ヒタ・リー(Rita Lee/出生名:Rita Lee Jones/1947年12月31日~2023年5月8日)は、ブラジル連邦共和国のロック歌手、作曲家。

 

 

 

1947年12月31日、ヒタ・リー・ジョーンズは、新憲法制定直後のブラジル合衆国(現:ブラジル連邦共和国)のヴィラ・マリアナ(サンパウロ地区)で、南部連合の血を引くアメリカ系ブラジル人で歯科医の父チャールズ・フェンリー・ジョーンズと、イタリア系ブラジル人でピアニストの母ロミルダ・パドゥーラの間に誕生。

 

彼女は有名ピアニストのマグダレーナ・タリアフェッロにクラシックピアノを師事。

彼女は伝統的な思春期のデビューである舞踏会の代わりにドラムセットを希望した。

リーはフランス語学校で教育を受け、スペイン語、フランス語、イタリア語に加え、母国語のポルトガル語と両親が家庭で話している英語も流暢に話せるようになった。

彼女は人気女優のレジーナ・ドゥアルテのクラスメートの一人として大学に進学したが、音楽のキャリアを追求するためにすぐに中退した。

 

1966年、リーはアルナルド・バチスタ(Arnaldo Baptista/B,Key,Vo)とセルジオ・ヂアス(Sérgio Dias/本名:セルジオ・ヂアス・バチスタ/G,Vo)の兄弟と出会い、バンド「オス・ムタンチス」(Os Mutantes)を結成。バンド名は、SF小説の『O Planeta Dos Mutantes』が由来。「Os」はポルトガル語の定冠詞で、英語の「The」に相当、これを省略して単に「ムタンチス」とも表記・呼称する。

 

 

1966年にシングル「Suicida」でデビュー。

 

 

1968年、リーは、ムタンテ・アルナルド・バプティスタと結婚。二人の結婚関係は1972年まで続いた。

6月、バンドはサイケデリック・ロック色の強いセルフ・タイトルの1stアルバム『Os Mutantes』を発表。ここから、シングル"A Minha Menina"/"Adeus, Maria Fulô"と"Baby"をカット。

 

 

 

 

同時期に、カエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジル、ガル・コスタ、ナラ・レオン、トン・ゼー等とともに、トロピカリア・ムーヴメントを代表するコラボレーション・アルバム『Tropicalia: ou Panis et Circenses』に参加。

同年、ジルベルト・ジルの2ndアルバム『Gilberto Gil』にも参加した。

同年秋、歌謡フェスティバルの予選にて、カエターノ・ヴェローゾが“É Prohibido Proibir”(「禁ずることを禁ずる」の意)というプロテスト・ソングを歌った際、ムタンチスがバック・バンドを務めたが、保守層の学生達からブーイングが起こるというハプニングもあった。

 

 

1969年、フランスのカンヌで行われたMIDEMに出演。

同年、2ndアルバム『Mutantes』発表。


1970年、リミーニャが加入してバンドは4人編成となり、サード・アルバム『A Divina Comédia ou Ando Meio Desligado』発表。ここからは"Ando Meio Desligado" がシングルとして先行リリースされた。

 

同年、ヒタ・リーが初のソロ・アルバム『Build Up』発表。

 

同年、バンドはヂーニョ・レーミを迎えて5人編成となった。

11月、イギリス人プロデューサーのカール・ホームズとともに、英語詞のアルバム『Tecnicolor』をパリで録音する。しかし、同作は諸事情により発表は見送られた。

 

 

1971年には、本来『Tecnicolor』で発表される予定だった楽曲も含むアルバム『Jardim Elétrico』を発表。

 

 

1972年、“Balada do Louco”収録のアルバム『ボーレの国のムタンチスと流れ星たち』(Mutantes e Seus Cometas no País do Baurets)をリリース。これがリー在籍時にバンドが出した最後の作品となった。

 

 

同年末、リーはバンドを脱退、ソロとしてのキャリアをスタートさせた。

 

その間リーは最初の2枚のソロ作品もリリースしたが、これらのレコードはオス・ミュータンテスのメンバーと一緒に制作されたものである。

 

 

彼女は当初、歌手ルシア・ターンブルとの女性デュオ「シリブリーナス・ド・エデン」の一員であったが、しばらくしてこのデュオは、後に「トゥッティ・フルッティ」(Tutti Frutti)という名前でリーのバック・バンドとなるバンド「リゼルジア」と出会った。

 

 

1974年、バンドは1stアルバム『Atras do Porto Tem Uma Cidade 』(「港の後ろに街がある」の意)をレコーディングし、“Mamãe Natureza”、“Menino Bonito”、“Pé de Meia”などの素晴らしい曲を収録した。

 

 

 

 

1975年、彼女はバンドと一緒にソロ・アルバム『Fruto Proibido』をレコーディングした。このアルバムは批評家から賞賛され、当時のブラジルのロックンロール歌手の記録である20万枚以上を売り上げ、リーには「ロックの女王」の称号が与えられた。 『ローリング・ストーン』誌ブラジル版は2007年、本アルバムを「ベスト100リスト」のブラジル史上最高となる16位にランク付けした。プロデューサーは、アリス・クーパーのプロデューサーであり、当時リーのボーイフレンドだったアンディ・ミルズが担当。ここからは、"Agora Só Falta Você"がブラジル2位、"Esse Tal de Roque Enrow"がブラジル4位、"Ovelha Negra"がブラジル1位をマークした。

 

 

 

 

 

1976年、リーはMPB歌手のネイ・マトグロッソの紹介でギタリストのロベルト・デ・カルヴァーリョと結婚、公私ともにパートナーとなった。仕事面では、その後の多くのアルバムで「リー/カルヴァーリョ」というデュオの名でクレジットされた。私的な面ではベト・リー、ジョアン・リー、アントニオという3人の子どもが生まれた。

