鈴木 ヒロミツ(すずき ひろみつ/本名:鈴木弘満[読み同じ]/旧名:鈴木ひろみつ/ 1946[昭和21]年6月21日~2007[平成19]年3月14日)は、日本の歌手、俳優、タレント。ザ・モップスのヴォールとして有名。

 

 

 

1946年6月21日、鈴木弘満は満州で生まれた。

その後、引き上げて東京都文京区の旧:小日向台町で育つ。 

私立芝高等学校卒業。武蔵大学経済学部中退。

 

1966年、埼玉県で星勝 (ほし かつ/1948年8月19日~/G,Vo)、三幸太郎 (みゆき たろう/1950年2月13日~/リズムG)、村上薫 (むらかみ かおる/1948年6月28日~/B)、スズキ幹治(すずき みきはる/1948年3月26日~/Ds)の四人によりインストゥルメンタルバンド「チェックメイツ」が結成される。

その後、スズキ幹治の実兄である鈴木ヒロミツ(弘満)がヴォーカリストとして加入し、五人編成になり本格的な活動を開始。アニマルズのエリック・バードンに心酔するヒロミツの「黒っぽいロック」、ブルーズ・ロックを指向する。

バンド名の由来や理由は「(メンバーの)頭髪がモップみたいだった」、「人々の心を音楽でモップのように綺麗にしてあげたい」等と、ヒロミツは後年説明している。なお、ヒロミツはモップス時代、「鈴木ひろみつ」や「鈴木博三」とも表記。

 

 

1967年、都内のゴーゴー喫茶などで活動中にスカウトされ、ホリプロと契約。

同年11月10日、日本ビクターよりシングル“朝まで待てない”/“ブラインド・バード”(いずれも作詞:阿久悠/作・編曲:村井邦彦)でデビュー。

 

 

いわゆるアイドル的人気のグループサウンズ(GS)とは異なり、モップスは主としてジャズ喫茶、米軍キャンプなどでの演奏で活躍。 デビューに際しては「日本最初のサイケデリック・サウンド」を標榜したが、これは1967年夏、アメリカ旅行でサイケデリック・ムーヴメントを目の当たりにしたホリプロ社長・堀威夫の発案を、メンバーが受け入れてのものだった。

当時のGSグループは統一したユニホームでジャズ喫茶、プールやデパート屋上で演奏したり、スーツ着用でナイトクラブで営業をする機会が多かったのに対し、モップスは異色・異端で、アングラ(風俗)ヒッピーを意識した各人ばらばらの奇抜な衣装を着用。さらに、サイケデリック・パーティの開催やライト・ショーといった、サイケのイメージを徹底して演出した。ドラムセットを客席に対して横向きにし、ステージには楽器を縦並びに置き目隠しをして演奏したりした。

 

 

1968年3月5日、2ndシングル“ベラよ急げ”(作詞:阿久悠/作曲:大野克夫/編曲:ザ・モップス)を発売、

 

4月、現代音楽の一柳慧の公演に参加。このようにモップスは、前衛芸術的な活動を繰り広げる面もあった。

4月、1stアルバム『サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン』を発売。デビュー曲“朝まで待てない”や“ベラよ急げ”などのシングル曲、“アイ・アム・ジャスト・ア・モップス”(作詞・曲:鈴木ヒロミツ)や“ブラインド・バード”、ドアーズのカヴァー“ハートに火をつけて”等を収録した『サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン』は事務所社長・堀威夫の想定を超えるものとなった。当時のGSブーム後期の中にあってモップスは、欧米ロックを追求する鈴木ヒロミツと星勝の個性に負う部分が大きかった。このため、アルバムの選曲について所属レコード会社ビクターから「アイドルのモンキーズのカヴァー曲をやれ」と言われたが、「アニマルズ(The Animals)やゼム(Them)をやりたい」と断固として譲らなかった。その結果、対立したビクターから本アルバムのリリース後、解雇されてしまう。

 

 

 

 

