ピート・タウンゼント(Pete Townshend/本名:Peter Dennis Blandford Townshend/1945年5月19日~)は、英国のミュージシャン、小説家。

英国のバンド「ザ・フー」(The Who)のギタリスト、メイン・ソングライターとして最も有名。

 

 

ロンドン西部のチジック(Chiswick)で生まれる。父親のクリフ・タウンゼントはイギリスでは有名なサックス・プレイヤーで、母親のベティもプロのシンガー、そして祖父のホレス・タウンゼントもセミプロのミュージシャンであり、まさに音楽一家だった。

 

6歳から7歳までの間、ツアーで家を空けていた両親に代わり、祖母のデニーに面倒を見られていたが、精神を病んでいた彼女は幼いタウンゼントに虐待を加えた。この時期をタウンゼントは「人生最悪の暗黒時代」と表現している。

音楽的環境に恵まれた家庭に育ちながら少年時代は音楽に関心を示す事はなかったというが、1956年夏に友人とともに観に行った映画『ロック・アンド・ロール/狂熱のジャズ』(Rock Around the Clock)に影響を受け、ギターを弾きたいと欲するようになる。

12歳のクリスマスにギターを贈られるが、買い与えたのは皮肉にも祖母デニーだった。だが弾きこなすには難しいと考え、その後4弦のバンジョーを入手し腕を磨く。

1957年、弟のポールが誕生。

 

1958年春、アクトン・カウンティ・グラマー・スクールでジョン・エントウィッスルと知り合い、学校仲間で「コンフェデレイツ」というジャズ・バンドを結成。このバンドはすぐに消滅したが、その後も「スコーピオンズ」というバンドでともにプレイするなど、二人の交流は続いていた。

1960年、下の弟のサイモンが誕生。サイモンは後に兄同様ミュージシャンとなり、タウンゼントやザ・フーのツアーにサポート・ミュージシャンとして参加している。

 

1961年、イーリング・アート・カレッジに入学。

同年、エントウィッスルがグラマー・スクールの先輩ロジャー・ダルトリーに誘われ、スコーピオンズを抜け、彼のバンド「ザ・ディトゥアーズ」に加入。

 

1962年夏、タウンゼントもエントウィッスルに誘われディトゥアーズに加入する。実はダルトリーはエントウィッスルよりも先にタウンゼントに目を付け、バンドへ誘っていた。その後、ダルトリーの自宅で行われた簡単なオーディションを受け、加入が決まった。

加入直後はリズムギター担当だったが、リードギター担当だったダルトリーが日中の板金工の仕事でしばしば手を負傷したためヴォーカルに専念、タウンゼントがリードギタリストとなった。彼は当時まだ真剣にプロ・ミュージシャンになることは考えておらず、彫刻家を志望していたという。だが、バンド活動が忙しくなって学業との両立が難しくなり、1964年の夏休み前に中途退学、音楽で生きていく決意を固めたのはこの頃だという。

 

1964年2月、同名バンドがいたことから、バンド名を「ザ・フー」(The Who)に改める。

4月末、 技量に難があった前任ドラマーに代わりキース・ムーンが加入、ラインナップが固定。

7月3日、初代マネージャーのピート・ミーデンが当時席巻していたモッズ・バンドとして売り出そうと計画、メンバーにモッズの衣装を着させバンド名も「ハイ・ナンバーズ」と改めさせて、“ズート・スーツ”(Zoot Suit)でメジャー・デビュー。だがチャート入りせず失敗に終わる。

 

8月、ミーデンの手法に疑問を持ったバンドは250ポンドの手切れ金でクビにし、キット・ランバートと相棒のクリス・スタンプと新たなマネージメント契約を締結。ランバートはタウンゼントにダビング録音可能なテープレコーダーを買い与え、彼の作曲の才能が開花することとなる。

10月、EMIのオーディションを受け不合格となるが、シェル・タルミーにとプロデュース契約。

11月、ブランズウィックとレコード契約を締結、バンド名も再び「ザ・フー」に戻すことが決定。彼らの大音量のライヴでギター等を壊す派手なパフォーマンスがモッズの若者に評判になった。

 

1965年1月、タウンゼント作の“アイ・キャント・エクスプレイン”(I Can't Explain)をザ・フー名義でシングルリリースし再デビュー、全英8位のヒットとなり、米誌『ビルボード』チャート「Hot100」(以下「全米」)でも93位にチャートインした。これ以降、ザ・フーの楽曲の9割以上はタウンゼントが作ることとなる。

 

