フランキー・ヴァリ(Frankie Valli/出生名:Francesco Stephen Castelluccio/1934年5月3日~)は、アメリカ合衆国のポピュラー・シンガー。

 

 

 

1934年5月3日、後にフランキー・ヴァリの名で成功する人物は、アメリカ合衆国ニュージャージー州ニューアークのファースト・ウォードにおいて、理容師の父親・アンソニー・カステルッチオ、専業主婦の母親・メアリー・リナルディの息子として誕生。フランチェスコ・スティーブン・カステルッチオと名付けられた。フランチェスコは英語読みではフランシスとも言う。

フランチェスコが通っていたのはニューアークの人種が混在する学校であったため、ジャズやR&Btといった「黒人音楽」に自然に親しむ。

 

7歳の頃、母親に連れられニューヨークのパラマウント・シアターでフランク・シナトラの公演を観て以来、歌手を志すようになった。

その後、成長したフランチェスコは、音楽業界に身を置いた。


多くのセレブリティ同様、彼の生年については疑惑があった。2007年に彼が所属するユニバーサル・レコードによる彼の公式ホームページに掲載されるまで彼がこの問題について語ることはなかった。それまでの公式プロフィールには1937年と書かれていた。若い観客にアピールするための措置であったと推測される。ベア・ファミリー・レコード出版『The Four Lovers』 (BCD 15424)およびThe Smoking Gun で閲覧可能な1965年の顔写真によると1934年生まれとなっている。

 

 

1951年、フランチェスコは、自身の歌声を聴いたニッキー・デヴィート、トミー・デヴィート(Tommy DeVito)、ニック・マシオシの「ヴァラエティ・トリオ」から要請を受けて合流することとなり、プロのミュージシャンとしての活動を開始した。


1952年後期、ヴァラエティ・トリオは解散し、フランチェスコとトミー・デヴィートはニュージャージー州ニューブランズウィックにあるザ・スタンドの座付きバンドの一員となった。ここでフランチェスコはベースと歌を担当した。
なお、フランチェスコは音楽業界で自立するまで理容師として働いた。



1953年、フランチェスコは、「フランキー・ヴァレイ」(Frankie Valley)名義で、バラード“マイ・マザーズ・アイ” (My Mother’s Eye)を1stシングルとして発表してレコード・デビューした。

 

当初の芸名フランキー・ヴァレイは、彼が敬愛して止まないカントリー歌手「テキサス・ジーン・ヴァリ」("Texas" Jean Valli)に由来する。以降、ヴァリ姓の綴りをValleと変えたり、一時「フランキー・タイラー」(Frankie Tyler)」と名乗ったが、最終的に元のヴァリに戻り、綴りはFrankie Valliに落ちついた。

この頃、ヴァリとトミー・デヴィートはザ・スタンドの座付きバンドを辞め、ハンク・メジャースキ、フランク・カトゥーン、ビリー・トンプソンとともに「ヴァリアトーンズ」(The Variatones)を結成した。

 

 

1956年、ある女性歌手のバック演奏のオーディションを受けたヴァリアトーンズは、ニューヨークのレコード会社のピーター・ポールの目に留まり、1週間後RCAレコードのオーディションを受けることとなった。
彼等はグループ名を「フォー・ラヴァーズ」(The Four Lovers)と変え、何枚かのシングルとアルバム1枚分の楽曲をレコーディングした。

5月、“ユーアー・ザ・アップル・オブ・マイ・アイ”(You're the Apple of My Eye)を発表、このシングルでグループは初めて全国的な宣伝を試み、米音楽誌『ビルボード』の総合シングル・チャート「Hot 100」(以下「全米」)に入るのに十分なセールスとエアプレイを獲得し、グループはエド・サリバンのテレビ番組に招待を受けた。 “アップル・オブ・マイ・アイ”は結果として、フォー・ラヴァーズにとってチャート入りした唯一のシングルであった。その後のシングルは売れなかったが、グループはアルバム『ジョイライド』(Joyride)は作らせてもらえた。

