マーク・ノップラー OBE(Mark Freuder Knopfler OBE/1949年8月12日~)は、

英国スコットランドのグラスゴー生まれのミュージシャン、ギタリスト、ソングライター、

音楽プロデューサー。ダイアー・ストレイツ(Dire Straits)のフロントマンとして知られる。

 

 

父は、ナチスを避けて1939年にハンガリーからオランダ経由でスコットランドに移住したユダヤ系ハンガリー人の建築家エルヴィーン・クノップフラー(Erwin Knopfler)、母はアイルランド人。日本では聞き慣れないノップラー(クノップフラー) Knopfler という姓は、

父親のドイツ語の姓に由来する。姉一人と弟一人(デヴィッド)の3兄妹の真ん中で長男。

 

グラスゴー(英: Glasgow/ スコットランド・ゲール語: Glaschu)で生まれた後、

イングランド北東部のニューカッスル・アポン・タイン(City of Newcastle upon Tyne)に

家族で移住。その後しばらく経った11歳の頃、当時ヒットしていた

ザ・シャドウズ(The Shadows)の“Apache”に惹かれ、同バンドのギタリストである

ハンク・マーヴィン(Hank Marvin)のストラトキャスターのサウンドとかっこ良さに憧れ、

父に買ってもらったギターを独学で演奏を始める。

 

ハーロウ・テクニカル・カレッジでジャーナリズムを学び、そこで同じくギター馬鹿のスティーヴ・フィリップスに出会う。マーク・ノップラーはその後、リーズ大学(University of Leeds)で英文学の学位を取得し、空き時間にスティーヴと一緒に「デュオリアン・ストリング・ピッカーズ」名義で演奏していた。

大学卒業後は新聞記者や教師をしつつ複数のバンドを掛け持ちして

パブに出入りするようになる。

 

音楽的にはマークは、ボブ・ディラン、J・J・ケイル、そして前述のとおり、

ハンク・マーヴィン(シャドウズ)等から強い影響を受けている。

 

1976年、ロンドンにてバンドが結成される。

オリジナル・メンバーは、マーク・ノップラー(リードG/Vo)と実弟デヴィッド・ノップラー(リズムG)、ジョン・イルズリー(B)、ピック・ウィザース(Ds)の4人構成で、

当初のグループ名は「カフェ・レーサーズ」(Cafe Racers)だった。

当時、音楽で生計を立てていたのはセッションマンだったウィザースだけで、

マークは成人教育カレッジの講師、デヴィッドは民生委員、ジョンは大学に通う傍ら銀行に勤めて収入を得て、それをそっくり音楽活動に注ぎ込んでいた。

ウィザースの友人が万年金欠状態のメンバーをからかって叩いた軽口を拝借して、「Dire Straits」([dire]ひどい、無残な、差し迫った、[strait]断崖、苦境、困窮)の名称に落ち着く。

 

バンドのアイデンティティのほぼすべてを、フロントマンのマークに負っており、

彼が書いた楽曲以外の曲は、アルバムでもステージでもほとんど取り上げられていない。

ごく例外的に、最初期のライヴではマークとデヴィッドが共作した“What's The Matter, Baby?” がセット・リストに入っていた。

 

1977年、ヴァーティゴ・レコードと契約。

 

1978年にトーキング・ヘッズのイギリス・ツアーでオープニングアクトを務めた後、

マフ・ウィンウッド(元スペンサー・デイヴィス・グループのベーシストで、

スティーヴ・ウィンウッドの兄)のプロデュースで、ファースト・アルバムの録音に入った。

同年にはワーナー・ブラザース・レコードと米国及びカナダの北米地区における契約を締結。

 

1978年7月、ファースト・アルバム『悲しきサルタン』(Dire Straits)をリリースする。

ルーツ・ミュージックに独自の解釈を施した音楽に高い評価を付ける向きもあったものの、

当時の音楽のトレンドとは異質であり、直ちにチャートの動向には反映されなかった。

しかし、オランダのVPROラジオでファースト・シングルの“悲しきサルタン”(Sultans of Swing)がヘヴィー・ローテーションされた頃から風向きが変わりチャートを上昇、その後ヨーロッパと