8月5日、3rdシングル“お前のすべてを”/“熱くなれない”(いずれも作詞:阿久悠/作・編曲:村井邦彦)を発売。これが日本ビクターから最後のリリースとなった。

 

 

同年暮れ、日本でのサイケデリック・ムーヴメントも退潮を迎え、モップスも本来のシンプルなR&B、ロックンロール志向に回帰する。

 

 

1969年、プロ活動の先行き不安を理由にベース担当の村上が脱退。メンバーの補充はせず、三幸がリズム・ギターからベース・ギターに転向、四人のまま活動を続ける。

11月10日、東芝傘下の「エクスプレス・レコード」に移籍し、星がリードヴォーカルを担当したシングル“眠り給えイエス”(作詞:いまいずみあきら/ 作曲:郷伍郎/編曲:クニ河内)を発売。ヒロミツはB面の“週末の喪章”(作詞:いまいずみあきら/作曲:郷伍郎/編曲:クニ河内)でリードヴォーカルを受け持った。

 

 

1970年に入り、日本のロック草創期を迎えると、いわゆる「ニュー・ロック」のバンドの1つとして活躍。

同年5月5日、同じ東芝内の別レーベル「LIBERTY」に移り、リトル・リチャードのカヴァーシングル“ジェニ・ジェニ'70”(作詞・曲:Richard Penniman, Enotris Johnson/編曲:モップス)を発売。

 

6月5日、2ndアルバム『ロックンロール'70』発売。

 

8月25日、アニマルズのカヴァー“朝日のあたる家”(作詞・曲:Alan Price/編曲:モップス)を6thシングルとして発売。

 

 

1971年1月25日、シングル“御意見無用”(作詞:鈴木ヒロミツ/作・編曲:星勝)をリリース、B面もヒロミツと星野コンビで作った“アローン”(A面とクレジット同じ)を収録した。“御意見無用”は後にOutrageがカヴァー中心のアルバム『GENESIS I』(2015年)でカヴァー。

 

3月25日、シングル“月光仮面”(作詞:川内康範/作曲:星勝/編曲:モップス)を発売。同曲は元々ジャズ喫茶で演奏するレパートリーのひとつだった。1969年に流行し始めていたブルーズ(実際はブルーズ・ロック)は、ゴールデン・カップス等も取り上げていたが、一般にはまだまだ新奇なジャンルだった。そこで、元々ジョン・メイオールのカヴァー等を得意にしていたモップスが、耳馴染みの無い観客へ「ブルーズ」を説明するため、広く知られた“月光仮面は誰でしょう”をモチーフにアレンジしたのが始まりだった。やがてリクエストに応え“月光仮面”をタンゴ風、ロックン・ロール風・・・とアレンジを変え演奏するうち、星がリード・ヴォーカルを取りヒロミツがMCを挟むコミカルなブルーズ・ロック的作風のパロディ・ソングとして評判になりレコード化、ヒット曲となった。

 

5月5日、3rdアルバム『御意見無用(いいじゃないか)』を発売。

 

9月25日、シングル“森の石松”(作詞:鈴木博三/作曲:星勝/編曲:モップス)を発売。

10月5日、バンド初のライヴアルバム『雷舞』を発売、同年7月11日に大阪・中ノ島公会堂で行った公演のライヴ実況盤。ビートルズの“抱きしめたい”(I Want to Hold Your Hand)のカヴァーなどを収録。

 

 

1972年2月5日、シングル“なむまいだあ─河内音頭より─”(作詞:松原敏春/作曲:星勝/編曲:モップス)を発売。B面“サンド・バッグの木”(作詞:喰始/作曲:星勝/編曲:モップス)の作詞は、後にWAHAHA本舗を創設する喰始。

 

5月5日、シングル“雨”(作詞:森田純一/作曲:菅節和/編曲:モップス)を発売。

アルバム『雨/モップス'72』を同時発売。

 

 

7月5日、吉田拓郎作の12thシングル“たどりついたらいつも雨ふり”を発売、ラジオで盛んにオンエアされ、若者に支持を受けた。オリコン最高位26位。

 

