高嶋 弘之(たかしま ひろゆき/1934年5月18日~)は、日本の音楽ディレクター、プロデューサー。

 

 

 

1934年5月18日、高嶋 弘之が兵庫県武庫郡御影町(現:神戸市東灘区御影)に生まれる。4人きょうだいで、兄の忠夫(たかしま ただお/1930年7月27日-2019年6月26日)は、後に俳優、タレント、司会として長く芸能界で活躍する。

 

兄の忠夫と同じ兵庫県立神戸高等学校に進学。

高校卒業後は早稲田大学第一文学部に進学、同大学同学部演劇専修を卒業。

 

1959年、東京芝浦電気株式会社(現:東芝)入社、レコード事業部(後:東芝EMI→EMIミュージック・ジャパン)に配属され、ディレクターとしてのキャリアをスタートさせる。

 

 

1960年10月1日、レコード事業部が分社化され、「東芝音楽工業」(現:ユニバーサルミュージック傘下のEMI Records Japan→EMI Records)として独立したことに伴い同社に移籍し、主に洋楽担当のディレクターとして活動する。

 

 

1962年、当初から東芝音工は既に英EMIと提携関係にあり、EMI傘下の「パーロフォン」からデビューしたビートルズ(The Beatles)についても情報はあったが、高嶋は「イギリスでのデビュー時に“Love Me Do”のサンプル盤を聴いたが〈こりゃ駄目だ〉と思った」と後に述べている。

その後、“Please Please Me”に衝撃を受けた高嶋は一転、ビートルズの日本における仕掛人として、日本側の初代ディレクターとなる。

 

 

1964年2月5日、日本でのビートルズのデビュー・EP(シングル)盤“抱きしめたい”(I Want To Hold Your Hand/OR-1041)を東芝音楽工業「オデオン」(Odeon)レーベルから発売。東芝音工では当初、“プリーズ・プリーズ・ミー”(Please Please Me)を日本におけるビートルズのデビュー曲に決めていたが、米国での人気を考慮して急遽発売の前倒しを決定。そのため同年発売当時のレコード番号は“プリーズ・プリーズ・ミー”(OR-1024)の方が若い。また既にジャケット等の印刷開始後に発売順を変更したことから、初期ロットの一部にはジャケットの差し替えが間に合わず“プリーズ・プリーズ・ミー”を第一弾シングルとして掲載しているものがある。本楽曲をはじめシングル30枚など高嶋は国内で様々な販促活動を行った。“抱きしめたい”はじめビートルズ初期の楽曲の邦題のほとんどを高嶋が付けた。例外は水野晴郎(当時日本ユナイト映画宣伝総支配人)が命名した“ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!”位だという。

 

3月10日、日本における2枚目シングルとして、“プリーズ・プリーズ・ミー”を発売。

 

4月5日、“シー・ラヴズ・ユー”(She Loves You)/“アイル・ゲット・ユー”(I'll Get You)、“キャント・バイ・ミー・ラヴ”(Can't Buy Me Love)/“ユー・キャント・ドゥ・ザット”(You Can't Do That)、“フロム・ミー・トゥ・ユー”(From Me to You)/アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア”(I Saw Her Standing There) のシングル3枚を同時発売。なお、“フロム・ミー・トゥ・ユー”/アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア”は日本独自発売(以下「独自」)。

 

 

 

4月15日、日本での1stアルバム『ビートルズ!』(Meet The Beatles)を発売。ジャケットは米国盤『Meet The Beatles!』のデザインを転用し、一部を変更。曲順も日本独自のもの。モノラル盤のみ。収録曲は、A面:“抱きしめたい”、“アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア”、“ジス・ボーイ”(This Boy)、“イット・ウォント・ビー・ロング”(It Won't Be Long)、“オール・アイヴ・ゴット・トゥ・ドゥ”(All I've Got to Do)、“オール・マイ・ラヴィング”(All My Loving)、B面“ドント・バザー・ミー”(Don't Bother Me)、“リトル・チャイルド”(Little Child)、“ティル・ゼア・ウォズ・ユー”(Till There Was You)、“ホールド・ミー・タイト”(Hold Me Tight)、“アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン”(I Wanna Be Your Man)、“ナット・ア・セカンド・タイム”(Not a Second Time)。     

 

5月5日、“ツイスト・アンド・シャウト”(Twist and Shout)/“ロール・オーバー・ベートーヴェン”(Roll Over Beethoven)、“ドゥ・ユー・ウォント・トゥ・ノウ・ア・シークレット”(Do You Want to know a Secret)/“サンキュー・ガール” (Thank You Girl)、独自“オール・マイ・ラヴィング”(All My Loving)/“ラヴ・ミー・ドゥ”(Love Me Do)のシングル3枚を同時発売。

