バート・ヤンシュ(Bert Jansch/出生名:Herbert Jansch/1943年11月3日~2011年10月5日)は、スコットランドのフォーク・ミュージシャン。フォークロック・バンド「ペンタングル」結成メンバーのひとり。

 

 

 

1943年11月3日、ハーバート・ヤンシュは英国スコットランド最大の都市グラスゴーのスプリングバーン地区にあるストブヒル病院で生まれる。

彼は、元々ドイツのハンブルク出身で、ヴィクトリア朝時代にスコットランドに定住した一族の末裔である。姓は、ほとんどの場合、/ˈjænʃ/ yansh と発音されるが、ヤンシュ自身も、他の家族の何人かと同様に、/ˈdʒænʃ/ jansh と発音していた。

 

ヤンシュは、ウェスト・ピルトンとして知られるエディンバラの住宅街で育ち、ペニーウェル小学校とエインズリー・パーク中学校に通った。

 

10代の頃、彼はギターを手に入れ、ロイ・ゲスト(Roy Guest)が運営する地元のフォーククラブ 「ザ・ハウフ」に通い始めた。その店で彼はアーチー・フィッシャー (Archie Fisher)とジル・ドイル (Jill Doyle/デイビー・グラハムの異母妹)と邂逅。ヤンシュは彼らからビッグ・ビル・ブルーンジー、ピート・シーガー、ブラウニー・マギー(Brownie McGhee)、ウディ・ガスリーなどの音楽を教えてもらった。

また、ロビン・ウィリアムソンとも出会い、アパートをシェアした。後にヤンシュがロンドンに移った後も、ロビンとは友人だった。

 

学校を卒業後、ヤンシュは苗木屋の仕事に就いた。

 

1960年8月、専業ミュージシャンになろうと苗木屋を辞めた。彼はハウフの非公式な管理人に就任し、そこで寝泊まりするだけでなく、ギターを持たない新人演奏家として収入を補うためにいくらかの報酬を受け取っていた可能性がある。

 

その後2年間、彼は英国各地のフォーククラブで一夜限りの演奏を続けた。この音楽の修行で、彼はマーティン・カーシーやイアン・キャンベル (Ian Campbell)など、様々な影響を受けたが、特にアン・ブリッグスから、後に彼のレコーディング・キャリアで大きな役割を果たすことになる曲、“Blackwaterside”、”Reynardine”など、、後の演目の中で重要な位置を占めることとなる楽曲を学んだ。  

 

 

1963~1965年、欧州やその周辺を一人ヒッチハイクで放浪し、バーやカフェへ飛び込み演奏をしたが、モロッコのタンジールで赤痢に感染しイギリスへと送還された。

 

 

活動初期には「英国のボブ・ディラン」と称されることもしばしばあった。しかし必ずしもその通りではなく、バート・ヤンシュの最高の仕事は、ボブ・ディランとは違って歌詞のある楽曲ではなく、常にインストゥルメンタルによるものである。

 

 

1960年代にヤンシュは、ギタリストのデイヴィ・グレアムやアン・ブリッグスらフォーク・シンガーから大きな影響を受け、また、ジョニー・マー、バーナード・バトラー、レッド・ツェッペリン、ニール・ヤングらに影響を与えた。

 

 

1960年代中頃のロンドンではフォーク・ミュージックへの関心が芽生えつつあった。その中、バート・ヤンシュはロンドンへ移り住み、エンジニア兼プロデューサーのビル・リーダー(Bill Leader)に出会った。ビル・リーダーは自宅でバート・ヤンシュの演奏をオープンリール・テープに録音すると、トランスアトランティック・レコーズ (Transatlantic Records)に99ポンドで売った。

 

 

1965年、そのテープから制作されたアルバム『バート・ヤンシュ』(Bert Jansch/旧邦題:若者の不思議な世界)が発表される。

11月11日、2ndソロ・アルバム『自由と魂』(It Don't Bother Me)をリリース。

 

 

1966年9月、3dソロ・アルバム『自画像』(Jack Orion)をリリース。本アルバムに最初の録音が収録された“Blackwaterside”は、アイルランド民謡“Down by Blackwaterside”に独自のギター伴奏を加えたもので、後にこのギター伴奏部分がジミー・ペイジにより “Black Mountain Side”としてレッド・ツェッペリンの1stアルバム『レッド・ツェッペリン I』(LED ZEPPELIN)に収録された。バート・ヤンシュは「有名なロックバンドのよく知られているやつがその演奏を持っていったんだ。自分達の録音にそのまま使っているよ」と話している。

 

 

ロンドンではジョン・レンボーン(彼とはロンドン北部にあるキルバンのフラットで共同生活をしていた)、デイヴィ・グレアム、ポール・サイモンら、革新的なアコースティック・ギタープレイヤーとも出会う。そして、オールド・ブロンプトン通りのトゥルバドール (The Troubadour)や、ソーホーのグリーク街にある「レ・クザン」(Les Cousins)など、あちこちのクラブに集まり演奏をした。

