ハウリン・ウルフ(Howlin' Wolf/出生名:Chester Arthur Burnett/1910年6月10日~1976年1月10日)は、合衆国のアフリカ系アメリカ人シカゴ・ブルーズ・シンガー、ギタリスト、ハーピスト。

 

 

 

チェスター・アーサー・バーネットは、ミシシッピ州ウェストポイント(West Point)郊外のホワイトポイント(White Station)で1910年6月10日、ガートルード・ヤングとトーマス・バーネットの間に生まれた。名前は合衆国第 21 代大統領チェスター A. アーサーにちなんで名付けられた。

 

1930年、当時ミシシッピ・デルタで最も人気のあるブルーズマンだったチャーリー・パットンを近所のジューク・ジョイントの外から聴いていたが、やがてパットンと知り合い、ギターを教わる。

ウルフは人生で最初に演奏した曲は..パットンの“ポニー・ブルース”(Pony Blues)だったと回想している。彼はまた、パットンからショーマンシップについても学んだ。.「ギターを弾く時、ギターを前後にひっくり返して、肩越しに投げたり、足の間に投げたり、空に投げたりした」というパットンから学んだ彼は、デルタの小さなコミュニティで、パットンとよくプレイしていた。

 

ウルフは、ミシシッピ・シェイクス、ブラインド・レモン・ジェファーソン、マ・レイニー、ロニー・ジョンソン、タンパ・レッド、ブラインド・ブレイク、トミー・ジョンソンなど、当時の他の人気のあるブルーズ・パフォーマーの影響を受けた。彼が初期にマスターした2 曲は、ジェファーソンの“マッチ ボックス・ブルース”(Match Box Blues)とリロイ・カーの“ハウ ロング・ハウ ロング・ブルース”(How Long, How Long Blues)だった。カントリー歌手のジミー・ロジャースからも影響を受けた。ウルフのハーモニカの演奏は、1933年に彼がアーカンソー州パーキンに引っ越した時に演奏方法を教わったサニー・ボーイ・ウィリアムソンIIをモデルにした.。

 

1930年代、ウルフは南部でソロ・パフォーマーとして、フロイド・ジョーンズ、ジョニー・シャインズ、ハニーボーイ・エドワーズ、サニー・ボーイ・ウィリアムソンII、ロバート・ジョンソン、ロバート・ロックウッド・ジュニア、ウィリー・ブラウン、ソン・ハウス、ウィリーなど、数多くのブルーズ・ミュージシャンと共演した。

 

1941年4月9日、彼はアメリカ陸軍に入隊し、全国のいくつかの基地に駐留した。しかし軍生活に適応するのが難しく、1943年11月3日に除隊した。

その後、アーカンソー州ウェストメンフィス近くに引っ越してきた家族の元に戻り、農業を手伝いながら演奏活動を続けた。

 

1948年、ウルフはギタリストのウィリー・ジョンソンとマット・"ギター"・マーフィー、ハーモニカ奏者のジュニア・パーカー、ピアニストの"デストラクション"、そしてドラマーのウィリー・スティールを含むバンドを結成。ウェストメンフィスのラジオ局 KWEM はライヴパフォーマンスの放送を開始し、アーカンソー州ヘレナの KFFA でウィリアムソンと一緒に出演することもあった。

 

1951年、フリーランスのタレント・スカウトだったアイク・ターナーは、ウェスト・メンフィスでウルフを聴いた。ターナーは彼をメンフィス・レコーディング・サービス (後にサン・スタジオに改名) でサム・フィリップスと、モダン・レコードのビハリ兄弟のために数曲録音するように彼を連れてきた。フィリップスは彼の歌を称賛。ハウリン・ウルフはすぐに地元の有名人になり、ギタリストのウィリー・ジョンソンとパット・ヘアを含むバンドで働き始めた。サン・レコードはまだ設立されていなかったため、フィリップスは彼の録音をチェス・レコードにライセンス供与した。

同年、シングル“モーニン・アット・ミッドナイト”(Moanin' at Midnight)/“ハウ・メニー・モア・イヤーズ”(How Many More Years)がチェス・レコード(Chess Records i)から発売されデビュー。40歳過ぎの遅咲きだったが、前者は『ビルボード』誌「R&Bチャート」で4位、後者は同10位にチャートイン。

 

 

