ヒューバート・サムリン(Hubert Sumlin/出生名:Hubert Charles Sumlin/1931年11月16日~2011年12月4日)は、アメリカ合衆国のブルーズ・ギタリスト、シンガー。





1931年11月16日、ヒューバート・チャールズ・サムリンは、アメリカ合衆国ミシシッピ州グリーンウッド(Greenwood, Mississippi)で生まれ、アーカンソー州ヒューズ(Hughes, Arkansas)で育った。

 

8歳の時、初めてギターを手に入れた。

 

少年時代、サムリンは公演に忍び込んでハウリン・ウルフ(Howlin' Wolf/1910年6月10日-1976年1月10日)に出会った。
 

1953年、ウルフはメンフィスからシカゴに拠点を移したが、彼のバンドの初代ギタリストを長年務めたウィリー・ジョンソン(Willie Johnson)は同行を拒否。止むを得ずウルフは、シカゴでギタリストのジョディ・ウィリアムズ(Jody Williams)を雇った。

 

1954年、ウルフは自身のバンドのセカンド・ギターとして迎えるからと、サムリンにシカゴに来るよう誘った。

サムリンによれば、ウルフはキーボードと音階を学ばせるために、サムリンをシカゴ音楽院のクラシックギター講師のところに送ったという。

1955年、ウィリアムズが脱退し、サムリンがウルフのバンドのメイン・ギタリストに昇格した。これ以降、ハウリン・ウルフのキャリアの残りの間、彼はほぼ継続的にその地位をキープ。「悲惨で粉々に砕ける音符の爆発、突然のクリフハンガーのような沈黙、そして大胆なリズミカルな中断」と評される個性的なギター演奏により、ウルフの名声とともにサムリンはその名を知られることとなる。

 

1956・57年頃、ウルフがマディ・ウォーターズ(Muddy Waters/1913年4月4日-1983年4月30日)と短期間共演したため、サムリンはウルフのメイン・ギタリストとしての地位を一時期譲ることとなった。

 

 

1959年、ウルフが初のLP(アルバム)『モーニン・イン・ザ・ムーンライト』(Moanin' in the Moonlight)をリリース、1951年から1959年までに録音されたウルフの音源を集めた本作において、一部はサムリン加入前のレコーディング音源であるためウィリー・ジョンソンがギターを弾いているが、サムリンは"Evil"でサイド・ギターを演奏、"Forty-Four"ではジョディ・ウィリアムズと共演している。

 

 

 

 

1962年1月11日、ウルフのセルフ・タイトルの2ndアルバム『ハウリン・ウルフ』(Howlin' Wolf)が発売、サムリンがメイン・ギタリストになって以降の1959~1962年の録音で、"Back Door Man"、“The Red Rooster”などが収録された。表紙のイラストから「ロッキングチェア・アルバム」(The Rockin' Chair Album)と呼ばれるこの作品は、ウルフの代名詞的作品であると同時に、2004年にポピュラー音楽専門誌『モジョ』(Mojo)により史上3番目に偉大なギター・アルバムに選ばれたことなどから、サムリンの代表作の一つにも挙げられる。

 

※この映像における“The Red Rooster”は「ロッキンチェア」Ver.とは異なるようだが、サムリンがギターを演奏している。

 

 

 

1964年、ウルフのシングル"Hidden Charms"、"My Country Sugar Mama" b/w "Love Me Darling"がリリース。間奏でサムリンのギター・プレイが堪能できる。"Love Me Darling"は1975年にチェスからリリースされたウルフのアルバム『Change My Way』に収録された。

 

 

同年、ウルフとのヨーロッパ・ツアーでのセッションの際、アルバム『American Folk Blues』をレコーディング、Amigaからサムリン自身の名でリリースした。これ以降、サムリンはウルフとのセッションの他にも、自分の名前でレコーディングを行うようになる。

 

 

1965年、ウルフのアルバム『リアル・フォーク・ブルース』(Real Folk Blues)がリリース、1956年から1965年までの10年間チェスで残した音源で、"Killing Floor"など代表曲を収録。

 

 

 

1969年、アルバム『Hubert's "American" Blues!』をScoutからリリース。

 

 

1971年8月、ウルフのアルバム『ザ・ロンドン・ハウリン・ウルフ・セッションズ』(The London Howlin' Wolf Sessions)がChessからリリース、ウルフが1970年にエリック・クラプトンやスティーヴ・ウィンウッド、ローリング・ストーンズのビル・ワイマンやチャーリー・ワッツとロンドンでセッションした音源を収録、サムリンはクラプトンにリードを譲るもリズム・ギターとして全曲に参加している。

 

 

 

1976年1月10日、ハウリン・ウルフが亡くなる。

サムリンは1980年頃まで、「ウルフ・ギャング」(the Wolf Gang)として自身でヴォーカルも取り、ウルフのバンドを構成していた他のメンバー数名と演奏を続ける。

その後、ソロに転じる。

 

 

1980年、アルバム『Gamblin' Woman』をL + Rからリリース。西ドイツで同年にレコーディングを行った。

 

 

1987年、アルバム『Hubert Sumlin's Blues Party』をBlack Topからリリース。

 