10月、3rdシングル“マイ・ジェネレーション”(My Generation)が全英2位の大ヒットとなり、ザ・フーを一気にスターダムにのし上げた。

 

12月、1stアルバム『マイ・ジェネレーション』(My Generation)をリリース、全英5位。

 

 

1966年、シングルは、“サブスティテュート”(Substitute)が全英5位、"アイム・ア・ボーイ"(I'm a Boy)が全英2位、"ハッピー・ジャック"(Happy Jack)が全英2位とヒットを連発、ザ・フーは一躍スターダムにのし上がった。また、バンドの楽曲の作詞作曲を担当するタウンゼントは他のアーティストへの楽曲提供も積極的に行った。

 

 

 

同年、音楽ユニット「ザ・マージーズ」に“ソー・サッド・アバウト・アス”を提供。

12月、2ndアルバム『A Quick One』リリース、全英4位。

 

 

1967年、「プティング」というバンドに“マジック・バス”(Magic Bus)を提供。

同年、米国での活動が本格化、長期全米ツアーを敢行。

6月にはモンタレー・ポップ・フェスティバルに出演。お得意の楽器破壊を披露し、過激なライヴバンドとしてアメリカ人に強いインパクトを残した。出演順をめぐりジミ・ヘンドリックスと争ったエピソードは有名で、争いに敗れたヘンドリックスはギターに火をつけるというザ・フー以上に過激なパフォーマンスを行った。

同年、“ピクチャー・オブ・リリー”(Pictures of Lily)が全英4位のヒット。

 

10月、シングル“恋のマジック・アイ”(I Can See for Miles)が全英10位、全米でも9位に入る。ザ・フーにとって同曲が全米チャートにおける最高位となった。

 

12月15日、アルバム『ザ・フー・セル・アウト』(The Who Sell Out)をリリース、全米13位・全米48位。

 

 

1968年、“マジック・バス”をセルフカヴァーし、全英では26位止まりだったが、米誌『Cash Box』では10位にランクイン。

 

 

1969年5月23日、アルバム『トミー』(Tommy)リリース、全英2位・全米4位。

 

3月7日、“ピンボールの魔術師”(Pinball Wizard)が全英4位。

 

8月16日~17日、ウッドストック・フェスティバルに出演。

同年、タウンゼントの友人で、3rdアルバム『セル・アウト』(1967年)に楽曲“アルメニアの空”を提供したジョン・“スピーディー”・キーンを中心とするバンド「サンダークラップ・ニューマン」を結成させ、デビュー・シングル“サムシング・イン・ジ・エアー”をプロデュース、ベースも担当し,

全英シングルチャートで3週1位を記録する大ヒットとなった。

 

 

1970年、ウッドストックで演奏し、シングルとしてリリースされた"Summertime Blues"が全英38位・全米27位、"See Me, Feel Me"が全米12位になる。

 

 

同年、彼が1967年より帰依しているインドの導師メハー・ババの誕生日を祝うために製作されたチャリティー・アルバム『Happy Birthday』に楽曲を提供。

 

1971年、"Won't Get Fooled Again"が全英9位・全米15位、

 

同年、アルバム『フーズ・ネクスト』(Who's Next)リリース、全英1位・全米4位。

 

 

1972年、同じくババのため製作されたアルバム『I Am』にも楽曲提供。この2枚のアルバムは少数しかプレスされず、ほとんどがババの信者に渡った。だが、これがザ・フーのファンの間で噂になり、海賊盤が出回ったため、同年、アメリカのMCAレコードから『フー・ケイム・ファースト』(Who Came First)として発表。これがタウンゼントの正式な1stソロ・アルバムとなり、全英30位・全米69位。本作にはババのための2枚のアルバムからの楽曲や、幻に終わったアルバム「ライフハウス」のための楽曲等が収められ、純粋な新作アルバムというより、未発表曲集の意味合いが強い。

 

同年、"Join Together"が全英9位・全米17位。

 

 

1973年1月、薬物中毒のため活動停止していたエリック・クラプトンの復帰ライヴを開催。

9月、同コンサートの実況盤『エリック・クラプトン・レインボー・コンサート』がリリース。

10月26日、アルバム『四重人格』(Quadrophenia)リリース、全英4位・全米2位。

 

 

1976年、“サブスティテュート”が再発、全英7位を記録した。

再びババのためのアルバム『With Love』に楽曲提供する程度にとどまっていたが、この間、タウンゼントはキット・ランバートとの訴訟問題を抱えており、音楽業界に嫌気が差し、ザ・フーにも興味を失いかけていた。