アメリカに飛び火した人気が本国も刺激、ツアーの効果もあってアルバムは全米で2位、

全英で8位を記録し、全世界で1,500万枚を売り上げる。

また、ロサンゼルスでダイアー・ストレイツのライヴを観たボブ・ディランは、マークとピックをアルバム『スロー・トレイン・カミング』のレコーディング・メンバーに起用した。

 

ダイアー・ストレイツでの活動を通して、その独特のフィンガー・ピッキング奏法によるギタープレイや、トータルな楽曲プロデュース能力が、他の多くのミュージシャンの目にとまることとなり、数多くのセッションに参加。前述のボブ・ディランを筆頭に、スティーリー・ダン、エルトン・ジョン、スティング、エリック・クラプトン、ブライアン・フェリー、ジュールズ・ホランドなど数多くのミュージシャンと親交を深める。また、ほぼ同時期に映画音楽にも参入。『ローカル・ヒーロー』や『CAL』、『プリンセス・ブライド』、『ワグ・ザ・ドッグ』などを手がける。なお、右利きでギターを弾くが、本来は左利き。

 

1979年にはセカンド・アルバム『コミュニケ』(Communiqué)も成功を収めるが、

1980年、次のアルバム制作中にデヴィッド・ノップラーが脱退し、

Eストリート・バンドのロイ・ビタンが代役を務める。

その後ハル・リンデス(G)とアラン・クラーク(Key)が加入し、バンドは5人編成となった。

同年10月、サード・アルバム『メイキング・ムーヴィーズ』(Making Movies)をリリース。

 

1982年8月、先行シングル“哀しみのダイアリー”(Private Investigations)が1982年9月4日付の全英シングル・チャートで初登場13位、2週後には2位を記録し、バンド初の全英トップ3

シングルとなった。オランダのシングル・チャートでは5週にわたり1位を獲得する大ヒット。

 

同年9月にリリースされた4枚目のアルバム『ラヴ・オーヴァー・ゴールド』(Love Over Gold)も全英アルバム・チャートで4週にわたり1位を獲得し、200週チャート圏内に入った。

また、アメリカでは“公害病”(Industrial Disease)がシングル・カットされ、Billboard Hot 100で75位、『ビルボード』のメインストリーム・ロック・チャートでは9位を記録した。

同作を最後にピック・ウィザースが脱退し、元ロックパイルのテリー・ウィリアムズが加入。

 

1983年4月2~4日には東京・日本青年館、4月5日には大阪・万博ホールと

最初で最後となる日本公演を行った。

同年、マークとアランがボブ・ディランのアルバム『インフィデル』のレコーディングに参加し、

マークは共同プロデューサーも務めた。

その後ハル・リンデスが脱退し、ガイ・フレッチャーが加入。

 

1985年5月に発表したアルバム『ブラザーズ・イン・アームス』(Brothers in Arms)では、

ポリスのスティングをフィーチャーしたナンバー“マネー・フォー・ナッシング”(Money for Nothing)をシングル・カット第2弾としてリリース。当時としては最新鋭の技術であった3DCGを取り入れた同曲のミュージック・ビデオが、MTVで大量にオンエアされ、話題になった。

元々はMTVに対する不満等を述べた同曲が、MTVによってヒットしたという皮肉な結果となった。こうした効果もありアルバムは全米1位を3週連続でキープする爆発的なヒットを記録。

イギリス国内だけでも390万枚以上を売り上げ、英国内での歴代アルバムセールスランキングでも第7位を記録(2012年5月時点)。また、ドイツ、フランス、カナダ、スイス、オーストラリア、

