エディ藩(エディ ばん/英語表記:Eddie Ban/本名:潘 廣源/1947年6月22日~)は、日本で活動するギタリスト、ヴォーカリスト。

 

 

 

1947年6月22日、潘 廣源が神奈川県横浜市山下町で誕生。実家は中華料理の老舗・名店「鴻昌」(現在は閉店)。なお、ザ・ゴールデン・カップスのメンバーはデビュー時に所属事務所から1歳サバを読むように指示されていたため1946年生まれの可能性がある。ギタリストの李世福(1951年-)はインタビューでエディ藩のことを5歳年上だと話している。また、日本に帰化したという情報もある一方で、華人、華僑だとする情報もあり、現状の特定は困難だ。また、出身は台湾説や香港説もある。


小学校はインターナショナル・スクールのセント・ジョセフ・カレッジ(2000年に廃校)に通う。この時代に洗礼を受け、洗礼名「エドワード」を与えられる。これが後の芸名「エディ」の元となる。

中学校は関東学院中学校に入学し、この頃からギターに興味を持つ。

香港で高価なギター機材を買い揃えたこともあり、音楽仲間が増えて、後にゴダイゴのマネージャーとなるジョニー野村(1~2歳年上)らと知り合う。

この頃、「シャドウーズ」というバンドを結成。

高校は関東学院高等学校に通い、音楽活動を続ける。ジョニー野村らと「ザ・ファナティックス」を結成して注目を集める。同バンドには一時期平尾時宗(デイヴ平尾/2~3歳年上)も在籍していた。

 

1965年当時、横浜ではいくつものアマチュアバンドが結成され、ダンスパーティーやイベント等に活動の場を求めていた。ファナティックスの他、デイヴ平尾がヴォーカルを担当していた「スフィンクス」は、ともにアマチュアながら当時の横浜を代表するバンドであり、東京から音楽関係者が足を運んで聴きに来る程で、ファナティックスは芸能プロからスカウトを受けていた。デイヴ平尾とはこの頃に知り合っている。


なお、エディの高校に関してはセント・ジョセフ・カレッジに転校したという情報もあるが、後に関東学院大学へ進学していることから転校せずにそのままだった可能性もある。もしかすると、エディ藩が通っていた小学校がセント・ジョセフ・カレッジだったのと、ジョニー野村とザ・ファナティックスの初期メンバーであった聘珍樓の林康弘の二人がともに高校まで通っていたのがセント・ジョセフ・カレッジだったので、それらが混同したのかもしれない。また、同じ横浜出身の中華系ギタリスト陳信輝や李世福との関係が「先輩」や「後輩」で語られることに起因して、中華学校や武相高校に在学していたと書かれたこともあった。実際、李世福はインタビューでエディ藩が中華学校の先輩だと答えている。


1966年、高校卒業を機にザ・ファナティックスは解散。

4月、関東学院大学に入学したが、大学は学生運動が盛んで休講が多かったことから、音楽知識を吸収するとともに音楽的技術を磨くために渡米。なお、米国行きに際して父親と「旅行から帰ったら音楽を辞めて料理人になる」と約束していた。実際には藩は音楽シーンの見聞を広める事と、新しい楽器を買うために米国へ渡ったが、サンフランシスコで行われた「ゼム」(Them)のライヴ会場で平尾と偶然再会する。

11月、平尾が帰国。高校時代の友人と横浜・本牧のレストランバー「ゴールデン・カップ」を訪れた際、オーナーの上西四郎から店の専属バンドを探していると言われる。平尾はスフィンクスに復帰したが、アメリカで当時最先端の音楽に触れてきたばかりの平尾にはバックの演奏が物足りなく感じた。そこで、「人前に立つなら腕利きのメンバーを集めよう」と考えた平尾は新バンドを結成するべく、米国で再会した藩に声をかけ、藩はケネス伊東を誘った。当初はベースに伊東、ドラムスにジョニー野村を据える予定だったが、野村は既にプロモーターを志し国際基督教大学に進学していたため、平尾の渡米中スフィンクスのヴォーカルを代行していた三枝守が経験の浅いドラムスを担当、さらに三枝が同じ高校の一学年先輩で「テイク・ファイヴ」のギタリストだった加部正義を誘った。ただしゴールデン・カップスでは既に伊東がギターに決まっていたので、加部はベース担当として加入した。