 

 

 

6月5日、独自シングル“プリーズ・ミスター・ポストマン(Please Mister Postman)/“マネー”(Money [That's What I Want])を発売。

 

6月15日、ビートルズの日本盤2ndアルバム『ビートルズ No.2!』(The Beatles' Second Album)が発売。収録曲は、A面:“キャント・バイ・ミー・ラヴ”(Can't Buy Me Love)、“ドゥ・ユー・ウォント・トゥ・ノウ・ア・シークレット”(Do You Want to Know a Secret)、“サンキュー・ガール”(Thank You Girl)、“蜜の味”(A Taste of Honey)、“イット・ウォント・ビー・ロング”(It Won't Be Long)、“アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン”(I Wanna Be Your Man)、“ゼアズ・ア・プレイス”(There's a Place)、B面:“ロール・オーバー・ベートーヴェン”(Roll Over Beethoven)、“ミズリー”(Misery)、“ボーイズ”(Boys)、“デヴィル・イン・ハー・ハート”(Devil in Her Heart)、“ナット・ア・セカンド・タイム”(Not a Second Time)、“マネー”(Money [That's What I Want])、“ティル・ゼア・ウォズ・ユー”(Till There Was You)。

 

 

8月5日、シングル“ア・ハード・デイズ・ナイト”(A Hard Day's Night)/“今日の誓い”(Things We Said Today)を発売。

 

9月5日、シングル“恋する二人”(I Should Have Known Better)/“ぼくが泣く” (I'll Cry Instead)と、日本での3rdアルバム『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』(A Hard Day's Night)が同時発売。アルバムは映画『ア・ハード・デイズ・ナイト』(A Hard Day's Night)のサウンドトラック盤として制作されたものの、日本盤ではジャケットが映画の一場面の写真に変更されている。邦題は当時日本ユナイト映画宣伝総支配人であった水野晴郎が命名したが、2000年に映画と同じく『ア・ハード・デイズ・ナイト』に改題された。曲順は英国オリジナルと同一だが、独自の日本語タイトルが付けられている。A面:“ア・ハード・デイズ・ナイト”、“恋する二人”、“恋におちたら”(If I Fell)、“すてきなダンス”(I'm Happy Just To Dance With You)、 “アンド・アイ・ラヴ・ハー”(And I Love Her)、“テル・ミー・ホワイ”(Tell Me Why)、“キャント・バイ・ミー・ラヴ”(Can't Buy Me Love) 、B面:“エニイ・タイム・アット・オール”(Any Time At All)、“ぼくが泣く”、“今日の誓い”、“家に帰れば”(When I Get Home)、“ユー・キャント・ドゥ・ザット”(You Can't Do That)、“アイル・ビー・バック”(I'll Be Back)。

 

10月5日、シングル“アンド・アイ・ラヴ・ハー”/“恋におちたら”を発売。 

 

11月5日、シングル“マッチボックス”(Matchbox)/“スロウ・ダウン”(Slow Down)を発売。

 

ビートルズは日本においても大ヒットを連発し、高嶋も一躍その名を知られるようになる。ただし、「ビートルズを日本において販促する際に現代であれば確実に問題になるような数々のやらせや数字の不正操作などを裏で行なっていた」と著書やインタビュー等にて述べている。

 

 

1965年1月5日、シングル“すてきなダンス”(I'm Happy Just to Dance with You)/“テル・ミー・ホワイ”(Tell Me Why)と、独自“アイ・フィール・ファイン”(I Feel Fine)/“シーズ・ア・ウーマン”(She's a Woman)を同時発売。

 

 

2月5日、“のっぽのサリー”(Long Tall Sally)/“アイ・コール・ユア・ネーム”(I Call Your Name)、“ノー・リプライ”(No Reply)/“エイト・デイズ・ア・ウィーク”(Eight Days a Week)、“ロック・アンド・ロール・ミュージック”(Rock and Roll Music)/“エヴリー・リトル・シング”(Every Little Thing)の日本独自シングルを3枚同時発売。

 

 

 