ニュージーランド等の主要国でも軒並みアルバム・チャート1位を記録した。

さらに、並行して敢行された2度のワールド・ツアーの効果も相まって、最終的に全世界で3,000万枚を超えるセールスを上げる。なお、このアルバムはLPからCDへの移行期にあたり、大ヒットしたアルバムということもあり、売り上げ内訳で、

LPよりもCDが売れたことでも話題になった。

 

1988年9月、マーク・ノップラーはダイアー・ストレイツの解散を発表し、

10月にベスト・アルバム『マネー・フォー・ナッシング』(Money for Nothing)が発表される。

マークとガイ・フレッチャーは、他にマークの友人2人のメンバーを加えたバンド

「ノッティング・ヒルビリーズ」(Notting Hillbillies)を結成して活動、

1990年には唯一のアルバムを『Missing…Presumed Having A Good Time』をリリースした。

 

 

1991年、マーク、ジョン、アラン、ガイが再結集し、ジェフ・ポーカロやマヌ・カチェ等のセッション・ミュージシャンを迎えて制作したアルバム『オン・エヴリー・ストリート』(On Every Street)を

リリース。本作は1991年9月21日付の全英アルバム・チャートで初登場1位となり、

35週チャート圏内に入った。本作からの先行シングル“コーリング・エルヴィス”(Calling Elvis)は全英シングル・チャートで21位に達し、その後も3曲がチャートインした。

 

本アルバムは欧州諸国でも大ヒットし、オランダでは10週連続で1位を獲得し、合計58週にわたりトップ100入り。オーストリアでは4週連続で1位を獲得した。だが米国だけは最高位12位と今一つの結果となった。また、同アルバム発表後のライヴを収録した『オン・ザ・ナイト〜ダイアー・ストレイツ・ライヴ』(On The Night, live)と、過去のスタジオ・ライヴ音源を発掘した『ライヴ・アット・ザ・BBC』(Live at the BBC)をリリースするなど精力的に活動していたかに見えたが、世界的グループとして大規模な公演を行うことに疲れを感じたマークの判断で、

1995年に再び解散が発表された。

 

 

1996年、サウンドトラックを除けば初めてとなるマーク・ノップラーのソロ・アルバム

『ゴールデン・ハート』(Golden Heart)をリリース。

 

2000年にリリースした2枚目のソロ・アルバム『セイリング・トゥ・フィラデルフィア』(Sailing to Philadelphia)はヴァン・モリソンやジェームス・テイラーがゲスト参加。

全世界で400万枚を超える大ヒットとなる。

 

2002年、3枚目のアルバム『ラグピッカーズ・ドリーム』(The Ragpicker's Dream)リリース。

 

2004年秋、4枚目のアルバム『シャングリ・ラ』(Shangri-La)を発売。

 

2006年、数年来レコーディングを続けてきたカントリー歌手のエミルー・ハリスとのデュエットアルバム『All The Roadrunning』の発売と、プロモーションツアーを敢行する。

 

2007年、5枚目『Kill To Get Crimson』、

2009年、6枚目『Get Lucky』、

2012年、7枚目『Privateering』と、コンスタントにソロ・アルバムをリリースし、

全英アルバム・チャートのトップ10に送り込む。

 

2015年、8作目のソロ・アルバム『Tracker』ではソロでは初、

バンド時代も含めれば24年ぶりとなる全英トップ3入りを果たしている。

 

2018年春、ダイアー・ストレイツの一員としてロックの殿堂入り。

ただしセレモニーにはマークは不参加。

同年、9作目のソロ・アルバム『Down The Road Wherever』をリリース。

ダイアー・ストレイツのメンバーだったガイ・フレッチャーとの共同プロデュース作品。

 

2019年、前年のアルバムをプロモートする北米ツアーを8月16日から9月22日まで、

全28公演を実施。ガイ・フレッチャーもキーボーディストとして参加した。

 

 

 

(参照)

Wikipedia「マーク・ノップラー」「ダイアー・ストレイツ」

Udiscovermusic.jp

https://www.udiscovermusic.jp/stories/tyne-delta-travels-mark-knopfler