バリー・ギブ(英: Barry Gibb、KBE/出生名:Barry Alan Crompton Gibb/1946年9月1日~)は、英国王室属領マン島出身のシンガーソングライター・音楽プロデューサー。2人の弟(ロビン・ギブ、モーリス・ギブ)と結成したビー・ジーズのメンバーとして知られている。
1946年9月1日、バリー・アラン・クロンプトン・ギブは、マン島で父ヒュー・ギブ(1916-92)と母バーバラ(1920-2016)の下で生まれた。バリーは5人の子どもの二人目で、第一子の姉レズリー(1945年生)、二卵性双生児の次男ロビンと三男モーリス(1949年生)、年の離れた末の弟アンディ(1958年生)がいる。
1953年、バリーは家族とともにマンチェスターへ移り住む。
1955年、ギブ兄弟は教会の合唱団に所属しキャリアをスタートさせる。自宅の近所には後にハーマンズ・ハーミッツのリード・ヴォーカルとして英米で大人気を博すピーター・ヌーン一家が居り、ギブ一家とは家族ぐるみの付き合いをしていた。
1958年、彼が12歳の時、父の仕事の都合により家族7人でオーストラリアのクイーンズランド州ブリスベンに移住。一番下の弟、アンディ(1958年3月5日~1988年3月10日)はマンチェスターで生まれたばかりだった。
この地でバリーとロビン、モーリスのギブ兄弟は、小遣い稼ぎに歌うようになる。最初のグループ名は「ラトルスネークス」(Rattlesnakes)、その後、「ウィー・ジョニー・ヘインズ&ザ・ブルーキャッツ」(Wee Johnny Hayes & The Bluecats)になった。
3人は知人のレーサー「ビル・グード」(Bill Goode)の紹介でラジオDJ「ビル・ゲイツ」(Bill Gates、マイクロソフト創業者とは別人)と知り合う。ゲイツは、自身とグードのイニシャル(BG)から兄弟のグループ名を「ビー・ジーズ」(Bee Gees)とつける。
1960年に入るとテレビとラジオのレギュラー番組を持つようになった。
1963年にフェスティバル・レコードより“The Battle Of The Blue And The Grey / 三つのキッス”でレコードデビューする運びとなり、以後は国民的人気を博すこととなる。ビー・ジーズはエヴァリー・ブラザースからの影響も受けていた。
1965年、シングル"Wine and Women"をリリース、全豪19位になった。
1966年、ビー・ジーズはオーストラリアで最優秀ヴォーカルグループに選ばれる。
同年、シングル“スピックス&スペックス”(Spicks and Specks)をリリース、全豪5位になり、ニュージーランドではチャート首位になった。
1967年2月、オーストラリアはじめオセアニアでの大人気に着目したビートルズのマネージャーであるブライアン・エプスタインは、自らが経営するNEMSエンタープライズに入社したての新人ロバート・スティッグウッド(1934~2016)をオーストラリアへ赴かせ、ギブ兄弟にワールド・デビューの契約を持ち掛ける。
同年、イギリスに帰国したギブ兄弟は、オーストラリア・クイーンズランド州生まれでロンドン育ちのドラマー、コリン・ピーターセン(1948~)、そしてオーストラリア時代から彼らのレコーディングにたびたび参加していたシドニー出身のヴィンス・メロニー(1945~)をリードギターに迎え、ビー・ジーズは5人編成となる。
5月、ポリドール・レコード本社より“ニューヨーク炭鉱の悲劇”でビー・ジーズはレコード・デビュー。
同年、アメリカでの発売元であるアトコ・レコード(アトランティック・レコードの子会社)が、新人では前代未聞の25万ドルで契約した。
以後、“ラヴ・サムバディ”(To Love Somebody)、“ホリディ”(Holyday)、“ワールド”(World)をヒットさせる。
1967年、“マサチューセッツ”(Massachusetts)が全米11位・全英1位となる。本曲は、世界の各国で1位を獲得した他、日本の公式ヒット・チャート『オリコン』で、日本人以外の歌手で初めてナンバー1ヒットとなった。
8月9日、アルバム『ビー・ジーズ・ファースト』(Bee Gees' 1st)をリリース、全米7位・全英8位・全豪10位を記録した。
1968年1月27日、アルバム『ホリゾンタル』(Horizontal)をリリース、全米12位・全英16位・全豪8位に達した。