2月15日、4枚目の日本盤アルバム『ビートルズ '65』(Beatles For Sale)を発売。曲順もジャケットの仕様も英国オリジナルと同じになったが、「Beatles For Sale」という文字のデザインのみが異なる。また、アルバムの邦題は別内容で日本未発売の米国編集盤と重複している。収録曲は、A面:“ノー・リプライ”、 “アイム・ア・ルーザー”(I'm A Loser)、“ベイビーズ・イン・ブラック”(Baby's In Black)、“ロック・アンド・ロール・ミュージック”、“アイル・フォロー・ザ・サン”(I'll Follow The Sun)、 “ミスター・ムーンライト”(Mr. Moonlight)、“カンサス・シティ/ヘイ・ヘイ・ヘイ・ヘイ”(Kansas City/Hey, Hey, Hey, Hey)、B面:“エイト・デイズ・ア・ウィーク” (Eight Days a Week)、“ワーズ・オブ・ラヴ”(Words of Love)、“ハニー・ドント” (Honey Don't)、“エヴリー・リトル・シング”(Every Little Thing)、“パーティーはそのままに”(I Don't Want To Spoil the Party)、“ホワット・ユー・アー・ドゥーイング”(What You're Doing)、 “みんないい娘”(Everybody's Trying To Be My Baby)。

 

3月15日、“ミスター・ムーンライト”/“ホワット・ユー・アー・ドゥーイング”、“カンサス・シティ〜ヘイ・ヘイ・ヘイ・ヘイ” /“アイル・フォロー・ザ・サン”の日本独自シングル2枚を同時発売。 

 

 

4月15日、独自シングル“パーティーはそのままに”/“みんないい娘”を発売。

 

5月5日、日本独自に企画構成されたアルバム『ビートルズ No.5!』(Beatles No.5)を発売。ジャケットはアメリカ編集盤『ビートルズ '65』に準じている。収録曲は、A面:“のっぽのサリー”(Long Tall Sally)、“シー・ラヴズ・ユー(ドイツ語)”(Sie Liebt Dich)、“アンナ”(Anna [Go To Him])、“マッチボックス”(Matchbox)、“ユー・リアリー・ゴッタ・ホールド・オン・ミー”(You Really Got a Hold on Me)、“シーズ・ア・ウーマン”(She's a Woman)、“アスク・ミー・ホワイ”(Ask Me Why)、B面:“アイ・フィール・ファイン”、“抱きしめたい(ドイツ語)”(Komm, Gib Mir Deine Hand)、“チェインズ”(Chains)、“スロー・ダウン”、“オール・アイヴ・ゴット・トゥ・ドゥ”(All I've Got To Do)、“アイ・コール・ユア・ネーム”(I Call Your Name)、“ジス・ボーイ”(This Boy)。本作がビートルズ活動中に制作された独自の日本盤となった。

 

 

 

5月15日、シングル“涙の乗車券”(Ticket to Ride)/“イエス・イット・イズ”(Yes It Is)を発売。

 

8月15日、シングル“ヘルプ!”(Help!)/“アイム・ダウン”(I'm Down)を発売。

 

9月15日、日本独自シングル“ディジー・ミス・リジー”(Dizzy Miss Lizzy)/“アンナ”(Anna [Go to Him])と、ビートルズの5作目のイギリス盤公式オリジナル・アルバムであり、また2作目となる主演映画『ヘルプ!4人はアイドル』(Help!)のサウンドトラック盤でもある『ヘルプ!』(Help!)を同時発売。アルバム収録曲は、A面:“ヘルプ!”、“ザ・ナイト・ビフォア”(The Night Before)、“悲しみはぶっとばせ”(You've Got To Hide Your Love Away)、“アイ・ニード・ユー”(I Need You)、“アナザー・ガール”(Another Girl)、“恋のアドバイス”(You're Going To Lose That Girl)、“涙の乗車券(ティケット・トゥ・ライド)”、B面:“アクト・ナチュラリー”(Act Naturally)、“イッツ・オンリー・ラヴ” (It's Only Love)、“ユー・ライク・ミー・トゥ・マッチ”(You Like Me Too Much)、 “テル・ミー・ホワット・ユー・シー”(Tell Me What You See)、“夢の人”(I've Just Seen A Face)、“イエスタデイ” (Yesterday)、“ディジー・ミス・リジー”(Dizzy Miss Lizzy)。

 

10月15日、日本独自シングル“恋のアドバイス”(You're Going to Lose That Girl)/“テル・ミー・ホワット・ユー・シー”(Tell Me What You See)を発売。

 

11月15日、日本独自シングル“ザ・ナイト・ビフォア”(The Night Before)/“アナザー・ガール” (Another Girl)と、“イエスタディ”(Yesterday)/“アクト・ナチュラリー”(Act Naturally)を同時発売。

 

 

 

1966年1月15日、シングル“デイ・トリッパー”(Day Tripper)/“恋を抱きしめよう”(We Can Work It Out)を発売。

 