12月3日、上記5人のメンバーで「平尾時宗とグループ・アンド・アイ」として活動をスタート。エディはリード・ギター担当としてバンド初期の中心的存在となる。

12月10日、ゴールデン・カップに来店していたカミナリ族(現在でいう暴走族のはしり)の「ナポレオン党」を取材していたTBSの撮影スタッフの目にとまり、『ヤング720』でテレビ初出演を果たす。

 

 

1967年、テレビ出演をきっかけに口コミで評判が広がり、妹から話を聞いた歌手の黛ジュンが、東芝音楽工業(東芝レコード、現:EMIミュージック・ジャパン)の関係者を「ゴールデン・カップ」に連れてきた事を足掛かりとして、デビューが決まる。デビューに際し、グループ・アンド・アイでは分かりにくいためTBS『ヤング720』担当ディレクターの高樋洋子により「ザ・ゴールデン・カップス」へ改名された。また、ハーフは加部だけだったが混血グループという謳い文句で売り出すため、メンバーはそれらしい芸名を付けられ、加部正義が「ルイズルイス加部」とされたのをはじめ、潘も少年期に与えられた洗礼名から「エディ潘」、三枝守は「マモル・マヌー」、リーダーの平尾時宗は「エディ平尾」などと命名された。なお、混血グループという触れ込みで売り出しを図ったのは、東芝音工の意向だとされている。

6月15日、1stシングル“いとしのジザベル”(作詞:なかにし礼/作・編曲:鈴木邦彦)で東芝音工からレコード・デビュー、公称18万枚のヒットを記録。なお、ザ・スパイダースのリーダー田邊昭知も熱心にスカウトに来たが、黛ジュンとの話が先だった為、田邊のスカウトは断った。

 

7月21日、東京のジャズ喫茶「ラ・セーヌ」に初出演。

8月26日、第31回日劇ウエスタンカーニバルに初出場。新人賞を獲得する。

11月15日、2ndシングル“銀色のグラス (Love Is My Life)”(作詞:橋本淳/作・編曲:鈴木邦彦)を発売。B面収録曲“ドゥー・ユー・ノー・アイ・ラヴ・ユー (Do You Know I Love You)”(作詞:ケネス伊東/作曲:エディ藩/編曲:鈴木邦彦)は潘が作曲を手掛けた。

 

 

 

1968年3月10日、1stアルバム『ザ・ゴールデン・カップス・アルバム』を発売。シングルは営業用と割り切り、ジャズ喫茶でのライヴやアルバムでは本来の音楽志向に合わせて、ゼム、ヤ-ドバーズ、ジェームス・ブラウン、オーティス・レディング等R&Bやブルーズ・ロックのカヴァーおよびオリジナルを演奏、グループサウンズの中でも通向けのバンドとして現在に至るまで独自の評価を得ている。

4月1日、3rdシングル“長い髪の少女”(作詞:橋本淳/作・編曲:鈴木邦彦)が発売。オリコン14位、35万枚のセールスを記録し、一躍人気グループの仲間入りをする。

 

7月8日、軍属であった伊東の父親が退職を決意したことからアメリカ国籍でビザの問題が発生した伊東が一時帰国。その後再来日したがワーキング・ビザが取得できず活動休止を余儀なくされた。代わりとしてカップスには、当時高校生ながら天才キーボーディストとして名が知れていたミッキー吉野が加入した。

9月1日、4thシングル“愛する君に”(作詞:なかにし礼/作・編曲:鈴木邦彦)を発売、オリコン13位となる。

 

9月10日、2ndアルバム『ザ・ゴールデン・カップス・アルバム第2集』を発売。

 