5thアルバム『モップスと16人の仲間』も同時発売。

 

12月20日、シングル“御用牙”(作詞:小池一夫/作曲:星勝/編曲:モップス)を発売。同年12月30日公開の映画『御用牙』主題歌。作詞は原作漫画の原作者(ストーリー)で、同映画の脚本家も務めた小池和夫。

 

 

1973年1月3日、シングル“気楽に行こう”(作詞・曲:マイク眞木/編曲:星勝)を発売、1971年に放映されたモービル石油(現:ENEOS)のCMソングとしてマイク眞木が作った“のんびり行こうよ”をカヴァー。B面“オー・ダーリン! ”(作詞:スズキ・ミキハル/作・編曲:星勝)はヒロミツの実弟でドラムス担当のスズキ幹治が作詞。

 

3月5日、シングル“晴れ時々にわか雨”(作詞:阿久悠/作曲:星勝/編曲:モップス)を発売。

 

6月5日、バンド初のベスト盤『モップス1969〜1973』を発売。

12月1日、シングル“あかずの踏切り”(作詞:井上陽水/作曲:星勝/編曲:モップス)を発売。

 

 

1974年5月、歌謡曲とフォーク・ブームにロック・ミュージックが追いやられた趨勢にバンド活動の限界を感じたメンバーは、それぞれが別個に活路を求めることを決意し、バンドは解散を決める。

同年7月、解散公演の実況を収めたアルバム『イグジット』(EXIT)が発売された。

 

 

その後、鈴木ヒロミツは俳優やタレントとしての活動を始める。

星はグループ在籍中から編曲家・作曲家としても大活躍し、ザ・ピーナッツなどの良質な和製ポップスや、井上陽水らフォーク勢に楽曲を提供し、ヒットさせた。また、テレビ番組などの音楽を担当。1974年10月放映のドラマ『夜明けの刑事』では鈴木ヒロミツが出演者、星勝は音楽担当として「再会」している。

鈴木幹治はモップス解散直後から、愛奴とソロ活動に移行した浜田省吾を支えた。

三幸太郎はマネージメント業に転じて活躍していたが、2011年頃から音楽活動を再開し、三幸太朗Badboys&girlsとして演奏活動を行っている。

 

1974年4月3日、ヒロミツはバンド解散の前月にTBSで放送された大映テレビ製作のドラマ『事件狩り』に出演。主演の石立鉄男や石橋正次等とともにレギュラーを務めた。番組は同年9月18日まで放映された。

10月2日、『事件狩り』に続くシリーズ的刑事ドラマ『夜明けの刑事』が放送開始、主演は坂上二郎で、前作同様、石立鉄男と石橋正次と共演。1977年3月23日まで放映され、ヒロミツはエンディングテーマ“として、何かが違う”(作詞・曲:マチ・ロジャース/編曲:あかのたちお/43~86話)、“何処かで失したやさしさを”(作詞・曲:マチ・ロジャース/編曲:あかのたちお/87~111話)を歌唱。『夜明けの刑事』の音楽担当は、バンド時代の盟友、星勝だった。

 

 

1976年9月20日、ソロアルバム『永遠の輪廻』を発売。

 

 

1977年3月30日、『夜明けの刑事』の続編ドラマ『新・夜明けの刑事』がスタート、同年9月28日まで放映され、前作同様に坂上主演で石橋と共演した。前作でも使われた“何処かで失くしたやさしさを”(作詞・曲:マチ・ロジャース/編曲:小六禮次郎)がリアレンジされ、再び歌唱を担当。

10月5日、前作『新・夜明けの刑事』の続編『明日の刑事』が放送開始、1979年10月10日まで放送された。ヒロミツは引き続きレギュラー出演し、1~69話の主題歌“愛に野菊を”(作詞:岡田冨美子/作曲:HOLM MICHAEL・PIETSCH RAINER/編曲:あかのたちお)の歌唱も担当した。

 

 