同年、シングルも“ワーズ”(Words)、“ジャンボー”(Jumbo)、初の全米TOP10入りとなった全米8位・全英1位“獄中の手紙”(I've Gotta Get A Message To You)、全米6位“ジョーク”(I Started A Joke)などコンスタントにリリース。
この頃、バリーはロビンとリードヴォーカルの座を争っていた。
9月、アルバム『Idea』をリリース、全米17位・全英4位・全豪8位。
同年末にヴィンスがプロデュサー業に転向するため正式に脱退した。
1969年春、アルバム『オデッサ』(Odessa)をリリース。
この頃、バリーがリードヴォーカルを取ったシングル“若葉のころ”(First Of May)を発売。
その後間もなくロビンがソロデビューする。
同年夏、シングル“トゥモロウ・トゥモロウ”(Tomorrow,Tomorrow)をリリース。
この“トゥモロウ・トゥモロウ”を最後にバリーとモーリスが一方的にコリンを解雇、これにより3人となったビージーズは“想い出を胸に”(Don't Forget To Remember)を全英TOP10に送り込む。
1970年、シングル"Lonely Days"をリリース、全米3位・全英33位。
同年春先、シングル“I.O.I.O.”、アルバム『キューカンバー・キャッスル』(Cucumber Castle)発売直後の兄弟喧嘩により空中分解。その後、各々ソロ・シングルを発表。
同年、バリーはソロシングル"I'll Kiss Your Memory"をリリースしたが、オランダでチャート16位に入った程度に終わった。
9月、ソロで芳しい成果を出せずにいたバリー、ロビン、モーリスの3人は再集結、
兄弟の結束の下に、改めてビージーズとして再出発することを誓う。
10月、再スタート第一弾アルバム『2Years On』を発売。
1971年1月、『2Years On』からシングルカットした“ロンリーデイ”(Lonly Days)を全米3位、『キャッシュボックス』誌では1位に送り込み、続くシングル“傷心の日々”(How Can You Mend A Broken Heart)は念願の全米No. 1となるが、アルバムセールスは低調だった。
同年のイギリス映画『小さな恋のメロディ』は、本国では成功しなかったが、日本では興業的にも大成功となり、サントラ盤に収められたビー・ジーズの“メロディ・フェア”(Melody Fair )や“若葉のころ”などは日本人に親しまれた。これらの曲は、現在でもラジオでオンエアされることがある。
1972年春、コリン解雇後はジェフ・ブリッジフォードがドラムを叩いていたものの、初の来日公演(日本でもアイドル人気だった1969年に予定されていたがメンバーの脱退などの諸問題で、延び延びとなっていた)寸前に解雇される。
1973年に、マネージャー兼プロデューサーのロバート・スティッグウッドが設立したRSOレコードへ移籍、アメリカでの発売元アトコ・レコード(アトランティック・レコードの子会社)で、かってはヤング・ラスカルズなどを手掛けたアリフ・マーディンのプロデュースを受け、アルバム『ライフ・イン・ア・ティン・キャン』(Life in a Tin Can)をリリース。1967年からステージでバックに30人編成ストリングス・オーケストラを付けていた従来のマンネリ化サウンドから路線変更した。
1974年、アルバム『ミスター・ナチュラル』(Mr. Natural)も不発に終わる。
1975年、芸能生活20周年記念アルバム『メインコース』(Main Course)をリリース、全米14位になった本作からシングルカットした“ジャイヴ・トーキン”(Jive Talkin)が全米1位・全英5位、“ブロードウェイの夜”(Nights On Broadway)が全米7位と、ディスコブームに乗り全米で大ヒット。以後も、ディスコナンバーを中心とする路線を継続する。
1976年、“ユー・シュッド・ビー・ダンシング”(You Should Be Dancing)が全米1位・全英5位、“偽りの愛”(Love So Right)が全米3位・全英41位になる等、引き続き大ヒットを飛ばした。
9月13日、アルバム『チルドレン・オブ・ザ・ワールド』(Children of the World)をリリース、全米8位になった。
