ベンジャミン・オール(Benjamin Orr/出生名:Benjamin Orzechowski/1949年4月2日~2000年10月3日)は、アメリカ合衆国のミュージシャン、歌手。ロック・バンド「カーズ」のベーシスト、共同創設者、および共同リード・ヴォーカリストとして最もよく知られている。

 

 

 

1949年4月2日、ベンジャミン・オルゼコウスキは、アメリカ合衆国オハイオ州レイクウッドで、ポーランド、ロシア、チェコスロバキア、ドイツ系の両親の元に誕生。

彼の家族は息子の音楽活動を積極的に支援した。おかげで彼は、ギター、ベース、キーボード、ドラムなど、いくつかの楽器に習熟した。


ファミリーネーム「Orzechowski」が11文字であることから地元では「ベニー・11・レターズ」(Benny 11 Letters=「ベニー11文字」の意)として知られる彼は、オハイオ州レイクウッドとオハイオ州パルマで育ち、ヴァレー・フォージ高校に通った。

 

 

1964年、地元のバンド「グラスホッパーズ」 (The Grasshoppers)にリード・シンガー兼ギタリストとして参加した。

 

 

1965年、グラスホッパーズは“Mod Socks”と“Pink Champagne (and Red Roses)” という2枚のシングルをサンバースト・レーベルからリリースしたが、後者はオルゼコウスキによる作曲だった。

 

グラスホッパーズは、クリーブランドのWEWS-TVが製作した人気ローカル音楽バラエティ番組『ビッグ5・ショー』のハウス・バンドも務めた。

オールとリック・オケイセックが初めて出会ったのは、この頃のことだった。オールの演奏が気に入ったリックは、連絡を取るようになった。

 

 

1966年、グラスホッパーズは解散し、バンド・メンバーの2人がアメリカ陸軍に徴兵された後、オルゼコウスキは「ミックスド・エモーションズ」 (Mixed Emotions)に加入し、後に「カラーズ」 (Colours)にも参加した。

その後、オルゼコウスキも徴兵されたが、陸軍での約1年半の後に徴兵猶予を受けた。
 

 

1970年代初頭、ベン・オルゼチョフスキことベンジャミン・オールは、オハイオ州コロンバスに移ったリックと再会。

クロスビー、スティルス&ナッシュ(Crosby, Stills and Nash)に影響を受けたリックは、ベンジャミンとフォーク・バンド「ミルクウッド」(Milkwood)を結成した。

 

 

1973年、ミルクウッドはアルバム『How's the Weather?』をパラマウント・レコードから発売。だがアルバムは成功せず、リリース後すぐに発売中止となり、バンドも解散してしまう。

 

ベンジャミンとリックは、「リチャード・アンド・ザ・ラビッツ」(Richard and the Rabbits)という新しいバンドを結成。名前はジョナサン・リッチマンに提案された。

リチャード・アンド・ザ・ラビッツが活動に終止符を打った時、ベンジャミンとリックはデュオでの活動を始めた。

 

 

1974年、ボストン・グラウンド・ラウンド・レストランでデュオとして演奏したが、彼らは解雇の憂き目に遭う。

 

 

1976年、ベンジャミンとリックは、別のニュー・ウェイヴ・バンド「キャプテン・スウィング」(Cap'n Swing)を創立、ここから急激に成功することになる。ラインナップは、リック・オケイセック(Vo,リズムG)、ベンジャミン・オール(Vo,B)、エリオット・イーストン(Elliot Easton/1953年12月18日-/G)、グレッグ・ホークス(Greg Hawkes/1952年10月22日-/Key)、デヴィッド・ロビンソン(David Robinson/1953年4月2日-※1949年生まれ説も有り/Ds)。

彼らは、メンバー全員が車好きだったという理由から、バンド名を「カーズ」(The Cars)に変更した。

バンドが持っていった“燃える欲望”(Just What I Needed)のデモテープを気に入った地元FM局の人気DJが自分の番組で繰り返しかけたところ、リクエストが殺到し、レコード会社の注目を集める。

 

 