ジョン・レンボーンはトテナム・コート通りに「蹄鉄フォーククラブ」(Horseshoe Folk Club)を開く。ここでレンボーンとヤンシュは一緒に演奏し、2本のギターが複雑に絡み合う演奏様式を生み出した。これはしばしば「フォーク・バロック」と称されている。

同年、ヤンシュがレンボーンと2人で制作したアルバム『華麗なる出会い』(Bert and John)では、このフォーク・バロック様式が極めて顕著に示されている。ジャッキー・マクシーが2人のギタリストと歌い始めたのも蹄鉄フォーククラブであった。

 

 

 

1967年、ソロ・アルバム『ニコラ』(Nicola)をリリース。

 

同年、蹄鉄フォーククラブに、ダニー・トンプソン(CB)とテリー・コックス(Ds)が参加する形で、 フォークロック・バンド「ペンタングル」 (Pentangle) が誕生。

 

 

1968年、ヘザー・シューウェルと結婚。この時はまだ芸術を志す学生であった彼女は、後に彫刻家ヘザー・ヤンシュとして有名なになる。バート・ヤンシュは何曲かの歌と器楽曲が彼女との出会いにより生まれ、特に1969年のアルバムの“Miss Heather Rosemary Sewell”や“Birthday Blues”、1971年のアルバム『ローズマリー・レーン』のインスト・ナンバー“M'Lady Nancy”も名前は違うがヘザーのために書いたと言っている。

同年、ペンタングルの最初のメジャーなコンサートがロイヤル・フェスティバル・ホールで開かれる。

同年、ペンタングルはシングル"Travellin' Song"/"Mirage"をリリース。

 

5月、最初のアルバム『ペンタングル』(The Pentangle)を発表、全英アルバム・チャート21位をマークした。ここからは"Let No Man Steal Your Thyme"/"Way Behind The Sun" をシングル・カットした。

 

 

ヤンシュはソロ活動よりもバンドのために時間を割き、海外ツアーとアルバム制作という大変な仕事に取り組んだ。ペンタングルはフォーク・ミュージック・グループと捉えられていたが、トラディショナルな曲よりも自分たち自身の作品を多く演奏し、ヤンシュが多くの作曲を担当した。

11月、2ndアルバム『スウィート・チャイルド』(Sweet Child)をリリース。

 

 

1969年1月、ソロ・アルバム『バースデイ・ブルース』(Birthday Blues)をリリース。 “Birthday Blues”、“Miss Heather Rosemary Sewell”収録。

 

 

10月に発表したペンタングルの3rdアルバム『バスケット・オブ・ライト』(Basket of Light) は初のトップ10入りとなる全英5位に達し、商業的にも成功した。このアルバムからは、"Once I Had a Sweetheart"/"I Saw an Angel"がシングル・カット、全英シングル・チャート46位に入った。また、収録曲“Light Flight”は、BBCのTVドラマシリーズ『Take Three Girls』のテーマ音楽に使用されて話題となり、こちらもシングル・カット、全英43位を記録している。続けて本アルバムからは、“Sally Go Round The Roses”と“House Carpenter”も使用された。

 

 

 

 

 

 

1970年、ペンタングルは同業のフォークロック・バンド「フェアポート・コンヴェンション」の活動に喚起されて制作した4thアルバム『クルエル・シスター』(Cruel Sister)を発表、全英51位を記録した。このアルバムはトラディショナルソングで構成され、20分近くに及ぶ大作“Jack Orion”は、ヤンシュとレンボーンが以前デュオとして活動していた頃にも録音されているが、それを再アレンジしたものである。また「電気楽器は使わない」という暗黙のルールを破り、レンボーンはエレクトリック・ギターを演奏した。 

 

 

 

1971年の5thアルバム『リフレクション』(Reflection)では、トラディショナルとオリジナルのミックスというバンド初期の様式に戻った。

 

6月、ソロ・アルバム『ローズマリー・レーン』(Rosemary Lane)をリリース。ジャケットのアートワークは妻のヘザー・ヤンシュが手掛けた。

 

 

1972年、続いて6thアルバム『ソロモンの封印』をリリースしている。

 

 

1973年初め、ヤンシュが脱退を表明、これに伴いペンタングルは解散した。

同年、ソロ・アルバム『ムーンシャイン』(Moonshine)をリリース。

その後ヤンシュは、妻とともにウェールズのランピーター近くに農場を手に入れ、公演活動からは一時身を引いた。ヤンシュがシーンから離れている間、台頭したギタリストのデイブ・エリス (Dave Ellis)が「新バート・ヤンシュ」と呼ばれるようなこともあった。

 

 

ヤンシュはウェールズで2年間、農民として過したが、その後、妻と家族の元を離れて音楽へと戻った。

 


1977年にマイク・ピゴット (Mike Piggott)、ロッド・クレメンツ (Rod Clements)、ピック・ウィザーズ (Pick Withers)とアルバム『A Rare Conundrum』を制作する。

 

その後、さらにマーティン・ジェンキンズ (Martin Jenkins/Vl)とナイジェル・スミス (Nigel Smith/ B)が加わる形で、バンド「コナンドラム」(Conundrum/「難問」の意)を結成した。

 

 