 

1977年、親友のロニー・レインと共作した2ndソロアルバム『ラフ・ミックス』(Rough Mix)を発表、全英44位・全米45位になった本作には盟友クラプトンやチャーリー・ワッツ等が参加した。 

 

1978年5月、映画『キッズ・アー・オールライト』用のライヴを行う。これがムーンが参加したザ・フー最後のライヴとなった。

8月18日、3年ぶりのアルバム『フー・アー・ユー』(Who Are You)を発売、全英6位・全米2位。タイトルトラック"Who Are You"が全英18位・全米14位になった。

 

 

9月7日、ポール・マッカートニー主催のパーティーに参加した翌日、キース・ムーンがオーバードースによりロンドン、メイフェアのフラットで死亡した。32歳だった。

9月8日、タウンゼントはムーンへの哀悼の念と、ザ・フー存続の決意を公式に声明。

バンドは数年先までスケジュールが決まっていたため、新ドラマーに元フェイセズのケニー・ジョーンズを迎え、翌1979年より再出発。だが、ムーンの死を契機に、タウンゼントの興味はソロ活動の方へと移っていった。

 

1980年、全曲新作の純粋なソロ作としては初のアルバム『エンプティ・グラス』(Empty Glass)を発表。全英11位・全米5位と、タウンゼントのソロ作では最高のセールスを記録。だがジョーンズはタウンゼントが「いい曲をザ・フーではなくソロのほうへ持っていっている」と不満を露にし、またダルトリーがジョーンズの演奏を嫌う等メンバー間に亀裂が生じ始めた。加えてタウンゼントは妻のカレンとの仲もうまく行かなくなり、ストレスから酒とドラッグに溺れるようになる。

 

 

 

1981年2月27日、シングル"ユー・ベター・ユー・ベット"(You Better You Bet)をリリース、全英9位・全米18位。

 

3月16日、アルバム『フェイス・ダンシズ』(Face Dances)リリース、全英2位・全米4位。

 

9月、コカインの過剰摂取によりタウンゼントは一時的に心肺停止状態にまで陥った。その後、カリフォルニアで薬物依存の治療を1ヶ月ほど受け、何とか回復した。 復活したものの、彼の精神はもはや限界に来ていた。

 

1982年、4thソロアルバム『チャイニーズ・アイズ』(All the Best Cowboys Have Chinese Eyes)をリリース、全英32位・全米26位。

 

同年、解散前のラストアルバム『イッツ・ハード』(It's Hard )を発売、全英11位・全米8位。

同年12月、トロントにて最後のコンサートを行う。

 

1983年5月、タウンゼントはダルトリーに「もうツアーはできない」と告げ、ダルトリーも了承。

6月、ザ・フーは正式に解散した。

同年4月、デモver.や未発表曲を集めた5thソロアルバム『スクープ』を発表、全米35位。

 

1985年7月、ライヴ・エイドに出演するため解散時のメンバーでザ・フーを再結成し4曲を演奏。

11月、全英70位・全米26位になった6thソロアルバム『ホワイト・シティ』および同タイトルのビデオ作品を発表。これは、移民が住むロンドンのスラム街を舞台としたストーリー仕立てのコンセプト・アルバムで、1986年より『ホワイト・シティ』の設定上にあるバンド「ディープ・エンド」の名でコンサートツアーを開催、メンバーにはピンク・フロイドのデヴィッド・ギルモアやサイモン・フィリップスも参加し、総勢17人による大編成バンドとなった。

 

8月、このライヴの模様を収録した『Deep End Live!』をリリース、全米98位。

同年、自身初の短編小説集『四重人格』(Horse's Neck)を発表した。

 

1986年、詩人テッド・ヒューズ作品「アイアン・マン」(マーベル・コミックの同名作品とは別物)のミュージカル化に着手。製作中、「これをザ・フーとして発表すべきだ」と進言されたが、タウンゼントがザ・フーにはそぐわないと難色を示した。

 

1988年2月、英国レコード産業協会(BPIアワード)の授賞式でザ・フーとして3曲を演奏したが、これを最後にケニー・ジョーンズはザ・フーと袂を別ち、以後は参加していない。

同年、アルバム『アイアン・マン』をタウンゼントのソロ作として発表、収録曲のうち2曲がザ・フー名義として扱われるに留まった。全米58位。

 

同年、ザ・フーのデビュー25周年記念コンサート・ツアーが行われた。

 

1990年、ザ・フーとしてロックの殿堂入り。

 