1977年、ディスコで大人気のビー・ジーズの曲を大々的に採り入れた映画『サタデー・ナイト・フィーバー』(Saturday Night Fever)が公開。同作品は米国だけでなく海外でも大成功し、サウンドトラック 『Saturday Night Fever: The Original Movie Sound Track』も全米では24週連続1位、カナダで22週連続1位、全英で18週連続1位、オーストラリアで14週連続1位を獲得するメガヒットを遂げ、全世界でサウンドトラックとしては過去最高の4000万枚の売り上げを叩き出した。この記録はマイケル・ジャクソンの『スリラー』に抜かれるまで、史上最も多く売り上げたレコードだった。アルバムからはビー・ジーズの“恋のナイト・フィーバー”(Night Fever)が全米1位・全英1位、“ステイン・アライブ” (Stayin' Alive)が全米1位・全英4位、“愛はきらめきの中に”(How Deep Is Your Love)が全米1位・全英3位と大ヒットした他、タバレスの“モア・ザン・ア・ウーマン”、イボンヌ・エリマンの“イフ・アイ・キャント・ハブ・ユー”等もヒットした。
1978年、バリーはビートルズの“ア・デイ・イン・ザ・ライフ”(A Day in the Life)をカヴァーし、2作目のソロ・シングルとして発売、映画『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のサウンドトラックに収録された。同サントラにはロビンらも参加した。
1979年、ビー・ジーズは“失われた愛の世界”(Too Much Heaven)全米1位・全英3位、“哀愁のトラジディ”(Tragedy)全米1位・全英1位、“ラブ・ユー・インサイド・アウト”(Love You Inside Out)全米1位・全英13位とシングルヒットを連発、アルバム『失われた愛の世界』(Spirits Having Flown)は自身初のオリジナルアルバム米英1位を獲得した。
1980年、バーブラ・ストライザントのアルバム『Guilty』に参加、彼女とのデュエットでタイトルトラック"Guilty"をリリース、全米3位・全英34位になった。同アルバムからは"What Kind of Fool"もシングルカット、翌年に全米10位に入った。
1981年のアルバム『リヴィング・アイズ』(Living Eyes)がマイナーヒットに終わって以降は、各自のソロ活動と並行して他アーティストへの楽曲提供が活動の中心となり、数多くの全米ヒットを生み出す。
1984年、ソロシングル"Shine, Shine"をリリース、全米37位・全英95位になった。
9月17日、1stソロアルバム『Now Voyager』をリリース、全米72位・全米85位を記録した。
1987年にワーナー・レコードに移籍し、ビージーズは活動を再開。
アルバム『E.S.P.』よりシングル・カットされた“You Win Again”は、全英TOP10ヒットとなった。
1989年には、シングル“One”が全米7位と久々にTOP10ヒットになるものの、『Rolling Stone』誌では「Unwelcome Back Band」と酷評される。
1991年、シングル“シークレット・ラヴ”(Secret Love)が全英5位を記録。
1993年、“誰がために鐘は鳴る”(For Whom The Bell Tolls)をリリース、全米では109位に終わったが、全英では最高位4位のヒットとなった。
1994年、ギブ兄弟は「ソングライターの殿堂」入りを果たす。
1997年、ビー・ジーズは「アーティストの殿堂」と「ロックの殿堂」入りを果たす。
同年、シングル“アローン”(Alone)が全米28位・全英5位とヒット。
2001年、ビー・ジーズは「ヴォーカルグループの殿堂」入り。
同年、シングル“ディス・イズ・ホエア・アイ・ケイム・イン”(This Is Where I Came In)が全英18位。
2002年、ギブ兄弟は大英帝国勲章(CBE)を受章した。
2003年1月12日、モーリス・ギブが、マイアミビーチの病院で腸閉塞の手術中に急逝。53歳没。
弟を失ったバリーとロビンは、しばらくビージーズとしてのグループ活動を中止した。特に双子のロビンの受けたショックは余りに大きく、彼は再結成の意向はないと表明した。
2004年1月、ロビンとアリステア・グリフィンが共演したビージーズの1997年の曲のカヴァーシングル“My Lover's Prayer”がリリース、全英5位を記録した。
9月20日、「ダンスミュージックの殿堂」入りを果たし、音楽史上初めて4つの殿堂入りを記録。他にも、「英国の音楽に多大な貢献を行ったアーティスト」の栄誉も受賞した。