 

 

1989年、アルバム『Heart & Soul』をBlind Pigからリリース。

 

 

1990年、アルバム『Healing Feeling』をBlack Topからリリース。

 

 

1991年、アルバム『Blues Guitar Boss』をJSPからリリース。前年1990年にロンドンでレコーディング。

 

 

 

 

1994年、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスでレコーディングした2枚のアルバム、Emilion Villanueva and the Kansas City Boys とセッションした『Made in Argentina 1993』と、『I'm the Back Door Man』をBlues Specialからリリース。

 

同年、アルバム『My Guitar and Me』をEvidence Musicからリリース。1975年12月22日にフランスの首都パリのBarclay Studio でレコーディングした音源。

 

 

1996年、アルバム『Blues Classics』をBellaphonからリリース。1964に東ベルリンにてレコーディング。

 


1998年5月29日、ヘンリー・グレイ、カルヴィン・ジョーンズ、サム・レイ、コリン・リンデンと共演したウルフのトリビュート・アルバム『トリビュート・トゥ・ハウリン・ウルフ』(Tribute To Howlin' Wolf)がリリース、サムリンは“Killing Floor”で参加した。

 

同年、「モントルー・ジャズ・フェスティバル・イン・ジャパン」で「シカゴ・ブルース・オールスターズ」の一員として初来日。

同年、アルバムを2枚、『I Know You』をAPOから、『Wake Up Call』をBlues Planetから、それぞれリリース。

 

 

1999年、アルバム『トリビュート・トゥ・ハウリン・ウルフ』でグラミー賞にノミネートされた。サムリンは本作を含め、4回グラミー賞にノミネートされている。

 

 

2000年、レジェンドでパイントップ・パーキンスと共演。

 

 

2001年5月26・27日、2度目の来日を果たし、「第16回ジャパン・ブルース・カーニバル」に出演。

この頃、サムリンはニュージャージー州トトワ(Totowa, New Jersey)に転居、亡くなるまでの10年間住んでいた。

 

 

2003年、アルバム『Do the Don't』を「Elliott Sharp's Terraplane, with Hubert Sumlin」名義でIntuitionからリリース。

同年、『ローリング・ストーン』誌の同年8月号カバーストーリー「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第65位、2011年の改訂版では第43位に選ばれている。

 

 

2004年、最後のソロ・アルバムとなった『About Them Shoes』を、Tone-Cool Recordsからリリース。ジェームズ・コットンやハウリン・ウルフ、マディ・ウォーターズらシカゴ・ブルーズ界の大物と共演を重ねてきたサムリンは、本作でキース・リチャーズやエリック・クラプトンなどロック界のスターたちとの貴重なセッション音源を遺した。

 

 

 

 

同年、肺の摘出手術を受けたが、死の直前まで演奏を続けた。

 

 

2005年、映像作品『The Blues Guitar of Hubert Sumlin』をHomespun Tapesから、VHSとDVDでリリース。


 

2005年1月25日、ソロプロジェクトとしてアルバム『About Them Shoes』をリリース、キース・リチャーズ、エリック・クラプトン、リヴォン・ヘルム、デヴィッド・ヨハンセン、ジェームス・コットンらのパフォーマンスをフィーチャーした。

 


2008年、サムリンはブルース財団殿堂(the Blues Foundation Hall of Fame)入りを果たした。

 

 

2010年、アルバム『Midnight Memphis Sun』をNorthernBlues Musicから「JW-Jones release with special guests Hubert Sumlin and Charlie Musselwhite」名義でリリース。

同年、ケニー・ウェイン・シェパードの「Live!」への貢献が評価され、ブルース音楽賞を受賞した。サムリンはこの他にも何度もブルース音楽賞を受賞している。

同年、インディペンデント アーティストのキャリアを支援するために与えられる「第5回インディペンデント ミュージック アワード」(the fifth annual Independent Music Awards)の審査員を務めた。

 

 

2011年、死の数日前に行われたサムリンの最後のレコーディングは、スティーヴン・デイル・プティ(Stephen Dale Petit)のアルバム『Cracking The Code』(333 Records)のトラックで、リード・ギターを演奏した"Get You Off"と、セカンド・ギターを弾いた"Holla"であった。

 

 

 

 

 

2011年12月4日、ヒューバート・チャールズ・サムリンは、ニュージャージー州ウェイン(Wayne, New Jersey)の病院で心不全のため死去した。80歳没。

 

彼には妻エヴリン・サムリン(Evelyn Sumlin)がいた。

サムリンの葬儀費用はミック・ジャガーとキース・リチャーズが支払った。

 

 

 

 

2012年2月24日、ヒューバート・サムリンを偲び、彼の功績を称えるためのトリビュート・コンサートが開催、この時の模様は『HOWLIN' FOR HUBERT / HUBERT SUMLIN SPECIAL TRIBUTE CONCERT』(3CDR)としてリリースされた。

 

 

2013年10月25日、ライヴ・アルバム『Live from the American』を「Hubert Sumlin & Friends」名義でリリース。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ヒューバート・サムリン」「Hubert Sumlin」

 

 

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