1991年秋頃、タウンゼントはコンセプトアルバム『サイコデリリクト』の製作に取り掛かる。本作は彼が書いた物語「Ray High And The Glass Household」を下地にしており、『トミー』や『四重人格』同様ロック・オペラの流れを汲む意欲作であった。アルバムは1993年6月にリリース。アルバムは曲と語りを交互に配した作りになっていて、語りの部分を抜いた音楽のみのバージョンもリリースされている。だがこの意欲作はセールス的には全米118位と惨敗、この結果に気落ちしたのか、タウンゼントはレコーディング・アーティストとしての廃業を宣言する。この言葉通り、彼のソロでのスタジオアルバムは、以降2021年現在まで製作されていない。

同年、『アイアン・マン』の舞台版が上演される。

 

『サイコデリリクト』に伴うツアーも敢行され、ニューヨーク・ブルックリンでの公演が2003年にライヴアルバム『Pete Townshend Live BAM 1993』として発表され、2006年にはDVDとしてもリリースされている。

 

1996年、ハイドパークでの英チャールズ皇太子が主催するプリンス・トラスト・コンサートにおける『四重人格』全曲ライブ演奏を契機に本格的なツアー活動を再開。ドラムにリンゴ・スターの息子であるザック・スターキー、また、ギターとボーカルにタウンゼントの実弟であるサイモン・タウンゼントが加入。ツアーは翌1997年まで続いた。

 

1999年、『アイアン・マン』が『アイアン・ジャイアント』と改題され、ワーナー・ブラザーズにより劇場アニメ化された。

12月、長年構想を温めてきたロックオペラ『ライフハウス』がラジオドラマとして発表、ドラマはBBCラジオ3から放送された。本ドラマは2000年に6枚組みCDボックス『Lifehouse Chronicles』としてインターネット販売された。CDボックスには、ラジオドラマで放映された音源だけでなく、1970年代前半に作られたデモ・トラックも収録されている。

 

2001年2月、グラミー賞特別功労賞をザ・フーとして受賞。

同年、1979年から翌年にかけて行われたプライベートコンサートの実況盤『The Oceanic Concerts』をリリース。共演のラファエル・ラッドとはミハー・ババの信者同士の仲である。 

 

2002年2月7・8日、ロイヤル・アルバート・ホールでのティーンエイジ・キャンサー・トラストのチャリティ・コンサートに出演。これがエントウィッスルが参加した最後のライヴ演奏となった。

6月27日、全米ツアー初日を翌日に控えたこの日、ジョン・エントウィッスルが米ネバダ州ラスベガスのホテルで、薬物摂取に起因する心臓発作で急死する。57歳没。

 

2003年1月、児童ポルノサイトにアクセスした容疑で一時身柄を拘束、家宅捜索を受ける。5月には不起訴処分となる。

 

2004年、ザ・フーとして初来日を果たす。横浜と大阪の2会場で開催されたロックフェス「The Rock Odyssey 2004」に出演。なお、この時のライブで、ザ・フーの次に登場したエアロスミスのジョー・ペリーが、MCでザ・フーから受けた影響と同じステージに立てる喜びを述べた。

 

2006年11月、ザ・フー24年ぶりのスタジオ録音フルアルバム『エンドレス・ワイヤー』(Endless Wire)を発表、全英9位・全米7位。

 

 

 

2008年、新たなロックオペラ『フロス』の制作に着手。タウンゼント曰く、もう一つの『四重人格』となる、『ライフハウス』と同じくらい困難な作品になるという(2017年現在で未完成)。

 

2012年、1996年に執筆開始していた自叙伝が完成、『フー・アイ・アム』と題して出版された。

 

2015年、『四重人格』のロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団とロンドン・オリアーナ合唱団によるオーケストラ版『Pete Townshend's Classic Quadrophenia』をリリース。アルバムは全英チャートの32位にランクインし、クラシック・チャートで1位になるには十分なセールスを上げたが、オリジナルがロック作品であるとして、クラシック・チャートから除外された。

同年7月5日、ロイヤル・アルバート・ホールにてオーケストラ版『四重人格』が演奏された。 

 

2019年、自身初の長編小説『The Age Of Anxiety』を発表。

12月、13年ぶりの新アルバム『WHO』をリリース、全英3位・全米2位。"Ball and Chain"など3曲がシングルリリースされた。ダルトリーは「『四重人格』以来最高のアルバムを作り上げたと思う」との自負を語った。

 

 

 

 

 

 

 

(関連記事)

 

 

(参照)

Wikipedia「ピート・タウンゼント」「Pete Townshend」

thr Who公式サイト