タミー・ワイネット(Tammy Wynette/出生名:Virginia Wynette Pugh/1942年5月5日~1998年4月6日)は、アメリカ合衆国のカントリー・ミュージックのシンガーソングライター。別表記「タミー・ウィネット」。

 

 

 

1942年5月5日、ヴァージニア・ワイネット・ピュウは、アメリカ合衆国ミシシッピ州イタワンバ(Itawamba County, Mississippi)郊外のバウンズ・クロスローズ(Bounds Crossroads)で、父ウイリアム・ホリス・ピュウと母ミルドレッド・フェイ・ピュウ(旧姓ラッセル/1922年-1991年)の間に、一人っ子として誕生。父親は農業従事者および地元ミュージシャンで、ワイネットが9歳の時に脳腫瘍で亡くなった。母親は農業の他に臨時教師も務めていた。母親は夫亡き後、ワイネットを自身の両親に預け、第二次世界大戦中、テネシー州メンフィスに転居して工場に勤務した。

 

1946年、母親は農業従事者のフォイ・リーと再婚した。

ワイネットはトイレが屋外にあり、水道設備のない母方の祖父母宅で育った。当時5歳であった叔母キャロライン・ラッセルとともに姉妹のように育った。

幼少期、亡くなった父が遺した様々な楽器を独学で演奏するようになった。

 

 

ワイネットはトレモント高等学校に進学し、バスケットボール選手として活躍した。

卒業1ヶ月前、18歳の誕生日の数か月前、ユープル・バードと最初の結婚をした。夫は建設作業員であったが、仕事が長続きせず職を転々とし、引っ越しも多かった。ワイネットはウエイトレス、受付、バーテンダー、靴工場従業員などで働いた。

 

1963年、ワイネットはアラバマ州バーミングハムにあるアメリカン・ビューティ・カレッジに入学、美容師になるために学んだ。歌手として成功した後もいつでも戻れるよう美容師の資格を更新し続けた。
最初の夫ユープルの元を離れ、その後に3人目の娘を産んだ。この娘は脊髄膜炎を患っており、治療費を稼ぐために夜に歌うようになった。ユープルはカントリー歌手を志望する彼女を支援せず、ワイネットによると夫は「夢でも見てろ」と語ったという。

数年後、彼女は歌っているところを写真に撮ってもらうため元夫にコンサートに来てもらい、その写真には「夢でも見てろ」とサインした。

 

1965年、アラバマ州ミッドフィールドで美容師をしていた頃、バーミングハムのWBRC-TV の『カントリー・ボーイ・エディ・ショウ』で歌い、これによりポーター・ワゴナーとともに演奏することになった。

 

1966年、グウェン、ティナ、ジャッキーの娘3人を連れてバーミングハムからテネシー州ナッシュビルに転居し、レコード会社との契約を志した。数々のレコード会社に断られ続けた後、プロデューサーのビリー・シェリルのオーディションを受けることとなった。当初シェリルは彼女との契約を躊躇していたが、楽曲“Apartment No. 9”のためにどうしても歌手が必要だったため仕方なく契約書に署名。だが、ワイネットが同曲を歌うのを聴いて感銘を受けたシェリルは、彼女をエピック・レコードと契約させた。

エピックとの契約時、シェリルは彼女にもっと印象的な名前に変えるよう提案。1979年の彼女の回顧録『Stand by Your Man』によると、その会議中ワイネットは長い金髪をポニーテイルにしており、シェリルは映画『Tammy and the Bachelor』でデビー・レイノルズ演じるタミーを思い出し、芸名は「タミー・ワイネット」となった。
12月、ボビー・オースティンとジョニー・ペイチェック作曲の1stシングル“Apartment No. 9”がリリース、米音楽誌『ビルボード』(Billboard)の「カントリー・チャート」(以下「米カントリー」)で第44位と惜しくもトップ40を逃した。

 

 

1967年、2ndシングル“Your Good Girl's Gonna Go Bad”が米カントリー3位と大ヒット。これ以降1970年代終盤まで、3曲以外全てが次々とトップ10にランクインした。

 