 

 

1958年、ニッキー・デヴィートとハンク・メジャースキが脱退し、ニック・マシオシ(現:ニック・マッシ)とヒュー・ギャリティが参加した。マッシはバンドを出たり入ったりしており、時々チャーリー・カレロがアコーディオン奏者として参加した。


1959年、後に俳優として大成するヴァリの旧友ジョー・ペシ(当時は周辺関係者のパシリだった)から紹介されたキーボード奏者ボブ・ゴーディオがメンバーとなった。ヴァリとゴーディオはすぐに意気投合し、2人がグループのリーダーとなった。

 

 

1960年、いくつかの変遷を経て、グループは「フォー・シーズンズ」(The Four Seasons)と改名した。


1962年8月、シングル“シェリー” (Sherry)を発売。人気DJディック・クラークが自身で司会を務める全国放送テレビ番組で同曲を流すと、視聴者は今まで聴いたことのないヴァリの力強く強烈なファルセットにたちまち魅了され、放送後わずか24時間内に“シェリー”は20万枚を売り上げた。大反響を呼んだ“シェリー”は、全米1位を5週連続で獲得、英国でもチャート8位に入ったが、これに留まらず、アフリカ系歌手が99.9パーセントを占める『ビルボード』誌のR&Bチャートでも1位を記録。当時、白人グループが同チャートに入るのは極めて異例であった。

 

9月、アルバム『Sherry & 11 Others 』を発表、全米6位・全英20位をマークした。

 

10月、続くシングル“恋はヤセがまん”(Big Girls Don't Cry)を発売すると、再び5週連続全米1位・R&B1位を獲得、全英でも13位に入った。

 

 

1963年1月、“恋のハリキリ・ボーイ”(Walk Like a Man)を発売、3週連続全米1位・R&B3位・全英12位。

 

2月、アルバム『Big Girls Don't Cry and Twelve Others...』を発売、全米8位。

 

6月、シングル"Candy Girl"をリリース、全米3位・R&B13位。

 

12月、シングル"Stay"をリリース、全米16位。

 

 

1964年1月、シングル"Dawn (Go Away)"をリリース、全米3位。

 

3月、シングル"Ronnie"をリリース、全米6位。

 

3月、アルバム『Dawn (Go Away) and 11 Other Great Songs』を発売、全米6位。

 

6月、"悲しきラグ・ドール"(Rag Doll)をリリース、全米1位・全英2位・全米レコード協会(RIAA)ゴールド・ディスク認定。

 

7月、アルバム『Rag Doll』をリリース、全米7位。

 

8月、シングル"Save It for Me" "Funny Face"をリリース、全米10位。

 

10月、シングル"Big Man in Town"をリリース、全米20位。

 

 

1960年代当時、ゴーディオと作曲仲間でプロデューサーのボブ・クリュー(1931年11月12日-)は、ヴァリのソロの曲を作曲した。当時有名バンドの歌手がバンドと別でソロ活動をすることはロック/ポップ界では珍しく(ザ・クリケッツのバディ・ホリーは例外)、他のバンドにも影響を与えた。バンドとソロの双方でチャート上位に入る可能性は高く、ヴァリ、ゴーディオ、クリューは演奏面でも商業的にも成功した。

 

1965年8月、ゴーディオ&クリューの作曲でヴァリが歌ったソロ・シングル“太陽はもう輝かない”(The Sun Ain't Gonna Shine (Anymore))が初出。ヴァリの方はヒットしなかったが、ヴァリの声の調子までコピーしたとされる、イングランドで活動するアメリカ人バンドのザ・ウォーカー・ブラザーズが翌1966年にカヴァーしてシングル・リリースすると全米13位・全英1位と大ヒットを遂げた。