1978年6月6日、カーズは1stアルバム『錯乱のドライヴ/カーズ登場』(The Cars)をElektraからリリース。全米18位・全英29位をマークし、ニュージーランドではチャート5位に入った。本アルバムからは、リックがリード・ヴォーカルを務めた2曲、"My Best Friend's Girl"が全米35位・全英3位、"Good Times Roll"が全米41位をマーク、ベンジャミンがリードを歌った"燃える欲望"(Just What I Needed)が全米27位・全英17位に入った。

 

 

 

 

リックはリズムギターを演奏し、ほとんどの曲のリード・ヴォーカルも取っており、残りの曲はオールがベースを弾きながらリード・ヴォーカルを担当した。

 

 

1979年6月13日、2ndアルバム『キャンディ・オーに捧ぐ』(Candy-O)をリリース、全米3位・全英30位を記録した。ここからのシングルは、リックが歌った"It's All I Can Do"が全米41位、オールがリードを取った"レッツ・ゴー"(Let's Go)が全米14位になった。

 

 

 

1970年代終盤、リックとベンジャミンの間に激しい作曲権争いが勃発。その後リックはバンドのソングライターともなっており、カーズのほとんどの曲は彼の名前がクレジットされているが、バンドメイトのグレッグ・ホークスとの共作も数曲存在する。

 

 

1980年8月15日、実験音楽的要素が強まった3rdアルバム『パノラマ』(Panorama)をリリース、全米5位。ここからは"Touch and Go"が全米37位を記録した。

 

 

 

1981年11月6日、ポップ色が強まった4thアルバム『シェイク・イット・アップ』(Shake It Up)をリリース、全米9位に入った。タイトルトラック"シェイク・イット・アップ"(Shake It Up)が全米4位・『ビルボード』誌「メインストリーム・ロック」チャート(以下「米ロック」)2位と大ヒット、"Since You're Gone"が全米41位をマークした。また、ベンジャミンがリード・ヴォーカルを歌った"Cruiser"と"Victim of Love"が米ロック・チャート入りした。

 

 

 

 

 

 

1984年2月、次のアルバムからの1枚目シングル“ユー・マイト・シンク”(You Might Think)は、全米7位・米ロック1位を記録、MVは初めてCGが使われた作品のひとつと言われ、同年マイケル・ジャクソン“スリラー”や、シンディ・ローパー“ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン”、マドンナなどの候補を退け、「第1回MTVアウォード」で「最優秀ビデオ賞」をはじめ6部門を受賞。さらに1984年の『ビルボード』誌「ビデオミュージック・アワード」では、5つの賞を受賞、ビデオテープ・プロダクション・アソシエイションの1985年モニター・アワードでは4つの賞を受賞した。

 

3月13日、前作同様にポップ路線を継承した5thアルバム『ハートビート・シティ』(Heartbeat City)をリリース、自己最高となる全米3位・全英25位をマーク。

 

5月7日、アルバムから2枚目のシングルとして"マジック"(Magic)をリカット、全米12位・米ロック1位に達した。

 

7月23日、“ドライブ”(Drive)をリカット、アルバムからの3枚目シングルとして発売すると、全米3位・全英4位をはじめ各国でトップ10入りする世界的ヒットになり、バンドにとって最大のセールスを記録するシングルとなった。リックが作曲し、ベンジャミンが歌った“ドライブ”はまた、1985年のライヴエイドのテーマ曲としても選ばれ、本楽曲にあわせてエチオピア飢餓の映像のビデオが、デヴィッド・ボウイの司会で世界中に流されるなど、特別な注目も集めた。

 

10月15日、アルバムから4枚目シングルとして"Hello Again"をリカット、全米20位をマークした。

 

 

1985年1月7日、アルバムからの5枚目シングル"Why Can't I Have You"をリカット、全米33位を記録した。

 

9月、アルバムのタイトルトラック"Heartbeat City"が全英チャート入りした。

 

10月18日、バンド初のベストアルバム『カーズ・グレイテスト・ヒッツ』(Greatest Hits)をリリース、全米12位・全英27位に加えて、豪州3位・ニュージーランド2位になった。ここからは、"トゥナイト・シー・カムズ"(Tonight She Comes)が全米7位・米ロック1位をマークした。

 

 

 

