ユービー・レイク(Eubie Blake/本名:James Hubert Blake/1887年2月7日~1983年2月12日)は、アメリカ合衆国の作曲家、作詞家。ラグタイム、ジャズ、ポップスのピアニスト。

 

 

 

1887年2月7日、ジェームズ・ヒューバート・ブレイクは、元奴隷のジョン・サムナー・ブレイク(John Sumner Blake、1838年–1917年)とエミリー・"エマ"・ジョンストン(Emily "Emma" Johnstone、1861年–1927年)の子どもとして、メリーランド州ボルチモアのフォレスト・ストリート319番地で生まれた。8人兄弟だったが、兄弟姉妹はみな幼少期に亡くなっている。

ブレイクは後年、自分は1883年生まれだと主張したが、記録は2003年に出版され始めた。国勢調査、軍事、社会保障の記録、ブレイクのパスポート申請書とパスポートには、彼の誕生年が一律に 1887 年と記載されている。


1894年、家族で引っ越し、父ジョン・サムナー・ブレイクはボルチモア港で港湾労働者として働き、週に9ドルを稼いだ。

 

4歳で音楽を始める。きっかけは、母親と買い物に行った時に楽器店に迷い込んだことだった。店内にあったオルガンで一人遊んでいるところを母親に見つけられたのだが、この時店主から「この子は天才だ!そのような崇高な、神が与えた才能を活用する機会を彼から奪うのは犯罪だ。」 と称賛を受けた。この言葉を信じたブレイク家は75ドルするハーモニウムを週25セントの6年払いというローンを組んで購入した。
 

7歳の時、近所のメソジスト教会のオルガン奏者であったマーガレット・マーシャル (Margaret Marshall)にレッスンを受ける。
 

1895年頃、ボルチモアのイーストストリート200番地にある第2小学校に通っていた時に、将来の妻となるエイビス・エリザベス・セシリア・リーと出会った。

15歳の時、両親に内緒でアギー・シェルトン (Aggie Shelton)の売春宿でピアノを弾き始めた。

1907年、20歳の時、ボクシング世界王者ジョー・ガンズ(Joe Gans)が運営するガンズ・ゴールドフィールド・ホテル(Gans's Goldfield Hotel)のピアニストとして契約。これがブレイクが音楽業界で広く知られるきっかけとなった。

1907~1914年、ブレイクは冬の間ゴールドフィールドでプレーし、夏はアトランティックシティのクラブで演奏した。この期間中、彼はボルチモアでルウェリン・ウィルソンに作曲も学んだ。

 

1910年7月、ブレイクは運転手付きの車を用意して、その中で小学校時代の同級生エイビス・エリザベス・セシリア・リーにプロポーズ、彼女と結婚した。

同年、ブレイクは、ボートハウス・ナイトクラブでの職を見つけていたニュージャージー州アトランティックシティに花嫁を連れて行き、そこで暮らした。

 

1912年、ブレイクは「ジェームス・リース・ヨーロッパ・ソサエティ・オーケストラ」(James Reese Europe's "Society Orchestra")とヴォードヴィルで演奏し始め、バーノンとアイリーンのキャッスル夫妻の社交ダンスに同行した。バンドは非常に人気があったラグタイム音楽を演奏した。

 

 

1914年、「Victor Orchestra」名義で“Chevy Chase Fox Trot”をビクター(Victor)からリリース。

 

 

1915年、“チャールストン・ラグ”(Charleston Rag)が初めて出版される。この曲はブレイク曰く、1899年に楽譜を書けない12歳で作ったものだが、その後に楽譜を書くことを学んだため、この年にようやく出版することができたのだという。

 

 

1916年、「Victor Military Band」名義で“Bugle Call Rag”をビクターからリリース。

 

 

1917年、ブレイクはパテ・レコード・レーベルと契約し、アンピコのピアノ ロールで最初のレコーディングを行った。



1919年、第一次世界大戦が終わると、ノーブル・シスルと「ディキシー・デュオ 」(Dixie Duo)を結成。

 

 

1920年代には、ビクターやエマーソンなど、いくつかのレーベルでレコーディングを行った。

 

 

1921年、相方ノーブル・シスルと組んで作った曲を満載したレヴュー『シャッフル・アロング』(Shuffle Along)の初演を行い、ここからは“I'm Just Wild About Harry”や“Love Will Find a Way”などがヒットした。本作品は、アフリカ系アメリカ人によるブロードウェイ初のヒット・ミュージカル作品となった。

 

 

10月、「Eubie Blake And His Shuffle Along Orchestra」名義で、“Baltimore Buzz/Bandana Days”をビクターからリリース。

 

 

 

1922年、「Paul Whiteman Orchestra」名義で“I'm Just Wild About Harry”をビクターからリリース。

 


1923年、アメリカの発明家であるリー・ド・フォレスト(Lee De Forest/1873年8月26日-1961年6月30日)の開発したフォノフィルム(Phonofilm/「サウンド・オン・フィルム方式」とも言い、無声映画ではない、音の入った映画)の3作品に出演。映画『Noble Sissle and Eubie Blake』からは “Affectionate Dan”、映画『Sissle and Blake Sing Snappy Songs』からは“Sons of Old Black Joe”と“My Swanee Home”、映画『Eubie Blake Plays His Fantasy on Swanee River』からは“Fantasy on Swanee River”がヒットした。最初期のミュージック・クリップとも言えるこれらのフィルムは、議会図書館に保存されている。