同年夏、続くデイヴィッド・ヒューストン(David Houston)とのデュエット・シングル“My Elusive Dreams”が彼女にとって初の米カントリー1位を獲得、『ビルボード』誌の総合シングルチャート「Billboard Hot 100」(以下「全米」)にも89位で入った。

 

同年終盤の“I Don't Wanna Play House”でも米カントリー1位を獲得、さらに英国でも37位でチャート入りした。

 

同年末、"Take Me to Your World"も米カントリー1位を達成した。

 

同年、ワイネットは“I Don't Wanna Play House”でグラミー賞女性カントリー・ヴォーカル賞を獲得した。



1968年、ワイネットは“D-I-V-O-R-C-E”をリリース、米カントリー1位・全米63位・全英12位に達した。

 

同年、続くシングル“スタンド・バイ・ユア・マン”(Stand by Your Man)をリリース。本曲はシェリルとワイネットによりエピックのスタジオで15分で作曲されたとされ、アメリカで女性人権運動が始まった頃に出版された。曲のメッセージは男性にどんな欠点があろうと女性はその男性のそばに留まるべきだというものであったため、批判され議論を引き起こし、フェミニストの矢面に立ったが、本曲は米カントリー1位・全米19位に加え、英国でもチャート1位をマークする大ヒットとなり、特にポップ・チャートでは19位を獲得し、ワイネットにとってソロとして唯一トップ40にランクインした。

 

この年、2番目の夫ドン・チャペルと離婚。

同年、ワイネットはCMAアワードの2人目の女性ヴォーカリスト賞受賞者となり、また1969年、1970年と続き3年連続の受賞となった。1984年から1987年にリーバ・マッキンタイアが4年連続受賞するまでこの記録は保持されていた。

7月1日、アルバム『D-I-V-O-R-C-E』をリリース、『ビルボード』誌の総合アルバム・チャート「Billboard 200」(以下「全米」)147位・同誌「カントリー・アルバム」チャート(以下「米カントリー」)1位を獲得した。

 

 

1969年1月13日、アルバム『Stand by Your Man』をリリース、全米43位・米カントリー2位をマークした。

 

2月16日、ジョージア州リンゴールドにてジョージ・ジョーンズ(George Jones)と結婚した。

同年、“Singing My Song”をリリース、米カントリー1位・全米75位を記録。

 

同年、“The Ways to Love a Man”も米カントリー1位を獲得、全米81位に入った。

 

続くシングル"I'll See Him Through"は米カントリー2位・全米100位を記録した。

 

同年、ワイネットは“スタンド・バイ・ユア・マン”でグラミー賞女性カントリー・ヴォーカル賞を獲得し、批評家によるとこの曲はカントリーのクラシックおよびスタンダードとされている。

同年、アルバム『Tammy's Greatest Hits 』は50万枚以上を売り上げ、1970年、RIAAによりゴールド・レコードに認定された。1989年6月、このアルバムは100万枚以上を売り上げプラチナ・レコードに認定された。

 

 

1970年、シングルは"He Loves Me All the Way"が米カントリー1位・全米97位、"Run Woman Run"が米カントリー1位・全米92位、"The Wonders You Perform"が米カントリー5位に入った。“The Wonders You Perform”はOrnella Vanoniがイタリア語版“Domani è un altro giorno”(「明日がある」の意)でカヴァーしたこともあり、イタリアでもヒットした。

 

 

 

4月27日、アルバム『Tammy's Touch』をリリース、米カントリー1位・全米85位。

9月12日、映画監督のボブ・ラフェルソンは映画『ファイブ・イージー・ピーセス』のサウンドトラックに彼女の多くの曲を使用した。

10月5日、ジョーンズとワイネットは1人娘タマラ・ジョージェットをもうけた。ジョージェット・ジョーンズとしてコンサートで母のトリビュートをしばしば行ない、近年カントリー・アーティストとして成功をおさめている。

 

 

1971年、“Good Lovin' (Makes it Right)”が米カントリー1位、“Bedtime Story”が米カントリー1位・全米86位、"We Sure Can Love Each Other"が米カントリー2位をマークした。

