ジョン・リー・フッカー (John Lee Hooker/1917年8月22日~2001年6月21日)は、アメリカ合衆国のブルーズ・シンガー、ソングライター、ギタリスト。

 

 

 

1917年8月22日、ジョン・リー・フッカーは、アメリカ合衆国ミシシッピ州クラークスデールの郊外タトワイラー(Tutwiler, Mississippi)にて、小作人の親の元、11人の子どものうちの一人として生まれる。

生年については、1912年、1915年、1920年、1923年など諸説あるものの、1917年説が最も一般的で、公式HPでも1917年生まれとしている。

 

1921年、両親が離婚。

 

1922年、彼らの母親はブルーズ歌手のウィリアム・ムーア(William Moore)と結婚し、ジョン・リーにギターの手ほどきをした。後にジョン・リーの独特な演奏スタイルはムーアの功績だとされることになる。

ムーアは彼にとって最初のブルーズに大きな影響を与えた。彼は地元のブルーズ・ギタリストであり、ルイジアナ州シュリーブポートで、当時のデルタ・ブルーズとは著しく異なる、単調なワンコード・ブルーズの演奏を学んだ。

もう一つの影響は、フッカーの妹アリスとデートし、フッカーに演奏を教え、最初のギターを与えたトニー・ホリンズ(Tony Hollins/1909年6月25日–1957年1月)であった。フッカーは生涯を通じて、ホリンズが自身の演奏スタイルとミュージシャンとしてのキャリアに形成的な影響を与えたとみなした。ホリンズがフッカーに教えたとされる曲の中には、 "Crawlin' King Snake" や "Catfish Blues"の原型もあった。


14歳の時、フッカーは家出をし、それ以来、母親や継父には二度と会わなかったと伝えられている。 

 

1930年代半ば、彼はテネシー州メンフィス(Memphis, Tennessee)に住み、ビール・ストリート(Beale Street)の路上や、ニュー ・イジー・シアター(New Daisy Theatre)、そして時々ホーム・パーティーで演奏する生活を送った。

 

第二次世界大戦中、フッカーは様々な都市の工場で働いた。

 

1943年、ミシガン州デトロイト(Detroit)に移住し、フッカーはフォード自動車会社に就職。その傍ら、デトロイトの東側にある黒人歓楽街の中心、ヘイスティングス・ストリート(Hastings Street)にあるブルーズ・クラブやバーへ頻繁に通った。ピアニストで有名なこの都市ではギタリストが不足していた。デトロイトのクラブで演奏するうちにフッカーの人気は急速に高まっていく。アコースティック・ギターより大きな音の楽器を求め、初めてエレキ・ギターを購入したのはこの頃であった。

 

1948年、レコード・ディーラのバーニー・ベスマンの誘いを受け、初レコーディングを経験する。

11月、モダンより発表した“Boogie Chillen”が米音楽誌『ビルボード』(Billboard)のR&Bチャート(以下「R&B」)で頂点にまで昇りつめる大ヒットとなった。このヒットにより、他のレーベルからも誘いを受けるものの、モダンとの契約で縛られていたフッカーは、様々な変名を用い、複数のレーベルに作品をレコーディングしていった。その中で、独特のリズム感覚を持ったブギ・スタイルを確立し、「キング・オブ・ブギ」の名でも親しまれることになる。

 

 

1949年、"Hobo Blues"がR&B5位、"Hoogie Boogie"がR&B9位、"Crawlin' King Snake"がR&B6位と、ヒットが続いた。

 

 

 

 

1950年、"Huckle Up, Baby"がR&B15位。

 

 

1951年、"I'm in the Mood"がR&B1位・『ビルボード』誌の総合シングル・チャート「Billboard Hot 100」(以下「全米」)30位をマークした。

 


1955年、モダンとの契約が終了し、ヴィージェイ・レーベルと契約する。同レーベルには1965年まで在籍し、計8枚のアルバムを発表した。それまでの弾き語りスタイルから、R&B色の濃いバンドスタイルへと発展し、“Dimples”や“Boom Boom”といった代表曲を生み出す。

 

 

1958年、"I Love You Honey"がR&B29位。

 

 

1959年、1951~54年のレコーディング・トラックを集めたコンピレーション・アルバム『ハウス・オブ・ザ・ブルース』(House of the Blues)をChessからリリース。1967年に全英アルバム・チャート34位に入った。

 

 

同年、1955~59年のレコーディング音源を収録したアルバム『I'm John Lee Hooker』をVee-Jayからリリース。

 

 

1960年、"No Shoes"がR&B21位。

 

 

1962年、"Boom Boom"がR&B16位・全米60位。 

 

同年、初のヨーロッパ・ツアーを行う。現地ではブルーズ・ブームが起こっていた頃で、彼は熱烈な歓迎を受けたという。
 

 

1964年、"Dimples"がR&B23位。

 


1965年、ABCレコード(ABC Records)へ移籍する。同レーベル並びに傘下のブルースウェイ(BluesWay Records)、インパルス!(Impulse! Records)などからも作品をリリースしていった。

 

 

1966年、アルバム『The Real Folk Blues』をChessからリリース。"One Bourbon, One Scotch, One Beer" を収録。