GS全盛時代は、ジミ・ヘンドリクス、マディ・ウォーターズ、ジュニア・ウォーカー、クラシックス・フォー、ウィルソン・ピケット、クリーム、ヴァン・モリソン、ポール・バターフィールド、リー・ドーシーらをカヴァーしていた。

10月21日、伊東が復帰。

12月5日、5thシングル“過ぎ去りし恋”(作詞:ケネス伊東/作曲:エディ藩/編曲:村井邦彦)を発売。初めてシングルA面の作詞作曲をメンバーが手掛けた。オリコン89位。

 

 

1969年2月10日、6thシングル“本牧ブルース(Honmoku Blues)”(作詞:なかにし礼作・編曲:村井邦彦)を発売。

 

3月10日、アルバム『ブルース・メッセージ/ザ・ゴールデン・カップス・アルバム第3集』を発売。

 

4月25日、藩と伊東がゴールデン・カップスを脱退し、柳田ヒロ、エディ・フォルトゥノとともに「エディ藩グループ」を結成(第一期)。カップスはギターには加部をコンバートし、後任ベースとして林恵文がザ・ゴールデン・カップスに加入する。

同年秋、フォルトゥノが大麻事件を起こしたため、後任に9月に解散したザ・カーナビーツのドラムス兼ヴォーカルのアイ高野がドラマーとしてグループに加入(第二期)。

同年末、カップスからルイズルイス加部、マモル・マヌー、林恵文が脱退。

 

 

1970年1月1日付で、エディ潘グループから潘と伊東、高野がザ・ゴールデン・カップスに合流、二つのグループが合併する形で潘は古巣のカップスに復帰する。伊東はベースを担当、マモルの後任にはアイ高野が就任、高野にはマモルが使っていたパールのドラムセットが譲られた。

5月5日、新生ゴールデン・カップス初のリリースとして、通算9枚目のシングル“にがい涙/悪魔にだまされた”を発売、この頃はグループ・サウンズの終焉とニュー・ロック台頭の時期を迎えており、GS色を払拭、完全にニュー・ロックのサウンドとなっていた。また、後期カップスではミッキー吉野がアレンジに目覚め、実験的なサウンドに取り組む等音楽的なリーダーシップを取るようになる。

 

8月31日、伊東がカウアイ島で父親の経営するサーフボード。ショップの跡を継ぐため、バンドから完全に脱退。

9月1日、柳ジョージが後任ベーシストとしてカップスに加入。
 

 

1971年1月、吉野が脱退。以降、山崎加入までは4人編成で活動を継続。

1月10日、アルバム『ザ・フィフス・ジェネレーション ザ・ゴールデン・カップス・アルバム8』を発売。

 

7月3日、ジョン山崎(Key)が加入。

10月5日、ライヴ・アルバム『ライヴ!! ザ・ゴールデン・カップス』を発売。

11月5日、10thシングル“人生は気まぐれ/たったいちどの青春”を発売。

 

 

1972年1月1日、ゴールデン・カップスとしての最後の仕事となった沖縄のディスコで、“長い髪の少女”を演奏中、会場内で火災が発生し、柳のベースを除く機材をすべて焼失。

1月2日付でザ・ゴールデン・カップスが正式に解散。

その後、潘はエディ潘グループを再結成(第三期)。

同年末のフラッシュ・コンサートにエディ潘グループで参加する。

 

 

1974年、ブラスを加え、ドラマーにゲーリー渡辺を加えた新バンド「エディ藩とオリエント・エクスプレス」を結成(またはブラス・パート追加などメンバー変更に伴いエディ潘グループからの名称変更)。

6・7月、『エディ藩とオリエント・エクスプレス/その1』を日本コロムビアから発売。また、この頃、シングル“9 O'clock”も発売。

 

 

同年、福島県郡山で行われた「ワン・ステップ・フェスティバル」に出演。永らく伝説的なコンサートとして伝えられていたが、2005年についにこの時の模様を収めたライヴ・アルバムがリリースされた。

 

 

1975年、オリエント・エクスプレスが解散。

 

 