同年、初めて妊娠したリーは、マリファナ所持で逮捕され、1年間の自宅禁固を言い渡された。彼女は特別な司法許可の下で演奏を続けた。

その後すぐに、彼女は歌手エリス・レジーナとシングル“ドーセ・デ・ピメンタ”をレコーディングし、ジルベルト・ジルとショー兼アルバム『レフェスタンサ』をレコーディング、ツアーを行った。

 

 

1977年、パウロ・コエーリョと作曲したシングル“アロンブー・ア・フェスタ” (Arrombou a Festa)をリリース、20万枚を売り上げ、ブラジル1位をマークした。

 


1978年、彼女はトゥッティ・フルッティとの4枚目にして最後のアルバム『Babilônia』をリリース、ブラジル5位になった。ここからは、"Agora é Moda"がブラジル11位になった。

 

 

トゥッティ・フルッティとの最後の作品は、バンドのメンバー間の意見の相違の後に生まれた。ギタリストのルイス・カルリーニはバンドを脱退し、トゥッティ・フルッティという名前を引き継いだ。

リーとバンドの残りのメンバーは「リタ・リー&カエス・エ・ガトス」という名前でツアーを終えた。

リーは夫のロベルト・デ・カルヴァーリョとともにレコーディングを開始した。

 

 

1979年、セルフ・タイトルのアルバム『Rita Lee』をリリース。

 

同年、アルバムからカットした“Mania de Você”と"Chega Mais"が、ともにブラジル1位をマークした。

 

 

 

1980年、“Lança Perfume”がブラジル2位・アルゼンチン2位・ウルグアイ3位・フランス1位・米ダンス・チャート70位、また、"Baila Comigo"がブラジル1位・アルゼンチン4位・スペイン7位を記録した。

 

 

 

1981年、“Saúde”がブラジル1位を記録。

 


1982年9月、アルバム『Rita Lee & Roberto de Carvalho』をリリース。ここからは、“Flagra”がブラジル1位、"Cor de Rosa Choque"がブラジル3位を記録。

 

 

 

 

1983年、"Desculpe o Auê"がブラジル8位、“On the Rocks”がブラジル50位などがヒットした。

 

 

1986年、音楽のキャリアとは別に、リーはブラジルのラジオでユーモア番組『ラジオ アマドール』を9か月間担当し、ブラジルの映画やテレビ番組に出演した。

同年、リーは3冊の児童書を執筆した。

 

 

1987年、“Pega Rapaz"がブラジル33位・ポルトガル5位、"Sassaricando"がブラジル80位・ポルトガル1位を記録した。

 

 

 

1989年の映画『Better Days Ahead』でリーは女優としてデビュー。

同年、スポークン・ワード・アルバム『ペドロ・エ・オ・ロボ』(Pedro e o Lobo)をリリース。

 

 

1990年、彼女は MTV Brasil で『 TvLeeZão』 (ポルトガル語で「テレビ」を意味する「televisão」をもじったもの) と呼ばれる自身のトーク・ショーを開始した。

 

 

1991年、ライヴ・アルバム『Bossa 'n' Roll』をリリース、ブラジル5位をマークした。

 

 

1996年、"Vítima"がブラジル37位。



2001年、ビートルズの楽曲の数々をボサノヴァで味付けしたカヴァー集『Aqui, Ali, Em Qualquer Lugar」をリリース。

 

 

 

2002年の映画『Durval Discos』にリーは短期間カメオ出演した。

2002~2004年、彼女はブラジルのケーブルテレビのトーク番組『サイア ジュスタ』

の司会を務めた。

 

 

2003年10月、ソロ・アルバム『Balacobaco』をリリース、ブラジル8位・ポルトガル17位。ここからは、“Amor & Sexo"がブラジル9位に入った。

 

 

 

2005年に、彼女と夫は『マダム・リー』という新しいトーク番組を始めた。

 

 

2006年、ムタンチスが再結成したが、リーはこれを「老人の治療費を稼ぐため」の試みだと言って非難、参加を拒否した。

 

 

2008~2009年、彼女は「Pic Nic Tour」と呼ばれる新しいショーを行った。 

 

 

2010年、彼女は「Etc...Tour」と呼ばれる別の新しいショーを行い、彼女の長いキャリアの中で忘れられていたいくつかの曲を再演した。

 

 

2011年、リーは2枚の新しいアルバムのプロデュースとレコーディングを開始した。 1つ目は未発表の新曲を収録したもので、2つ目は「Bossa'n Movies」と呼ばれ、1991年の「Bossa'n Roll」と「Bossa'n Beatles (Aqui, ali, em qualquer lugar)」から始まったプロジェクトを継続したものである。

同年、彼女は Red Hot Organization の最新慈善アルバム『Red Hot+Rio 2』に楽曲“Pistis Sophia”を提供した。同アルバムは1996年の『Red Hot + Rio』の続編で、売上からの収益は、エイズや関連するその他の健康問題や社会問題と闘うための意識と資金を高めるために寄付された。

 

 

2012年、アルバム『Reza』をリリース、タイトル・トラック"Reza"がブラジル71位、"Tô um Lixo"がブラジル98位に入った。

 

 

 

 


2023年5月8日、ヒタ・リーはサンパウロの自宅で死去。75歳没。彼女は亡くなるまで1年以上肺がんの治療を受けていた。

 

ルル・サントスやスクサ・メネゲルなどのブラジルのミュージシャンや有名人、ブラジルのルイス・イナーシオ・ルーラ・ダ・シルバ大統領や閣僚らを含む政治家らは彼女の死を悼み、リーを讃えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「Rita Lee」「ムタンチス」「Os Mutantes」

 

 

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