同年、“Riding in the Moonlight”/“Morning at Midnight”と、“Passing By Blues”/“Crying at Daybreak” は、Modern の子会社 RPM Records から発売と、2社に分かれリリースされた。以下、特記がない限りすべてチェスからのリリース。

 

 

同年12月、チェスと専属契約を結び、以降、長きに渡って同社から作品を発表していった。

 

 

1952年、"My Baby Stole Off" b/w "I Want Your Picture"がRPM Records から発売。

 

同年後半、チェス側の勧めに従ってウルフは、チェス本社のあるシカゴに移ることを決意。その際、バックを務めていたギタリストのウィリー・ジョンソンがシカゴ行きを嫌ったため、シカゴで新たにバンドを結成。新しいギタリストが1年程で辞めた後、ヒューバート・サムリン(Hubert Sumlin/1931年11月16日~2011年12月4日)が迎えられた。

ウルフは、バンドリーダーとしては当時は異例のことで、失業保険や社会保険料を含め、ミュージシャンに適切かつ期日通りに支払うという方針を貫き、これにより最高のミュージシャンの何人かを引き付けることができた。

 

1954年、サムリンが初めてセッションに参加。以来、ウルフが亡くなるまでサムリンは相棒として活躍し、個性的なプレイで徐々にウルフのサウンドの中で存在感を増すようになった。

 

1955年、シングル"Who Will Be Next" b/w "I Have a Little Girl"を発売、R&Bチャート14位。

 

 

1956年、シングル"スモークスタック・ライトニン"(Smokestack Lightning) b/w "You Can't Be Beat"を発売、R&Bチャート8位になった。

 

同年、シングル"I Asked for Water" b/w "So Glad"を発売、2曲連続でR&Bチャート8位に到達した。

 

 

1959年、ウルフは初のLP『モーニン・イン・ザ・ムーンライト』(Moanin' in the Moonlight)を発表。当時の慣行で、アルバムは発売済みのシングル曲を集めたものになった。

 

 

1960年、ウルフは新たな録音を実施。“ワン・ダン・ドゥードル”(Wang Dang Doodle)、“バック・ドア・マン”(Back Door Man)、“スプーンフル”(Spoonful)、“レッド ルースター” (The Red Rooster/後に“リトル・レッド・ルースター”[Little Red Rooster])、“I Ain't Superstitious”、

“Goin' Down Slow”、“Kill​​ing Floor”、といった、ウィリー・ディクソンによって書かれた曲が多くレコーディングされ、これらはウルフにとって代表的な曲となった。

同年、初期では珍しいウルフの自作曲"Tell Me"がシングル発売。

 

同年、“Spoonful”もシングル発売された。同曲は後にクリームからエタ・ジェイムス、更にはクロノス・カルテットなどがカヴァーした、ブルーズのスタンダードナンバーとなった。

 

 

1961年、"Wang-Dang Doodle" b/w "Back Door Man"、"Down in the Bottom" b/w "Little Baby"、"The Red Rooster" b/w "Shake for Me"がシングルリリースされた。

 

 

 

 

1962年、シングル"You'll Be Mine"b/w "Goin' Down Slow"を発売。

 

1月11日、2ndアルバム『ハウリン・ウルフ』(Howlin' Wolf)を発売。1960年以降にレコーディングした曲で占められる本作は、ジャケットデザインから「ロッキング チェア アルバム」と呼ばれることも多い。

 

同年、アルバム『シングス・ザ・ブルース』(Howling Wolf Sings the Blues)がCrownより発売。1951・1952年のRPM録音のナンバーを収録。

 

 

’50~’60年代のブルーズリバイバルにより、アメリカのアフリカ系ブルーズメンは白人の一部の若者の間で支持を受けたが、ウルフもその最初の波に乗ったうちの一人だった。

 

1964年、ドイツのプロモーター、ホルスト・リップマンとフリッツ・ラウがプロデュースした「アメリカン・フォーク・ブルース・フェスティバル」の一環としてヨーロッパをツアー。

11月、 ローリング・ストーンズがカヴァーしたシングル“リトル・レッド・ルースター”が全英1位の大ヒット。こうした若い白人ミュージシャンがウルフの楽曲を取り上げてくれたおかげもあり、1960年代後半から1970年代前半、ウルフは活躍の場を広げることになる。

 

この頃、ウルフはローリング・ストーンズと共演している。

 