1981年2月7日、テレビアニメ『タイムボカンシリーズ ヤットデタマン』が放送開始(~1982年2月6日)。ヒロミツはエンディングテーマ“ヤットデタマン・ブギウギ・レディ”(作詞・曲:山本正之/編曲:乾裕樹)を歌唱した。

 

 

1980年代から再発(リイッシュー)ブームが起こり、再評価作業以降、モップスのサイケデリック期の楽曲が欧米のガレージ・ロックファンから評価されるようになった。“ブラインド・バード”などの楽曲は複数の海賊盤コンピレーションに収録され、アメリカでは1stアルバム『サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン』が何百ドルというプレミアつきで販売されていたという(1994年当時)。

 

世界的なガレージロック・コンピレーションアルバム「Nuggets」シリーズの『Nuggets II:Original Artyfacts From The British Empire And Beyond[Disc4]』の5曲目に、ザ・モップスの“アイ・アム・ジャスト・ア・モップス”が収録されている。 モップスは後年、国内ではグループ・サウンズ、海外からはサイケデリック・ロック、ガレージ・ロックの分野から再評価された。

しかし、70年代初期において「日本のロック・バンド」として歴史上重要な存在だったという点は、現在も見過されたままである。

 

 

1996年12月16日、4thソロシングル“たどりついたら雨ふりだけじゃなかった”(作詞:Bro.TOM/作曲:Bro.KORN/編曲:OHAYO! PLAYERS are Bro.KORN, Bro.SHELL & Bro.KEN KEN)を発売。

 

 

2002年、芸能界きっての美食家として知られ、紀行番組のグルメリポーターとしても活躍したヒロミツは、自らが堪能した絶品料理を紹介した単行本『食わずに死ねるか!』を出版した。

 

 

2007年3月14日午前10時2分、鈴木ヒロミツこと鈴木弘満は、肝細胞癌のため東京都千代田区の病院で死去。60歳没。

医師の診察を受けた時には既に病状が進行しており、告知も冷静に受け止めた。入院治療より家族とともに過ごすことを選んだ。戒名は「美雄永満愛大喜善居士」で、その戒名は生前に決めていたと言う。戒名には自分の名や家族の名前の一部が入っており、家族を愛する気持ちが込められている。

5月1日、亡くなる1週間前に行ったインタビューと、病床で書いた妻と子どもへの手紙をまとめた単行本『余命三カ月のラブレター』が幻冬舎より出版された。

 


鈴木ヒロミツの死去を受けてモップス時代の盟友:星勝、長年の音楽仲間であった真木ひでと(オックス)、森田巳木夫(ザ・ジャガーズ)が故人との想い出を語った他、ギタリストの三根信宏も自らのサイトの日記にて鈴木ヒロミツを悼むコメントを記している。

 

鈴木の死去直後、事務所の後輩である和田アキ子が自身のラジオ番組『アッコのいいかげんに1000回』で「ヒロちゃんはホリプロで一番古い先輩で、私がデビュー直前から現在まで本当によくかわいがってもらっていて、芸能生活が長くなってからも私を叱ったり注意してくれたのもヒロちゃんだけだった。お見舞いに行ったときに自分が生きてる間にもう一度桜の花が見たいなって言ってたけど、咲く前に亡くなってしまってほんと悔しかった。」などと鈴木との思い出話を番組内で語っていた。


死去の2ヵ月後に公開されたオムニバス映画『歌謡曲だよ、人生は』でヒロインの死病を告知する医師、同窓会の8ミリフィルム上映で小学生時代を回顧する初老男性の2役で出演しているが、撮影は自身が告知を受ける前だったといわれる。

2008年4月23日、一周忌を過ぎ、和田アキ子のデビュー40周年記念CDアルバム『わだ家』に、鈴木がヴォーカルを務めたモップスの代表曲“たどりついたらいつも雨ふり”に、和田が新たに歌をオーバー・ダビングした、鈴木と和田のデュエットバージョンが収録された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「鈴木ヒロミツ」「ザ・モップス」

 

 

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