3月15日、アルバム『ラバー・ソウル』(Rubber Soul)が日本で発売。“ノルウェーの森”の邦題が付けられたA面2曲目の“Norwegian Wood[This Bird Has Flown]”は本来「ノルウェー製の家具」などという意味だが、高嶋は「曲を聴いた時に森のイメージが湧いたので邦題を“ノルウェーの森”とした」と述べている。なお、以前からの慣習で本作までは他にも“ひとりぼっちのあいつ”(Nowhere Man)、“嘘つき女”(Think For Yourself)、“愛のことば”(The Word)、“消えた恋”(What Goes on)、“君はいずこへ”(I'm Looking Through You)、“恋をするなら”(If I Needed Someone)、“浮気娘”(Run For Your Life)などといった自由な邦題が付けられている楽曲があるが、次作以降は一部の例外を除き、基本的にオリジナル・タイトルをカタカナ表記にしたタイトルに統一された。本作では“ドライヴ・マイ・カー”(Drive My Car)や“イン・マイ・ライフ”(In My Life)などがそれにあたる。

 

 

 

 

 

4月15日、シングル“ひとりぼっちのあいつ”(Nowhere Man)/“消えた恋”(What Goes on)を発売。

 

同年、来日記念盤『ステレオ! これがビートルズ Vol.1』として本国デビュー・アルバム『Please Please Me』が、『ステレオ! これがビートルズ Vol.2』として『With the Beatles』が、それぞれ発売された。

6月15日、シングル“ペイパーバック・ライター”(Paperback Writer)/“レイン” (Rain)を発売。

 

 

6月30日~7月2日、ビートルズ唯一の来日公演時にも高嶋が担当した。

 

 

その後、高嶋は邦楽部門に移り、ザ・フォーク・クルセダーズや黛ジュン、ジローズなどのディレクターを担当、和製ポップスの数々のヒットを世に送り出す。

 

 

1967年2月15日、黛ジュンの再デビュー・シングル“恋のハレルヤ”(作詞:なかにし礼/作曲:鈴木邦彦/編曲:中島安敏)を発売。1968年時点での累計売上は120万枚を記録する。

 

12月25日、ザ・フォーク・クルセダーズの1stシングル“帰って来たヨッパライ”(作詞:フォーク・パロディ・ギャング[松山猛・北山修]/作曲:加藤和彦/編曲:ザ・フォーク・クルセダーズ)を発売、オリコン1位、累計283万枚を売り上げた。

 

 

1968年2月21日、ザ・フォーク・クルセダーズの第二弾シングルとして“イムジン河”(作詞:朴世永/訳詞:松山猛/作曲:高宗漢/編曲:ありた・あきら)を発売予定だったが、レコード倫理審査会の国際親善事項に抵触することに加えて、同年2月19日に朝鮮総連が東芝音楽工業に対し、同曲が「『朝鮮民主主義人民共和国』の歌であること」と「作詞作曲者名を明記すること」を求めてきたため、レコード会社は国交のない北朝鮮の正式名を出すことを躊躇して発売を自粛したという。なお、本楽曲は2002年3月21日にCDリリースされる。

 

3月21日、“イムジン河”の発売中止に伴い急遽製作したザ・フォーク・クルセダーズのシングル“悲しくてやりきれない”(作詞:サトウハチロー/作曲:加藤和彦/編曲:ありたあきら)を発売、オリコン6位のヒットになった。

 

 

1968年8月24日、次女の高嶋 ちさ子(たかしま ちさこ)が生まれる。  

 

 

1969年3月10日、由紀さおりの再デビュー曲“夜明けのスキャット”(作詞:山上路夫/作曲:いずみたく/編曲:渋谷毅)が発売。オリコンにおいて、週間1位、1969年度年間1位を記録、第11回日本レコード大賞・作詩賞を受賞した。この曲のタイトルを命名したのは高嶋である。

 

同年、東芝音楽工業を退職。

 

 

1970年、ニッポン放送系列のレコード会社「(株)キャニオン・レコード」(現:ポニーキャニオン)の設立に尽力し、同社取締役制作部長に就任。

 

 

1976年、キャニオン・レコードを退職後、ポリグラム・グループ(現:ユニバーサルミュージック)に移り、チャペル・インターソング(音楽出版社)社長に就任。その後、ロンドンレコード副社長、ポリドール・レコード(日本法人)常務を歴任した。

 

 

1991年、退職して高嶋音楽事務所を設立。おもにクラシック音楽のアーティストのマネジメントやプロデュース等を手がけて、J-クラシックスの流れを作る。

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「高嶋弘之」

 

 

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