 

 

 

同年、ジョージ・ジョーンズとのデュエット・ナンバー"Take Me"が米カントリー9位をマークした。

 

 

1972年、“My Man (Understands)”、“'Til I Get it Right”がともに米カントリー1位、 "Reach Out Your Hand (And Touch Somebody)"が米カントリー2位を記録した。

 

 

 

同年、ジョーンズとのデュエット“The Ceremony”が米カントリー6位をマーク。

 

 

1973年、“Kids Say the Darndest Things”と"Another Lonely Song"がともに米カントリー1位になった。

 

 

同年、ジョーンズとのデュエット"We're Gonna Hold On"が米カントリー1位を獲得。

 

 

1974年、"Woman to Woman"が米カントリー4位に入った。

 

同年、ジョーンズとのデュエット"We Loved It Away"が米カントリー8位をマーク。

 

 

1975年、"(You Make Me Want to Be a) Mother"が米カントリー4位、"I Still Believe in Fairy Tales"が米カントリー13位に達した。

 


3月21日、ジョージ・ジョーンズとの離婚が成立した。ジョーンズのアルコール依存症が最大の原因とされる。だが離婚後も1980年頃までプロの歌手としてのコラボレーションは続き、ヒットも出した。



1976年、前年の離婚公表後、ワイネットは“'Til I Can Make It on My Own”を収録、米カントリー1位・全米84位を獲得し、8年ぶりにポップ・チャートへランクインした。この曲は離婚後の彼女のキャリアに多少なりとも助けとなって人気が落ちることなく、彼女の代表曲の1つとされている。2年後の1979年、ケニー・ロジャースとドッティ・ウエストのデュエットでカヴァーされ、1979年の米カントリー3位を獲得した。

 

同年、ワイネットは“You and Me”で再び米カントリー1位を獲得したが、これ以降ソロとして第1位を獲得することはなくなった。

 

同年、ジョージとのデュエットで"Golden Ring"と"Near You"がともに米カントリー1位を獲得した。

 

 

1977年初頭、ジョーンズとの“Near You”がデュエットとしての最後の1位となった。同じくジョーンズとのデュエットで"Southern California"が米カントリー5位を記録。

 

 

同年、“Let's Get Together (One Last Time)”と“One of a Kind”が、ともに米カントリー6位に入った。

 

 

 

1978年、“Womanhood”が米カントリー3位をマーク。

 

 

1979年、“No One Else in this World”が7位、“They Call It Makin' Love”が6位と、ともに米カントリーのトップ10にランクインした。

 

 

70年代には全部で21曲がカントリー・チャートにランクインし、内訳は17曲がソロ、3曲がジョーンズとのデュエット、1曲がヒューストンとのデュエットであった。ロレッタ・リン、ドリー・パートン、バーバラ・マンドレル、ドッティ・ウエスト、リン・アンダーソンとともに、女性カントリー歌手としての地位の再確認する手助けとなった。

 

 

1980年代初頭、チャートでの成功は下降し始める。

1980年、“Starting Over”と“He Was There (When I Needed You)”がともに米カントリー17位を記録した。

 

 

同年、ジョーンズとのデュエットで、"Two Story House"が米カントリー2位を記録。

 

 

1981年、自身の回顧録『Stand by Your Man』を基にして彼女の半生を描いた同名テレビ映画が放送。女優アネット・オトゥールがワイネット役を演じた。

同年、エヴァリー・ブラザーズのヒット曲のカヴァー“クライング・イン・ザ・レイン”(Crying in the Rain)が米カントリー18位。

 

 

1982年、“Another Chance”が米カントリー8位、“You Still Get to Me in My Dreams”が米カントリー16位、"A Good Night's Love"が米カントリー19位。

 

 

 

同年、ロイ・コニフ・シンガーズのデュエット・アルバム『The Nashville Connection』の収録曲に予定された“デルタの夜明け”(Delta Dawn)で共演したが、この曲は結局アルバムに収録されなかった。

この頃彼女は胆管の炎症など健康面での問題を抱えていた。



1983年、"I Just Heard a Heart Break (And I'm So Afraid It's Mine)"が米カントリー46位を記録。

 