1976年10月、『エディ藩とスーパー・セッション・バンド/ベイサイド・スウィンガー』を日本コロムビアから発売。このアルバムから、“バック・トゥ・チャイナタウン”(Back To China Town)をシングル・カット。なお、この時のスーパー・セッション・バンドのラインナップはほとんど、デビュー時のゴダイゴからタケカワユキヒデを除いた顔ぶれだった。

 

 

 

1977年、“横浜ホンキートンク・ブルース”(作詞:藤竜也/作曲:エディ潘)がレコード化。当初は「ヨコハマ・ホンキートンキー・ブルース」というタイトルであった。作詞は俳優の藤竜也。本曲は松田優作をはじめ、原田芳雄、宇崎竜童、尾藤イサオ、石黒ケイ、そして作詞を手掛けた藤竜也もセルフ・カヴァー。さらに、後には山崎ハコ、ダイアモンド☆ユカイ、日野美歌など、他ジャンルの歌手にも歌われた、エディ潘の代表曲である。

 

 

1979年8月28日、日本青年館で開催された平尾のソロ・コンサート「デイヴ平尾と仲間たち」に、藩、加部、マモル、吉野、高野、柳が出演し、さながら同窓会のような雰囲気の中で往年のカップス・ナンバーを披露、当日のみの再結成が実現した。

 

 

1980年代初頭、潘は竹田和夫&クリエイションとともに松田優作のレコーディングやライヴのサポート等も行っていた。なお、この頃松田が“横浜ホンキートンク・ブルース”をカヴァーしている。

同年末、「松田優作&エディ藩グループ」として内田裕也主催の「ニュー・イヤー・ロック・フェスティヴァル」に出演。

 

 

1981年12月5日、横浜シェルガーデンで行われたライヴ「ゴールデン・カップス・ワンナイト・セッション」で、当日のみの再結成。この時のラインナップは、平尾、藩、加部、吉野、高野。 

 

 

1982年2月、ソロ・アルバム『ブルー・ジェイド』を東芝EMIから発売。シングル・カットした“ルート66”、“スーザン”や、80年代最後のシングルとしてリリースされた“横浜ホンキートンク・ブルース”も収録。

 

 

 

 

 

7月20日、横浜市民ホールで開催された藩のソロ・コンサート「エディ藩と仲間達」に、平尾、加部、吉野、高野が出演し数曲を披露、前年と同じ顔ぶれでの当日のみの再結成が実現した。

10月、ソロ・アルバム『ネオン・シティ』を東芝EMIから発売。“ハート・エンド・シティ” 等を収録。

 

 


1980年代中盤~1990年代中盤、「鴻昌」の経営に注力して音楽活動を控えていた。

 

 

1989年6月10日、横浜アリーナでのライヴ「タイガース・メモリアル・クラブ・バンド」にて、当日のみのゴールデン・カップスが再結成。メンバーは平尾、藩、マモル、加部、吉野、高野。

 

 

1990年代後半から音楽活動を本格的に再開。

 

 

1997年3月2日、ケネス伊東が死去。

同年、シングル“丘の上のエンジェル”(作詞:山崎洋子/作曲:エディ潘)を発売。この曲は、根岸外人墓地に慰霊碑が建立される際、建立を企画した山手ライオンズクラブが潘に依頼して出来たという。

 

 

1999年、“天使はブルースを歌う”を発表。

 


2002年12月、ゴールデン・カップスの本格的な再結成と、映画『ザ・ゴールデン・カップス・ワンモアタイム』の製作が決定。
 

 

2003年5月1日、原宿クロコダイルにてウォームアップ・ギグを実施。

5月4・6日、横浜club Matrixにて映画撮影用ライヴ「THE GOLDEN CUPS MAXIMUM R&B LIVE 2003」を行う。ラインナップは、平尾、藩、加部、マモル、吉野の5人に、サポート・メンバーとして、樋口晶之Ds、スティーブ・フォックスB、中村裕介Gの3人を迎えた。

8月9日、NHK『思い出のメロディー』に出演。
 

 