同年、シングル"Bye, Bye, Baby (Baby Goodbye)"をリリース、全英12位。

9月、シングル"Let's Hang On!"をリリース、全米3位・全英4位。

 

同年、"Don't Think Twice"を「The Wonder Who?」名義でリリース、全米12位。

同年、フォー・シーズンズからベース奏者で編曲者のニック・マッシが脱退し、代わりにチャーリー・カレロが参加した。その直後、さらにジョセフ・ラブラチオ(芸名:ジョー・ロング)に交代することとなった。

11月、コンピレーション・アルバム『The 4 Seasons' Gold Vault of Hits』をPhilips からリリース、全米10位・RIAAゴールドを獲得。

 

 

1966年1月、シングル"Working My Way Back to You"をリリース、全米9位・全英50位。

5月、シングル"Opus 17 (Don't You Worry 'Bout Me)"をリリース、全米13位・全英20位。

8月、シングル"I've Got You Under My Skin"をリリース、全米9位・12位。
 

 

11月、シングル"Tell It to the Rain"をリリース、全米10位・全英37位。

 

同年、ソロでレコーディングを行い、あまり注目されなかったシングル“ユーアー・レディ・ナウ”(You're Ready Now)がノーザン・ソウルとして英国のダンス・シーンでカルト的な人気を呼び驚異的なヒット、全英11位をマークした。


 

1967年2月、シングル"Beggin'"をリリース、全米16位・全英32位・BPIシルバー。

4月、ソロ・シングル“君の瞳に恋してる”(Can't Take My Eyes Off You)をリリースすると、遂にソロでも大ヒットを記録。全米チャートでは2位止まりだったが、アンディ・ウィリアムスをはじめ、後に広く多くのアーティストにカヴァーされるスタンダード曲になった。

 

5月、シングル"C'mon Marianne"をリリース、全米9位。
6月、ヴァリのソロ・デビュー・アルバム『The 4 Seasons Present Frankie Valli Solo』は多くのシングル曲と数枚の新曲で構成された。

7月、ソロ・シングル“I Make A Fool Of Myself”をリリース、全英18位となった。

同年、シングルWatch the Flowers Grow"を発売、全米30位。

 

 

1968年、シングル"Will You Love Me Tomorrow"が全米24位をマーク。

7月、2ndソロ・アルバム『Timeless』をリリース、全米176位。ここから“To Give (The Reason I Live)”は全米29位にランクインした。


ソロとフォー・シーズンズが5曲ずつ収録したアルバム『Half & Half』が1960年代最後の作品となった。このアルバムからのヒット曲は“The Girl I'll Never Know (Angels Never Fly This Low)”が第52位となったのみである。

 

 

1970年、“ユア・レディー・ナウ”をリリース、同年12月、全英11位となった。
1970年代、ヴァリは耳硬化症に悩まされ、1970年代後期は耳ではなく記憶を頼りに歌っていた。

 


1974年10月、ヴァリのソロ・シングル“瞳の面影”(My Eyes Adored You)がリリース、全米1位・『ビルボード』誌「アダルト・コンテンポラリー」チャート(以下「AC」)2位・全英5位を獲得。

 


1975年、ディスコ調のソロ・シングル“スウェアーリン・トゥ・ゴッド”(Swearin' to God)をリリースすると、全米6位・全英31位となり、『ビルボード』誌のダンス・チャートでも4位に入った。

 

同年、シングル"The Night"が全英7位・BPIシルバーを獲得。

2月、ソロ・アルバム『Closeup』をPrivate Stockから発表、全米51位・全英70位。

 

8月2日、シングル"Who Loves You"をリリース、全米3位・AC7位・全英6位。

 

10月、ソロ・シングル"Our Day Will Come"が全米11位・AC2位。

 

11月、ヴァリ以外がリード・ヴォーカルを務めた楽曲を多数収録した初めてのアルバム『Who Loves You』をWarner Brosからリリース、全米38位・全英12位・BPIゴールドを獲得。