 

 


1970年代に入ると、デトロイトを離れ、カリフォルニア州に移住する。

この頃から、ロック・ミュージシャンとの共演を活発化させている。

 

1971年1月15日、ブルーズ&ロック・バンド「キャンド・ヒート」(Canned Heat)と共演した『フッカー&ヒート』(Hooker 'n Heat)をLibertyからリリース。全米73位をマークした。

 

同年、ABCからリリースし全米126位になった『エンドレス・ブギー』(Endless Boogie)では スティーヴ・ミラー(Steve Miller)、ジェシ・エド・デイヴィス(Jesse Ed Davis/1944年9月21日-1988年6月22日)らと共演。

 

 

1972年、ヴァン・モリソン(Van Morrison/1945年8月31日-)との共演盤『ネバー・ゲット・アウト・オブ・ジーズ・ブルース・アライヴ』(Never Get Out of These Blues Alive)を発表、"T.B. Sheets"はモリソンと共作している。

 

 


1970年代半ば頃までABCに在籍するが、その後は暫く新作からは遠ざかっている。

 

 

1978年、アルバム『The Cream』をTomatoからリリース。

 

 

1980年の映画『ブルース・ブラザース』(The Blues Brothers)に出演し、シカゴのマックスウェル・ストリート(Maxwell Street)で演奏に興じるストリート・ミュージシャンを演じた。

 

 

1984年7月には、日本のブラック・ミュージック専門誌『ブラック・ミュージック・リヴュー』の招聘で、ロバート・クレイ(Robert Cray/1953年8月1日-)とともに来日を果たし、全国6都市で7公演を行う。晩年ツアーを嫌ったフッカーにとって、結局これが唯一の来日公演となった。
 

 

1989年9月、新作発表から遠ざかっていたフッカーだったが、カルロス・サンタナ(Carlos Santana/1947年7月20日-)、ボニー・レイット (Bonnie Raitt/1949年11月8日-) 、ロス・ロボス(Los Lobos)ら豪華なゲストを迎えたアルバム『The Healer』 で華々しくカムバックを果たし、全米63位・全英3位を記録。本アルバムに収録された、ボニー・レイットとの共演ナンバー“I'm In The Mood”は、グラミー賞で最優秀トラディショナル・ブルース・レコーディング賞を獲得し、再び存在感を示すこととなる。カムバック後は、幅広いアーティスト達との共演を重ねた。

 

 

 

同年、ピート・タウンゼント(Pete Townshend/1945年5月19日‐)の『アイアン・マン』(The Iron Man: The Musical by Pete Townshend) に参加。

 

 

1990年、デニス・ホッパー(Dennis Hopper/1936年5月17日-2010年5月29日)監督の映画『ホット・スポット』(The Hot Spot)のサウンドトラックで、マイルス・デイヴィス(Miles Davis/1926年5月26日-1991年9月28日)と共演。

 


1991年、ロックの殿堂入りを果たす。

同年リリースしたアルバム『ミスター・ラッキー』(Mr. Lucky)に、ライ・クーダー(Ry Coode/1947年3月15日-)、ジョニー・ウィンター(Johnny Winter/1944年2月23日-2014年7月16日)、キース・リチャーズ(Keith Richards/1943年12月18日-)らが参加。

 

 

 

1992年、アルバム『Boom Boom』をリリース。全英15位。

 

 

1993年、旧知のヴァン・モリソンのアルバム『トゥー・ロング・イン・イグザイル』(Too Long in Exile)にはフッカーが2曲にゲスト参加した。

 

 

1995年、アルバム『チル・アウト』 (Chill Out)にモリソンやカルロス・サンタナらが参加。全米136位・『ビルボード』誌「ブルーズ・アルバム」チャート3位・全英23位を記録し、グラミー賞を受賞した。

 

 

 

1997年、アルバム『ドント・ルック・バック』 (Don't Look Back) にもモリソンが参加。 「Best Traditional Blues Recording」と「Best Pop Collaboration with Vocals (with Van Morrison)」とで、グラミー賞最優秀賞をダブル受賞した。本作は本人名義のオリジナル・スタジオ・アルバムとしては最後の作品となった。

 

 

同年、ビッグ・ヘッド・トッド&ザ・モンスターズ(Big Head Todd and the Monsters)のアルバム『Beautiful World』へ参加。


1998年リリースのベスト盤『ベスト・オブ・フレンズ』(The Best of Friends)にも新録が3曲収録されている。

 

 

2001年、トミー・カストロのアルバム『Guilty Of Love』へゲスト参加、フッカーの最も晩年の録音のひとつである。


2001年6月21日、ジョン・リー・フッカーはカリフォルニア州サンフランシスコ近郊ロス・アルトス(Los Altos, California)の自宅で、就寝中に老衰のため死去した。1917年誕生説に基づけば、83歳没である。

 

2003年発表の『フェイス・トゥ・フェイス』(Face to Face)は、未発表音源にゲスト・ミュージシャンのオーバーダブを施した作品であり、事実上のラスト・アルバムとも言える内容である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ジョン・リー・フッカー」「John Lee Hooker」

 

 

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