 

 

 

 

1930年、“あなたの思い出”(または“メモリーズ・オブ・ユー”/Memories of You/作詞:アンディー・ラザフ/作曲:ユービー・ブレイク)が、ブロードウェイのショー『Lew Leslie's Blackbirds of 1930』の中で初めて歌手ミント・カトー (Minto Cato) により歌われた。レコードとしては、「Duke Ellington, Dick Robertson, and the Cotton Club Orchestra」名義でビクターからリリースされた。

同年、ルイ・アームストロングが、ライオネル・ハンプトンをフィーチャーして“あなたの思い出”のカヴァーを「Louis Armstrong and the Cotton Club Orchestra」名義でOkehにて録音した。このバージョンはポピュラー音楽でヴィブラフォンが用いられたことが知られる最初の例となった。

 

同年、「Bert Lown and the Hotel Biltmore Orchestra」名義で“Loving You the Way I Do”をリリース。

 


1932年、ブレイクはワーナーの短編映画『Pie, Pie Blackbird』にも本人役で出演、シスルやニコラス・ブラザーズ、ニナ・メエ・マッキニー(Nina Mae McKinney)らと共演し、“I'll Be Glad When You're Dead, You Rascal, You”などを演奏した。

 

同年、ブレイクと彼のオーケストラは、映画『ハーレム・イズ・ヘブン』(Harlem Is Heaven)にほとんどの音楽を提供した。

 

 

1938年、妻のエイヴィスが結核と診断された。彼女は同年後半に58歳で亡くなった。ブレイクは「一人っきりになるのがどんなもんか、まったく知らなかったよ。エイヴィスは結核だったから、時間の問題だった」と語った。


第二次世界大戦中にUSOのバンドリーダーを務めていた時、ブレイクはヴァイオリニストのウィリー・タイラーの未亡人マリオン・グラント・タイラーに出会った。


 

1945年、マリオン・グラント・タイラーと再婚。彼女はダンサーでありビジネス・ウーマンでもある女性で、1982年にブレイクが死ぬまで彼のマネージャーを務めた。
 

 

1946年、キャリアが下降線をたどるとニューヨーク大学に入り、2年半で卒業した。

 

1950年代にラグタイムがリバイバルするとブレイクは、ラグタイム奏者、音楽史家、そして教育者として活躍した。

 

20世紀フォックス・レコードやコロムビア・レコードと契約した他、世界中の有名大学で講演し、ジャズやラグのフェスティバルにゲストとして多数出演した。

 

 

1955年、伝記映画『ベニイ・グッドマン物語』 (The Benny Goodman Story)のためにフォー・コインズ (The Four Coins) が録音した“あなたの思い出”のバージョンは、『ビルボード』誌のチャートで22位まで浮上した。

 

 

この頃、有名司会者ジョニー・カーソン(Johnny Carson/1925年10月23日-2005年1月23日)によるNBCのテレビ番組『ザ・トゥナイト・ショー』(The Tonight Show)にしばしばゲスト出演した。

また、レナード・バーンスタイン(Leonard Bernstein/1918年8月25日-1990年10月14日)などの主要な指揮者にフィーチャーされた。

 

 

1969年、回顧アルバム『The Eighty-Six Years of Eubie Blake』がコロムビアからリリース。これを受けて1970年代と1980年代には、ブレイクの音楽に対する世間の関心が再び高まりを見せた。

 

 

1972年1月1日、LP『From Rags To Classics』をリリース。

 

 

1975年までにブレイクは、ラトガース大学、ニューイングランド音楽院、メリーランド大学、モーガン州立大学、プラット研究所、ブルックリン大学、ダートマス大学から名誉博士号を授与された。

 

 

1978年、ブレイクの音楽をフィーチャーし、ノーブル・シスル、アンディ・ラザフ、ジョニー・ブランドン、F・E・ミラー、ジム・ヨーロッパが歌詞を書いたレビュー『ユービー!』がブロードウェイで初演を迎え、アンバサダー劇場で大ヒット、439回公演された。


1979年の誕生日にブレイクは「こんなに長く生きると分かっていたら、もっと自分のことを大切にしたのに」と言ったと伝えられているが、これは他の人物の言葉という説もあり、少なくとも1966年には印刷されていたという。

3月10日、ミュージカル俳優のグレゴリー・ハインズ(Gregory Hines/1946年2月14日-2003年8月9日)とテレビの人気バラエティ番組『サタデー・ナイト・ライブ』(Saturday Night Live)に出演。

 

 

1981年、当時の大統領ロナルド・レーガンより大統領自由勲章を受勲。


ブレイクは10歳から85年間タバコを吸っていた。このため、禁煙運動への反証としてブレイクを使った政治家もいた。こうした連中は主にタバコ生産量の多い州選出の政治家だった。

 

 

1983年2月7日、実際にはこの日96歳を迎えたブレイクだったが、100歳の誕生日を祝うイベントが行われた。彼は生涯、演奏と録音を続けた。

 

 

 

 

1983年2月12日、ユービー・ブレイクがブルックリンで死去。96歳没。誕生日会があった5日後だった。

 

 



彼はニューヨーク州ブルックリンのサイプレス・ヒルズ墓地に埋葬された。

アフリカ大西洋系譜協会の依頼で制作された彼の墓石には「I'm Just Wild About Harry」の楽譜が刻まれている。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ユービー・ブレイク」「Eubie Blake」

 

 

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