12月、ドラマーのポルチがリードを歌い、ヴァリはコーラスと最初のブリッジのみを売歌ったシングル"December, 1963 (Oh, What a Night)"をリリース、全米1位・AC18位・全英1位・BPIプレミアムを獲得した。



1976年3月、ガイ・フレッチャーとダグ・フレット作曲でボブ・ゴーディオによるプロデュースのソロ・シングル“Fallen Angel”が全英11位とヒットした。当時、英国ではフォー・シーズンズでヴァリがリード・ヴォーカルではないシングル“Silver Star” もチャート3位に入るヒットになっていた。

同年、ヴァリは音楽ドキュメンタリー『All This and World War II』の中でビートルズの“ア・デイ・イン・ザ・ライフ”(A Day In The Life)をカヴァーした。

11月、コンピレーション・アルバム『Frankie Valli & the Four Seasons – The Greatest Hits』をK-telからリリース、全英4位・BPIプラチナを記録。


1978年、ヴァリは人気舞台の映画化作品『グリース』(Grease)の主題歌でビージーズのバリー・ギブ作曲の“グリース”(Grease)を歌い、全米1位・全英3位・BPIゴールドを獲得した。

 

11月、ソロ・シングル“Save Me, Save Me”が『ビルボード』誌のイージー・リスニング・チャートに入った。

 

 

1979年1月、ソロ・シングル“Fancy Dancer”が全米77位にランクインした。


1980年、ヴァリの耳硬化症は手術によりほぼ完治した。

 

 

1990年、1960年から1966年までのメンバーのフォー・シーズンズはロックの殿堂入りした。


1992年、フォー・シーズンズのアルバム『Hope and Glory』が発表された。

 

 

1994年、"December, 1963 (Oh, What a Night)"のリミックス・ヴァージョンをリリース、全米14位・AC22位をマークした。


1999年、フォー・シーズンズはヴォーカル・グループの殿堂に殿堂入りも果たした。


2005年、ブロードウェイ・ミュージカル『ジャージー・ボーイズ』が開幕。フランキー・ヴァリとフォー・シーズンズのヒット曲が多用され、フォー・シーズンズのメンバーであるトミー・デヴィート、フランキー・ヴァリ、ニック・マッシ、ボブ・ゴーディオの4人がそれぞれの視点から語る伝記的物語である。1980年に亡くなったヴァリの娘など、ヴァリの人生に実際に起こった出来事が描かれている。この作品は広く評価され、商業的にも成功し、トニー賞6部門を受賞しただけでなく、2014年にクリント・イーストウッド監督により映画化されている。パリス・ラスベガスおよび世界中でツアー公演が行なわれている。


2007年10月、1960年代の彼の好きな曲のカヴァーおよび当時録音した“Sunny”と “Any Day Now”の2曲を収録したアルバム『Romancing the 60s』を発表した。


2010年10月、ジュース・ニュートンのアルバム『Duets: Friends & Memories』の収録曲“The Biggest Part of Me”をデュエットした。


2012年10月19日より1週間、ブロードウェイでコンサートを行ない、これにより実質的にブロードウェイ・デビューとなった。

 

 

 

フォー・シーズンズは世界中で1億枚以上のレコード・CD売り上げを誇り、現在でも最も売り上げの高い音楽グループの1つとされている。

歌手、プロデューサー、ミュージシャンの入れ替わりが激しかったフォー・シーズンズだが、ゴーディオとヴァリは常に在籍し続けており、2人は互いに実質的に全曲目を含む資産の50%を所有している。

 

 

ゴーディオがライヴ活動から引退したため、現在ツアー公演を行なっているオリジナル・メンバーはヴァリのみである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「フランキー・ヴァリ」「Frankie Valli」「The Four Lovers」「フォー・シーズンズ」「The Four Seasons (band)」

 

 

(関連記事)