 

1985年、1970年代のダン・ヒルのヒット曲“Sometimes When We Touch”をマーク・グレイとともにカヴァーし、第6位を獲得した。

 

 

1986年、CBSの昼ドラ『Capitol』に出演し、美容師で歌手のDarlene Stankowskiを演じた。

 


1987年、アルバム『Higher Ground』はネオトラディショナル・カントリーのサウンドを特徴とし、批評的にも商業的にも成功をおさめた。このアルバムにはラリー・ギャトリン、ヴィンス・ギル、リッキー・ヴァン・シェルトン、ロドニー・クロウェル、リッキー・スキャグス、エミルー・ハリス、オケインズなどが参加した。このアルバムからリカットされた“Your Love”が12位、“Talkin' to Myself Again”が16位と、米カントリー・チャートでトップ20にランクイン、さらに1988年初頭、エミルー・ハリスとのデュエットで3枚目のシングル“Beneath a Painted Sky”は米カントリー25位となった。これがワイネットにとってソロとしては最後のトップ40シングルとなった。

 

 

 

 

 

1988年、フロリダ州のショッピング・センター2店舗への投資の失敗により破産申請した。
 


1990年代、自身のジュエリー・ラインをデザインおよび販売を開始した。

 

 

1990年、アルバム『Heart Over Mind』をリリースしたが、ラジオでの人気も下降していった。本アルバムはカントリー・チャートでトップ40にランクインし、1990年および1991年にランディ・トラヴィスとのデュエット“We're Strangers Again”が米カントリー49位に入るなどいくつかのシングルがリカットされた。

 


1991年終盤、イギリスの電子音楽グループ「KLF」と“Justified and Ancient (Stand by the JAMs)”を収録し、全米11位・全英2位に到達、18か国で第1位を獲得した。この曲によりワイネットは新たなファンを獲得し、『ビルボード』誌Hot 100で彼女にとっての最高位となった。MVには「ミス・タミー・ワイネットはカントリー・ミュージックのファースト・レディ」という文だけでなく、音楽業界での彼女の多くの業績が表示される。ワイネットはこのビデオの中で王冠を被り、王座に座っている。なおこのビデオには時々日本語も表示される。

 


1992年、後にファースト・レディとなるヒラリー・クリントンは『60 Minutes』のインタビューでワイネットの“スタンド・バイ・ユア・マン”にかけて「私はタミー・ワイネットのように男性のそばに大人しく立っていたり、クッキーを焼いたりする女性とは違う」と語った。しかしクッキーを焼くくだりはワイネットへの例えよりむしろクリントン自身が別の話で語った「家にいてクッキーを焼いたりお茶を飲んだりすることもできたけれども、夫が公職に就く以前に私は専門職に就く決心をしていた」ことから来ているとされる'。 いずれにせよこれが議論の火種となった。ワイネットはクリントンのこの言葉に対し「全て私に当てはまり、あなたの辛辣な意見に不快に思う。あなたは全てのカントリー・ファンや、ホワイト・ハウスに行けない家庭的な人々の気分を害した」と記した。クリントンは多大なる否定的反応に直面し、その後謝罪してワイネットに資金集めイベントでの演奏を依頼し、ワイネットはこれを引き受けた。


1993年、初めてドリー・パートンおよびロレッタ・リン(Loretta Lynn)とともにレコーディングを行ない、アルバム『Honky Tonk Angels』をリリース。本アルバムは米カントリー・チャート6位に入り、全米42位にランクインした。

同年、同アルバムの収録曲でワンダ・ジャクソンのカヴァー・ナンバー"Silver Threads and Golden Needles"がリカットされたが、米カントリー68位とトップ40に届かず、シングル・ヒットには繋がらなかった。

 

 

1994年、ワイノナ・ジャッド、エルトン・ジョン、ライル・ラヴェット、アーロン・ネヴィル、スモーキー・ロビンソン、スティングなどカントリー、ポップ、ロックンロールのアーティストとのデュエットを収録した『Without Walls』をリリースした。ワイノナ・ジャッドとのデュエット“Girl Thang”が第64位となったが、このアルバムからは他にいずれの曲もシングルカットされなかった。同年、ゲーム番組『ホイール・オブ・フォーチュン』にセレブリティ・ゲストとして出演した。

