短い会話をしている。

アトキンスの曲“Jam Man”は、EsuranceのCMで使用された。

 


2009年、スティーブ・ワリナーは「マイ・トリビュート・トゥ・チェット・アトキンス」と題したアルバムをリリースした。そのレコードの1曲「プロデューサーズ・メドレー」は、アトキンスがプロデュースし演奏したいくつかの有名な曲をワリナーが再現したものだった。「プロデューサーズ・メドレー」は2010年に最優秀カントリー・インストゥルメンタル・パフォーマンスでグラミー賞を受賞した。

 

基本的にはカントリー・ミュージシャンだが、ジャズやブルースからの影響も吸収し、また、後のロック・ギタリスト(ジョージ・ハリスン、スティーヴ・ハウ等)にも多大な影響を与えた。

生涯において、13作品(他ミュージシャンとの連名も含む)で14回のグラミー賞、年間最優秀楽器奏者賞の9回のカントリーミュージック協会賞など、数多くの賞を受賞した。そんなアトキンスを人は「ミスター・ギター」と呼ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「チェット・アトキンス」「Chet Atkins」

 

 

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