1980年、「バート・ヤンシュ・コナンドラム」名義で唯一のアルバム『Thirteen Down』をリリースした。

 

コナンドラム、、オーストラリア、日本、アメリカへと、6ヶ月かけてツアーを行った。公演旅行を終えた後、コナンドラムは解散した。

 

 

その後、ヤンシュはアメリカで6ヵ月を過ごす。

そしてイングランドに戻ると、フルハムのニューキングズ通りに「Bert Jansch's Guitar Shop」を開いた。

 

 

1981年、ペンタングルの元メンバーは久しぶりに顔をそろえ、バンド再結成の話し合いを持った。

 

 

1982年、ヤンシュはアルバート・リーとアルバム『ハートブレイク』(Heartbreak)をリリースした。

 

同年からペンタングルは活動を再開する。しかし再結成した早々、ジョン・レンボーン(G)が離脱。代わりにマイク・ピゴット(G/Vio)が加入する。

 

 

1985年、ソロ・アルバム『From the Outside』をリリース。

 

同年、ペンタングルは新メンバーにピゴットを迎えたラインナップで、13年ぶりのアルバム『オープン・ザ・ドア』(Open the Door)をリリース。以降、メンバーの変遷を経ながらも、コンスタントに作品をリリースする。

 

 

1986年、8thアルバム『イン・ザ・ラウンド』(In the Round)をリリース。ここからは2枚のシングル、"Play the Game"/"Saturday Movie" と、"Set Me Free"/"Come to Me Easy"をカットした。

 

 

 

1989年、9thアルバム『早春賦』(So Early in the Spring)をリリース。

 

 

1990年、ヤンシュは2枚のソロ・アルバム、『Sketches』と『Ornament Tree』をリリースした。

 

 

 

1991年、10thアルバム『Think of Tomorrow』をリリース。

 

 

1993年、11thアルバム『One More Road』をリリース。

 

 

1994年、ヤンシュがソロ活動を優先するため離脱し、創設メンバーがジャッキー・マクシー(Vo)だけになり、ここで一旦オリジナル・ペンタングルとしては終了する。

 

 

1995年、ソロ・アルバム『ホェン・ザ・サーカス・カムズ・トゥ・タウン』(When the Circus Comes to Town)をリリース。

 

以降、ヤンシュはロンドンのデンマーク通りにある「12 Bar Club」でしばしば演奏した。そこでのライヴの模様をマネージャーがDATで録音しており、アルバム『Live at the 12 Bar: An Authorised Bootleg』として1996年に公式に発表する。

 

 

1998年、ソロ・アルバム『Toy Balloon』をリリース。

 

 

2000年、ソロ・アルバム『Crimson Moon』をリリース。バーナード・バトラーがゲスト参加した。

 

 

2001年のBBC RADIO 2のフォーク・アウォーズ(Folk Awards )では、ライフタイム・アーカイブメント・アウォード (Lifetime Achievement Award/「生涯の功績を称える賞」の意)を受賞した。

 

 

2002年にヤンシュは、バーナード・バトラーやジョニー・"ギター"・ホッジ (Johnny "Guitar" Hodge)と一緒に、ロンドンのジャズカフェで生演奏をした。

同年、ソロ・アルバム『エッジ・オブ・ア・ドリーム』(Edge of a Dream)をリリース。前昨に引き続き、バーナード・バトラーがゲスト参加、"I Cannot Keep from Crying"で錆色のスライドギターを添えた。また、収録曲"All This Remains"ではホープ・サンドヴァルがソングライティングと霊的なヴォーカルに貢献した。

 

 

 

 

2003年の映画『カレンダー・ガールズ』のサウンドトラックにて、『エッジ・オブ・ア・ドリーム』収録曲の“Black Cat Blues”が使用された。

 

 

2005年には、活動初期に影響を受けたデイヴィ・グレアムと再び組んで、短期ツアーをイングランドとスコットランドで開いている。

 

 

2006年、ソロ・アルバム『ブラック・スワン』(The Black Swan)をリリース。ベス・オートンやデヴェンドラ・バンハートがゲスト参加し、ヤンシュは同作でソロ名義としては自身初、そして唯一の全英トップ100アルバムチャート入り(最高99位)を果たした。結果的にヤンシュの生涯最後のスタジオ・アルバムとなった。

 

 

 

2007年、久々にペンタングルのオリジナル・メンバーが集結し、BBC主催表彰式に出席。

 

 

2008年、前年の再集結を契機として、ペンタングルはヤンシュのデビュー40周年を記念し、再結成ライヴ・ツアーを開催する。

 

 

2011年にもバンドはライヴ公演を実施する。

これがヤンシュが参加した最後のペンタングルの活動となった。

 

 

 

 

2011年10月5日、バート・ヤンシュことハーバート・ヤンシュが、肺癌で長い闘病生活を送った後、英国ロンドン北部ハムステッドのホスピスにて死去。67歳没。

12月9日、妻のローレン・ヤンシュ(旧姓:アウアーバッハ)も後を追うように癌で亡くなった。

2人ともハイゲート墓地に埋葬されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「バート・ヤンシュ」「Bert Jansch」「ペンタングル」「Pentangle (band)」

 


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