マルタ・クビショヴァー(Marta Kubišová/1942年11月1日~)は、チェコ共和国の歌手。
1942年11月1日、マルタ・クビショヴァーは、チェコスロバキア共和国(現:チェコ共和国)南部の都市チェスケー・ブジェヨヴィツェで生まれた。父親は心臓専門医、母親は主婦で、母は後にプラハのチェレトナ通りでレコードを販売した。
1952年、一家はポジェブラディに移住した。
高校卒業後は大学に進学したいと考え、クビショヴァーはポジェブラディのガラス工場で働き始めた。
クビショヴァーの歌手としてのキャリアは、ニンブルクのアフタヌーンティーでパフォーマンスを行うダンスグループから始まった。
1961年、彼女は「Hledáme nové talenty」(The Search for Talent)に出場、決勝に進出した。
1962年、彼女はガラス工場での職を失い、パルドゥビツェのストップ劇場のオーディションを受けた。
1963年、彼女はプルゼニのシアター・アルファに移り、ルドヴィク・アシュケナージ演出の『ブラック・ドリーム』に出演した。
1964年、“Kdo těm růžím vůni vzal”(Where Have All The Flowers Gone?)を発表。
1965年12月、ヴァーツラフ・ネカーシュ(Václav Neckář)やヘレナ・ヴォンドラーチコヴァ(Helena Vondráčková)とのコラボレーションを開始。
その時、『ウェイティング・フォー・フェイム』の公演の準備をしていた。
1966年頃、クビショヴァーは“Depeše”を発表。
1967年、彼女は「ズラティ・スラヴィク」(ズラティ・スラブ賞)で優勝した。
同年、“Pojď a měj mne rád”を発表。
この頃、“S nebývalou ochotou”を発表。
1968年1月5日、アレクサンデル・ドゥプチェク(Alexander Dubček)がチェコスロヴァキア共産党第一書記(1953~1971年は「チェコ共和国共産党中央委員会第一書記」と呼ばれた)に就任、「芸術的、科学的創造性を阻害するものはすべて取り除く必要がある」、「社会主義が勝利を収めたのち、社会の変革が始まる」と宣言した。これは「人間の顔をした社会主義」(Socialismus s lidskou tváří)と呼ばれ、政治や経済における自由化計画の開始であった。これにより、「プラハの春」(チェコ語: Pražské jaro〔プラシュスケー・ヤロ〕)が本格的に始まる。プラハの春の間、クビショヴァーは200枚を超えるSPレコーと1枚のLP(アルバム)『Songy a Balady』 (歌とバラード) を録音、アルバムは翌1969年にリリースされた。
8月20日深夜、ワルシャワ条約機構加盟国で構成された軍事部隊が、チェコスロバキアの自由化をよく思わないソ連(当時)による指揮の下、チェコスロヴァキア社会主義共和国の領土を越えて侵攻、「ドナウ作戦」が開始された。
8月21日早朝までに、チェコスロヴァキアはソ連軍により占領。改革を進めたドゥプチェク第一書記とその仲間たちは同日朝に逮捕され、モスクワに連行された。
8月27日、チェコスロヴァキアの代表とソ連の代表が共同声明発表とモスクワ協定への署名を行い。ソ連軍の駐留を合法化、1991年6月までソ連軍はチェコスロヴァキアに駐留し続けた。
8月、クビショヴァーは“Cesta”をリリース。
同年、ペトル・ラーダが歌詞を書いた“マルタへの祈り”(Modlitba pro Martu/ 英題:Prayer for Marta)という歌が、ワルシャワ条約機構軍の占領に対する国民的抵抗の象徴となった。
同年、もうひとつの抵抗運動のアンセムがクビショヴァーによって歌われた。それがビートルズのカヴァー“ヘイ・ジュード”(Hey Jude)である。ポール・マッカートニーによるこの名曲をクビショヴァーは、自由への渇望を掻き立てるメッセージを込めたチェコ語の歌詞に置き換え、国民の魂を鼓舞するために歌った。
11月1日、クビショヴァーは、ネカーシュとヴォンドラーチコヴァー(Vondráčková)とともに、「ゴールデンキッズ」(Golden Kids)という3人組グループを結成、人気を博した。
1969年4月、ドゥプチェクが党第一書記を辞任させられる。後任にグスターフ・フサーク(1913年1月10日-1991年11月18日)が就任すると、それまで改革派と目されていたフサークはソ連の信頼を得て、一転、改革勢力や反体制派への弾圧を強め、「正常化体制」路線を進める。
同年、ゴールデンキッズのアルバム『Micro Magic Circus」を「スープラフォン」(Supraphon)からリリース。
同年、ソロ・アルバム『Songy a balady』をリリース。
同年、クビショヴァーは“Magdalena”(Aleluya)をリリース。
同年、ゴールデンキッズは“Šlechtici”、“Šel sen kolem nás”をリリース。
同年、クビショヴァーは2度目のズラティ・スラブ賞を受賞。
同年、ゴールデン・ナイチンゲール賞を受賞した。
同年、映画監督のヤン・ニェメツと結婚した。
1970年、ゴールデンキッズのアルバム『Golden Kids 1」をリリース。
1月27日、ゴールデン・キッズの最後の公演がオストラヴァで行われた。
同年、クビショヴァーはゴールデン・ナイチンゲール賞を受賞した。
同年、彼女は3度目のズラティー・スラブ賞を受賞したが、正常化が始まっていたため、クビショヴァーは雑誌『ムラディー・スヴェト』の事務局で極秘に賞を受賞しなければならなかった。