 

 

 

1995年、ワイネットとジョーンズは15年ぶりのデュエット・アルバム『One』を出版し、同名シングルをリリース、2人にとって初めてのミュージック・ビデオを製作した。

 

 

1996年、ザ・ビーチ・ボーイズのアルバム『Stars and Stripes Vol. 1』のためにブライアン・ウィルソンと『In My Room』をデュエットでカヴァーしたが、『Vol. 2』に収録されることになったためにこのアルバムには収録されなかった。『Vol. 2』はリリースされることはなかったが、テレビのドキュメンタリー番組『Beach Boys: Nashville Sounds』でこの演奏が放送された。

12月1日放送のシットコム『Married... with Children』第11シーズンのエピソード『The Juggs Have Left The Building』に本人役で出演した。

 


1997年、ジョージア州カミングにあるラニアーランド・ミュージック・パークでの演奏が最後の共演となった。
同年、ルー・リード作曲の『Perfect Day』に参加し、イギリスで第1位を獲得した。
同年、『キング・オブ・ザ・ヒル』で主人公ハンク・ヒルの母親ティリー・ヒルの声をワイネットが亡くなるまで務め、ワイネット没後女優K・キャランが後を継いだ。

 

しかし、ワイネットは依存症による鎮痛剤の過剰摂取、入退院を繰り返して約15回の大手術を経験して数年に亘る闘病生活を送っており、身体はもう限界を迎えていた。

 

 

1998年4月6日、ワイネットは自宅のカウチで睡眠中に亡くなった。55歳没。

医師によるとワイネットは肺の血栓症により亡くなった。慢性の病に関わらず、亡くなる直前まで演奏を続け、さらなる演奏も予定されていた。


同年4月9日にナッシュビルのライマン公会堂で行われたお別れ会には1,500人が訪れた。これ以前に近親者のみが出席してナッシュビルのウッドロウン記念墓地に埋葬された。作曲家のビル・マックは『ダラス・モーニング・ニュース』の中で彼女について「一流」で「かけがえのない」「安定した」歌手と表した。リアン・ウオマックはワイネットの曲には強さと情熱を感じ、ワイネットは歌詞を的確に表現しており、曲を聴くとそれがよくわかると語った他、ワイネットは夫ジョージ・リッチー、4人の娘、8人の孫のおかげでこれまで生きてこられたとも語った。


1999年4月、死因を再度解明するため遺体が掘り起こされた。娘3人は医師と、夫でマネージャーのジョージ・リッチーをワイネットの不法死亡で訴えた。検視官はワイネットは不整脈で亡くなったと判断した。

5月、リッチーは事実無根であるとして反対訴訟の準備を始めたことから訴訟対象から外された。ワイネットの娘ジャッキー・デイリーは母の死についてリッチーに尋ねる前に『スター』誌にこの話を売った。リッチーはこれらの質問を個人的に聞かれたことはなく、娘たちは母の詳細について出版社に頼ったのであった。

ワイネットはナッシュビルのウッドロウン記念墓地の霊廟に再度埋葬された。この墓地には他にウエブ・ピアス、ジェリー・リード、マーティ・ロビンズ、ボビー・ラッセル、ポーター・ワゴナー、レッド・フォーリー、エディ・アーノルド等カントリー界の著名人が埋葬されており、2013年4月には元夫のジョージ・ジョーンズも埋葬された。


2012年3月、墓標が「タミー・ワイネット」から、ジョージ・リッチーと結婚後の最後の法的な名である「ヴァージニア・W・リチャードソン」に変更された。

 

 

2014年3月、墓標の文字は再度「タミー・ワイネット」に戻された。

 

 

 

 

 

ワイネットのベスト盤は多々リリースされているが、現在比較的入手しやすいてがるなもののひとつが、これ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「タミー・ワイネット」「Tammy Wynette」

 

 

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