2005年1月、ロビンとラッセル・ワトソンが中心となって他のアーティストとともに立ち上げた「One World Project」というプロジェクトにバリーも参加。同プロジェクトはアジアの津波被害を救済するための慈善シングル“Grief Never Grows Old”をリリースした。なお、このプロジェクトにはボーイ・ジョージ、スティーヴ・ウィンウッド、ジョン・アンダーソン、リック・ウェイクマン、クリフ・リチャード、ビル・ワイマン、アメリカ、ケニー・ジョーンズ、シカゴ、ブライアン・ウィルソン(ビーチ・ボーイズ)、ラッセル・ワトソンとデイヴィ・スピラーンが参加した。
2009年1月、ラス・ジョーンズとロブ・ブライドン、そしてトム・ジョーンズとロビンが共演した曲“アイランズ・イン・ザ・ストリーム”(Islands in the Stream)(ビージーズの3人が1983年に制作した曲)が発売、全英1位に輝いた。このシングルはBBCのコメディ番組『Gavin & Stacey』が企画したチャリティ・シングルだった。
同年、時が過ぎ、バリーとロビンの二人は再びビージーズとして活動を行うことを決心。テレビ番組への出演を続けた。
2010年5月26日放送の『アメリカン・アイドル (シーズン9)』のファイナルに出演し、演奏した。
同年10月、ベルギーでのコンサート中に腹部に激痛を覚えたロビンが病院に運ばれ、腸閉塞と診断され手術を受けた。これは2003年に亡くなったモーリスの死因となった病気である。その後は体調が回復し、コンサート活動を再開していたが、2011年4月に再び腹部に痛みが生じたため、ブラジル公演の中止を余儀なくされた。
2011年10月、ロビンの病気が結腸がんであることが明らかになり、2012年1月には、がんが肝臓に転移していることが伝えられた。ロビンは治療を受けながら仕事を続け、ロビン=ジョンとともにタイタニック号沈没百周年を記念した初のクラシック作品“タイタニック・レクイエム”を制作した。当時のインタビューでロビンは「準備で気が紛れたおかげで、この病気から助かるかも知れないと心から思えるようになった」と語り、2012年2月初めには「がんからめざましく回復した」と宣言した。
2012年4月10日にロンドンで開催された“タイタニック・レクイエム”初演コンサートには、しかし、ロビンの姿はなかった。
4月14日、ロビンが肺炎を発症して、ロンドン市内チェルシーの病院に入院していることが明らかになった。ロビン=ジョンによると、家族と兄のバリーが見守る中、ロビンは昏睡状態に陥った。
4月21日にはロビンが昏睡状態から覚め、妻のドワイナがロイ・オービソンのヒット曲“クライング”を演奏すると大声をあげたことなどが報じられた。
2012年5月20日、ロビン・ギブが死去。62歳没。
これにより、ギブ3兄弟によるグループ活動は消滅した。
2016年10月7日、ソロアルバム『In the Now』をColumbiaからリリース、全米63位ながら、全英2位・全豪3位に達した。
2020年、バリーはソロシングル"Butterfly"をリリース。
2021年1月8日、ソロアルバム『Greenfields』をCapitolからリリース、全米15位・全英1位・全豪1位を獲得した。
バリー・ギブは、シンガーソングライターとして、ソロでも兄弟と合同でも成功している。1978年、Billboard Hot 100のトップ10内に同時に5曲を送り込んだ。また、同年3月には、トップ5内の4曲が彼によって書かれた曲だった時期が1週間あった。1977年12月24日から1978年9月2日までの37週のうち、27週もの間彼の曲が1位を記録していた。バリーが書いた曲は1960年代、1970年代、1980年代、1990年代の何れにも1位を記録している。彼の曲はエルヴィス・プレスリー、ジャニス・ジョプリン、バーブラ・ストライサンド、デスティニーズ・チャイルド、セリーヌ・ディオン、アル・グリーン、ダイアナ・ロス、ケニー・ロジャース、ディオンヌ・ワーウィック、ルーサー・ヴァンドロス、サラ・ヴォーン、ワイクリフ・ジョンなど100組以上のアーティストに録音されている。
バリーはアンディ・ギブ (末弟)、ケニー・ロジャース、ディオンヌ・ワーウィック、バーブラ・ストライサンド、ダイアナ・ロスのアルバムの制作も行い成功している。
(参照)
Wikipedia「バリー・ギブ」「BarryGibb」「ビー・ジーズ」
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