2月、政府は3枚の偽造写真モンタージュを証拠として、ポルノ写真を撮影したという疑惑を口実にクビショヴァーの国内での公演を禁止した。彼女はレコードレーベルスープラフォンのディレクター、フラバルを名誉毀損で訴え、勝訴したものの、権利が完全に確定し権利と名誉が回復されたのは20年後の1989年にチェコスロバキアの共産主義政権が崩壊した後だった。その間、彼女はアンダーグラウンドの招待制イベントでしかパフォーマンスできなかった。
1971年、クビショヴァーは妊娠8か月目に流産したが、自身は一命をとりとめた。
彼女は米国に移住した夫のヤン・ネメックと離婚した後、監督のヤン・モラヴェックと結婚した。
1月、グスターフ・フサークの正常化体制下の人権抑圧に対する抗議、フサーク指導部が批准したヘルシンキ宣言の人権条項の順守を求める文書が作成された。これは、国連の人権宣言やチェコスロヴァキアの憲法を参照している。文書は「憲章77」と呼ばれ、243人の署名付きで西ドイツの新聞に公表された。クビショヴァーは憲章77に署名した後、共産主義国家秘密警察による彼女への迫害と監視はエスカレートした。
1977~1978年、彼女は憲章77のスポークスマンとして参加した。
1979年6月1日、クビショヴァーは娘のカテジナを出産した。
1980年代後半、彼女はグループ「プラスチック・ピープル・オブ・ザ・ユニバース」の歌手になるオーディションを受けたが、これは秘密警察により許可されなかった。
1988年12月10日、久しぶりに公の場から姿を現したクビショヴァーは、世界人権宣言40周年記念デモに出演し、チェコスロバキア国歌を斉唱した。
1989年11月17日、当時のチェコスロバキア共産党による全体主義体制を倒した民主化革命である「ビロード革命」がチェコスロバキア社会主義共和国で勃発。スロバキアでは「静かな革命」(スロバキア語: nežná revolúcia/英語: Gentle Revolution)と呼ぶ。
11月22日、ビロード革命中、クビショヴァーはヴァーツラフ広場のバルコニーから“マルタへの祈り”とチェコスロバキア国歌を歌った。
1990年、クビショヴァーはスタジオとステージに戻った。
同年、『Songy a Balady』が再発される。
同年、ソロ・アルバム『Lampa』をリリース。
6月2日、彼女は有名なショー「マルタ対ルツェルン」に出演した。
ゴールデンキッズとソロの楽曲を集めたコンピレーション・アルバム『Ne the Soul of Marta Kubisova』をリリース。
1991年、クビショヴァーはアドベントコンサートを共同主催した。
同年、ソロ・アルバム『Někdy si zpívám』をリリース。
1993年、ソロ・アルバム『Songy a nálady』をリリース。
同年、クビショヴァーはゴールデン・キッズの再結成でヴォンドラーチコヴァーとネカーシュと再び共演した。
1995年、ソロ・アルバム『Řeka vůni』をリリース。
10月28日、クビショヴァーはヴァーツラフ・ハヴェル大統領から国家賞、功労勲章を授与された。
同年、アダム・ゲオルギエフは彼女の伝記『チタット・スルース(太陽をつかまえて)』を出版した。
1996年、ソロ・アルバム『Singly 1』をリリース。
同年、ソロ・アルバム『Bůh ví』をリリース。
1987年、ソロ・アルバム『Nechte zvony znít (Singly 2)』をリリース。
1998年3月7日、クビショヴァーはTG名誉勲章を授与され、プラハ城の宴会場での式典に出席した。
同年、ソロ・アルバム『Dejte mi kousek louky (Singly 3)』をリリース。
1999年、ソロ・アルバム『Modlitba (Singly 4)』をリリース。
同年、ソロ・アルバム『Marta Kubišova v Ungeltu』をリリース。
2000年、ソロ・アルバム『Tajga Blues (Singly 5)』をリリース。
2002年10月、クビショヴァーは聖ヴァーツラフ勲章を授与された。
2004年。ソロ・アルバム『Já jsem já』をリリース。
2005年、ルボシュ・ネチャスが著述した彼女の2冊目の伝記本『Asi to tak sám Bůh chtěl』が出版された。
同年、クビショヴァーは、ジョン・シュナイダーが全文を書いたノベルティ・アルバム『Vítej, lásko』をリリースした。
その後数年間、クビショヴァーはプラハ・ウンゲルト劇場のホームステージで定期的にリサイタルを準備してきた。そこで彼女は室内楽ミュージカル『Líp se loučí v neděli』にも出演し、その演技でタリア賞を受賞した。
2008年、スープラフォンは最初のDVDをリリースした。
2010年、ソロ・アルバム『Vyznaní』をリリース。
2011年、ポーランドのオルシュティンで開催された国際演劇祭DEMOLUDYで、クビショヴァーの生涯を基にしたマウゴルザタ・シコルスカ=ミシュチュクの演劇が上演された。
2013年、ソロ・アルバム『Touha jménem Einodis』をリリース。
2014年、ソロ・アルバム『Magický hlas rebelky』をリリース。
2016年、ソロ・アルバム『Soul』をリリース。
2018年1月1日、クビショヴァーはスロバキアのアンドレイ・キスカ大統領から国家勲章白双十字勲章(第二級)を授与された。
(参照)
Wikipedia「マルタ・クビショヴァー」「Marta Kubišová」(英語/チェコ語)
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