1986年、オールは、自身唯一のソロ・アルバム『ザ・レース』(The Lace)をElektraからリリース、全米86位になった。その音楽と歌詞は、長年のガールフレンドのダイアン・グレイ・ペイジ (Diane Gray Page)と共同で作成。彼女はバック・ヴォーカルでも参加しており、アルバムのバック・カヴァーにも登場している。本アルバムからは“ステイ・ザ・ナイト”(Stay the Night)をカット、全米24位・『ビルボード』誌「アダルト・コンテンポラリー」チャート2位・同誌「アダルト・ロック・トラックス」チャート6位を記録、さらに同曲のMVはMTVでヘビー・ローテーションされた。

 

2枚目のシングル“Too Hot to Stop”も翌1987年にリカット、ロック・チャートで25位に達したものの、全米チャートには入らなかった。

 

 

1987年8月25日、6thアルバム『ドア・トゥ・ドア』(Door To Door)をリリース、全米26位・全英72位に入った。本アルバムは、音楽の方向性があまりにも多様化しすぎ、ファンが戸惑い、それまでのアルバムの売り上げに比べてセールスが伸びなかった。本作からのシングルも、ベンジャミンとリックがリード・ヴォーカルを分け合った"You Are the Girl"が全米17位・米ロック2位、リックのヴォーカル曲"Strap Me In"が全米85位・米ロック4位、ベンジャミンがリードを歌った"Coming Up You"が全米74位と全盛期の勢いを取り戻せずにいた。

 

 

 

 

レコード・セールスの停滞に伴い、ツアーの観客動員数も減少してきた。

 

 

1988年2月、カーズは、記者会見や解散理由の説明もなく、グループをすでに解散していることを確認した。

メンバーはその後、ソロ活動などで活躍したが、ベンジャミンとリックはバンド解散後は疎遠になった。

 

 

1990年代中頃、オールはギタリストのジョン・カリッシュとともにレコーディング、だが発表の機会を失った。

 

 

1998年から2000年に亡くなるまで、彼は自身のバンド「ORR」と2つのサイドバンド、ミッキー・トーマスとジョン・キャファティとの「ヴォイス・オブ・クラシック・ロック」、そしてパット・トラヴァース(パット・トラヴァース・バンド)、ジェフ・カーリシ(38スペシャル)、デレク・セント・ホームズ(テッド・ニュージェント)、そしてリバティ・デヴィート(ビリー・ジョエル)とのカヴァー・バンド「ビッグ・ピープル」で演奏した。

オールは二度結婚し、息子が一人いた。

 

 

2000年4月、オールは膵臓癌と診断され、入院した。

同年夏、彼は健康上の問題を抱えていたにもかかわらず、夏の間、音楽フェスティバルや、州による見本市において、ビッグ・ピープルでパフォーマンスを続けた。

同年、カーズに関するドキュメンタリーのインタビューで、バンドはアトランタで最後にもう一度メンバーが集合。ベンジャミンも参加し、疎遠になっていた旧友リックとも生前に和解していた。彼らはアトランタでカーズの再結成を果たし、ライノ・エンタテインメントからのコンサート・ビデオ『The Cars Live』に収録されたインタビューに応じた。

9月27日、オールが最後に公の場に姿を現したのは、アラスカ州アンカレッジで開催されたビッグ・ピープルのコンサートであった。

 

 

 

 

2000年10月3日、ベンジャミン・オルゼコウスキは、ビッグ・ピープルのバンド・メイトであるジェフ・カーリッシ、デレク・セント・ホームズ、ロブ・ウィルソンに囲まれながら、アトランタの自宅にて息を引き取った。53歳没。

 

 

 

 

リック・オケイセックはオールへの音楽での追悼として“Silver”という曲を書いてレコーディングした。これは、オケイセックの2005年のソロ・アルバム『ネクスタデイ』に収録されている。

 

 

2010年、カーズは、オールの死から10年後に再結成した。

 

 

2011年5月、カーズは通算7枚目、そして最後となるスタジオ・アルバム『ムーヴ・ライク・ディス』(Move Like This)をリリースした。オールはライナーノーツで「ベン、あなたの精神は我々とともに、ここにある」と特別な賛辞を受けている。

 

 

2018年、オールはカーズのメンバーとしてロックの殿堂入りを果たした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ベンジャミン・オール」「Benjamin Orr」

 

 

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