2004年7月24日、横浜赤レンガ倉庫にて、映画完成ライヴ・イベント「ONE MORE TIME LIVE SESSION 2004」を行う。

7月25日、横浜赤レンガ倉庫にて、映画『ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム』先行完成披露上映会を行う。

9月18日、福島の『いわき街なかコンサート 前夜祭』に出演。

10月10日、渋谷公会堂にて、ライヴ「THE GOLDEN CUPS MAXIMUM R&B LIVE 2004」を行う。

11月、Roxvoxをバックにアルバム『Another Better Day』を発売。

11月20日、映画『ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム』が一般公開される。

 

※これらの他に、2004年から2005年にかけて各メンバー(平尾、藩、加部、マモル、吉野)が個別に本牧ゴールデン・カップにてライヴを実施、トリの平尾のライヴにはメンバー全員が出演した。

 

 

2006年4月1日、急性心不全でアイ高野が死去。

同年、鴻昌が閉店、潘は本格的に音楽活動を再開する。

 

 

2007年、潘の還暦とデビュー40周年を記念して、3年振りのアルバム『60-40スペシャル』を発売。

6月22日、潘の還暦とデビュー40周年の記念ライヴ「60-40 Special」を横浜ブリッツにて開催、盟友の中村裕介&ROXVOXをはじめ、ザ・ゴールデン・カップス時代からの付き合いの柳ジョージやミッキー吉野ら豪華なゲストを迎え、大成功を収めた。

11月13日、渋谷DUO music exchangeにて、ライヴ「THE GOLDEN CUPS 40th Anniversary Live 'BLUES MESSAGE'」を開催、高野と鈴木ヒロミツを追悼するイベントでもあった。
 

 

2008年11月10日、食道がん療養中に心不全でデイヴ平尾が死去。

11月28日、後楽園JCBホールにて、ライヴ・イベント「デイブ平尾追悼ライブ」(当初は「THE GOLDEN CUPS×G.S. SUPER UNIT LIVE SPECIAL 2008」として実施予定であったが急遽趣旨が変更された。)を行う。
 

 

2009年1月25日、横浜の大型レストラン「タイクーン」にて、長尺のライヴイベント「THE GOLDEN CUPS PRESENTS 追悼 デイヴ平尾 トリビュートパーティー」を開催、メンバーはもちろん、 旧知のCHIBO、陳信輝、林恵文、CHAR、ジョニー吉長、金子マリ、難波弘之、浅野孝己、石間秀機、篠原信彦、沢田研二、岸部一徳、ザ・カーナビーツ、ザ・ジャガーズ、小川ヒロ、近田春夫らも参加、平尾と高野を偲んだ。

6月12日、神戸チキンジョージにて、再結成後初の関西ライヴ「THE GOLDEN CUPS LIVE@KOBE CHIKEN GEORGE」を行う。

11月10日、横浜BLITZにてライヴ「THE GOLDEN CUPS 横浜公演 2009」を開催。残った4人と樋口とスティーブがサポート、さらにベースで林が数曲参加する。

 

 

2010~2018年、本数は少ないながらも毎年ライヴを行う。
 

 

2011年10月10日、腎不全で柳ジョージが死去。
 

 

2017年7月29日、「フジロックフェスティバル」に出演。
 

 

2020年9月1日、心筋梗塞でマモル・マヌーが死去。
9月26日、多臓器不全でルイズルイス加部が死去。
 

 

2022年9月25日、バンド結成55周年記念ライヴ「55th ANNIVERSARY THE GOLDEN CUPS AT LAST」を恵比寿ザ・ガーデンホールにて行う。多数のゲストを迎えて藩と吉野が出演。ここで一旦ゴールデン・カップスの活動にピリオドを打つ。

 

 

2023年に公開された、藤竜也主演映画『高野豆腐店の春』のエンディング・テーマを担当。

 

 

2024年2月12日、横浜・関内ホールにてアンコール・ライヴを行う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「エディ藩」「ザ・ゴールデン・カップス」

 

 

 

 

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