1965年、人気テレビ番組『シンディグ!』に出演。

 

1966年、アルバム『リアル・フォーク・ブルース』(Real Folk Blues)を発売。

 

 

1967年、アルバム『モア・リアル・フォーク・ブルース』(More Real Folk Blues)を発売。

 

 

1968年、アルバム『ザ・スーパー・スーパー・ブルース・バンド』(The Super Super Blues Band)で、マディ・ウォーターズ、ボ・ディドリーと共演。

 

 

11月、当時の流行に乗る形でサイケデリックな問題作『The Howlin' Wolf Album』をレコーディング、Cadetから発売した。マディ・ウォーターズの『エレクトリック・マッド』の続編とも言える内容だが、マディがそのコンセプトに乗り気であったのに対し、ウルフはそれを嫌いレコーディングの際に3日間家に立てこもったというエピソードも残っている。あくまでも己を通したウルフの姿勢を窺わせるエピソードである。

 

 

 

1969年、シングル"イーヴル"(Evil) b/w "Tail Dragger"を発売、R&Bチャート43位に入った。

 

 

1970年代に入るとウルフは交通事故の後遺症などもあり、体調を崩し往年の勢いを失っていく。しかし、そのような状況下でも現役であり続ける。

 

 

1970年4月末、ウルフは渡英し、エリック・クラプトンを筆頭に、数々の英国のロック・ミュージシャンたちと共演、スタジオ・アルバム制作のためのセッションを行った。

 

 

1971年3月16日、アルバム『メッセージ・トゥ・ザ・ヤング』(Message to the Young)を発売。

8月、アルバム『ザ・ロンドン・ハウリン・ウルフ・セッションズ』(The London Howlin' Wolf Sessions)を発売。ジャケットにはクラプトンを始め、スティーヴ・ウィンウッド、ローリング・ストーンズからビル・ワイマンとチャーリー・ワッツ等、前年の渡英時に共演した面々が記載された。ただしウィンウッドはオーヴァー・ダヴィングでの参加で、実際にはウルフと直接共演はしていない。アメリカで本作は自身唯一となる「Billboard 200」入りを果たし、同年9月11日に最高79位を記録、『ビルボード』誌「R&Bアルバム・チャート」では同年9月18日に28位を記録した。

 

 

 

1972年、ライヴ盤『Live and Cookin' (At Alice's Revisited)』発売。

 

 

1973年、スタジオ盤『ザ・バックドア・ウルフ』(The Back Door Wolf)をリリースした。レコーディング中、ウルフのタイコ府が悪化したため、彼が録音したアルバムでは35分余りと最も時間が短い。これが実質的にラスト・アルバムとなった。

 

 


1975年、コンピレーション・アルバム『チェンジ・マイ・ウェイ』(Change My Way)を発売。

 

 

1976年1月、ウルフは腎臓手術のためにイリノイ州ハインズにある退役軍人病院に入院した。 1月10日、合併症により 死去。最盛期は彼は身長6フィート3インチ(約190cm)、体重300ポンド(約136kg)だったという大男は、65歳でその生涯を閉じた。

ハウリン・ウルフことチェスター・バーネットは、シカゴ郊外のオークリッジ墓地の、道路の東側のセクション 18 の区画に埋葬された。

彼の墓石には、ギターとハーモニカのイメージが刻まれている。

 

1991年、ロックの殿堂に、「アーリー・インフルエンス」部門で、殿堂入りを果たした。

 

1994年9月17日、米国郵政公社はハウリン・ウルフを描いた29セントの記念切手を発行した。

 

1997年4月8日、ベストアルバム『His Best』が発売。

 

 

2019年6月25日、『ニューヨーク タイムズ マガジン』は、2008 年のユニバーサル火災で資料が破壊されたと伝えられている数百人のアーティストの中にハウリン ウルフをリストに入れた。

 

 

 

 

 

(関連記事)

マディ・ウォーターズ

 

ミック・ジャガー

 

 

(参照)

Wikipedia「ハウリン・ウルフ」「Howlin’ Wolf」

 

udiscovermusic.jp

2020年1月10日「ハウリン・ウルフの20曲:咆哮し続けたブルースの巨人の半生」

2019年10月18日「数々のアーティストがカバーした後に再評価されたハウリン・ウルフの“Spoonful”」