サラ・ヴォーン(Sarah Vaughan/本名:Sarah Lois Vaughan/1924年3月27日~1990年4月3日)は、アメリカ合衆国のジャズ・ヴォーカリスト。

 

 

 

1924年3月27日、サラ・ロイス・ヴォーンは、アメリカ合衆国ニュージャージー州ニューアークで、本業の大工の傍らギターとピアノを弾くアズベリー・"ジェイク"・ヴォーンと、バージニア州からの移民で教会の聖歌隊で歌う洗濯婦のエイダ・ヴォーンの間に生まれた。 

ヴォーン一家はサラの幼少期を通じてニューアークのブランズウィック・ストリートにある家に住んでいた。

父のジェイクは非常に信心深い人であった。家族はトーマス ストリート186番地にあるニュー マウント ザイオン バプテスト教会で活動していた。

 

7歳でヴォーンはピアノのレッスンを始め、教会の聖歌隊で歌い、リハーサルや礼拝でピアノを弾いていた。

彼女は早くからポピュラー音楽への愛を育んだ。

 

1930年代、彼女はモンゴメリー・ストリート・スケートリンクで地元のバンドやツアー中のバンドを頻繁に見かけた。

 

10代半ばまでに、彼女はニューアークのナイトクラブに違法に足を踏み入れ、ピカデリークラブやニューアーク空港でピアニスト兼歌手として演奏した。
 

ヴォーンはイーストサイド高校に通ったが、その後、1931年に開校したニューアーク芸術高校に転校した。

 

高校3年の途中で、パフォーマーとしての夜の冒険が学業を追い越したため、より本格的に集中するために高校を中退した。


1942年、アポロ・シアターのアマチュア・ナイトで優勝したのをきっかけにプロの歌手となる。

 

 

1946年、作曲家のタッド・ダメロン(Tadd Dameron)が頻繁にコラボレーションしているサラ・ヴォーンのために"If You Could See Me Now"を書いた。歌詞はカール・シグマンによって書かれたこの曲は、彼女の代表曲の1つとなり、後の1998年にグラミー賞の殿堂入りを果たした。

 

 

1947年、"Tenderly"が初めて米音楽誌『ビルボード』の総合シングル・チャート「Billboard Hot 100」(以下「全米」)27位にチャート・イン。

 

同年、続くシングル“It's Magic”が全米11位に入るヒットとなり、大型新人として注目を集めた。

 

歌手でトランペッターのビリー・エクスタインに影響を受け、当時最先端のモダン・ジャズであったビバップのスタイルを歌唱に活かした、モダン・ジャズ・シンガーの先駆者である。

 

 

1948年3月29日、シングル"Nature Boy"をリリース、全米9位。

 

同年、シングル"Black Coffee"をリリース、全米13位。

 

 

1949年6月14日、シングル"That Lucky Old Sun (Just Rolls Around Heaven All Day)"をリリース、全米14位。

 

同年、"Make Believe (You Are Glad When You're Sorry)"が全米20位。

 

 

1950年、"Our Very Own"が全米15位、"I'm Crazy to Love You"が全米26位、"(I Love the Girl) I Love the Guy"が全米10位、"Thinking of You"が全米16位を記録。

 

 

 

 

1951年、"These Things I Offer You (For a Lifetime)"が全米11位、"Vanity"が全米19位、"I Ran All the Way Home"が全米18位。

 

 

 

 

1952年、"Sinner or Saint"が全米22位。

 


1953年、"I Confess"が豪州8位。

 

 

1954年、"Make Yourself Comfortable"が全英6位・豪州4位。

 

同年、クリフォード・ブラウン(Clifford Brown)と共演した『サラ・ヴォーン・ウィズ・クリフォード・ブラウン』(Sarah Vaughan with Clifford Brown)をリリース。

1954~1959年にはポピュラー傾向のあるものを「マーキュリー・レコード」に、ジャズ方面ではそのサブ・レーベル「エマーシー・レコード」に膨大な数の録音を残し全盛期を迎える。
 


1955年、"How Important Can It Be"が全米12位・豪州5位、"Whatever Lola Wants"が全米6位、"Experience Unnecessary"が全米14位、"C'est La Vie"が全米11位、"Mr. Wonderful"が全米13位・豪州10位。

 

 

 

 

 

同年、トランペット奏者のクリフォード・ブラウンが全面参加したアルバム『サラ・ヴォーン・ウィズ・クリフォード・ブラウン』(Sarah Vaughan)をエマーシーからリリース。“バードランドの子守唄”(Lullaby of Birdland)はジョージ・シアリング作曲のスタンダード・ナンバーで、本作の再発LPの一部(1962年オランダ盤、1975年ブラジル盤等)は、同曲がタイトルに冠された。

 

同年、アルバム『サラ・ヴォーン・イン・ザ・ランド・オブ・ハイ・ファイ』(In the Land of Hi-Fi)をからリリース。エマーシーが当時企画していた「イン・ザ・ランド・オブ・ハイ・ファイ」シリーズの一枚で、同レーベル在籍時のジャズ・アルバムの中でも評価の高い作品。

 

 

同年、コンピレーション・アルバム『アフター・アワーズ』(After Hours)をコロムビアからリリース。1949-1953年に同レーベルから発表した楽曲を収録。

 

 

1956年、"Hot and Cold Running Tears"が全米92位、"Fabulous Character"が全米19位、"It Happened Again"が全米72位、"The Banana Boat Song"が全米19位。

 

 

 

 

 

1957年、"Leave It to Love"が全米91位、Billy Eckstineと共演した"Passing Strangers"が全米82位・豪州27位・全英22位。

 

 


1959年、"Separate Ways"が全米96位、"Broken Hearted Melody"が全米7位・R&B5位・豪州8位・カナダ3位・オランダ19位・全英7位、"Smooth Operator"が全米44位・R&B8位・豪州45位・カナダ23位。

 

 

 

同年、Hal Mooney & His Orchestraの演奏でジョージ・ガーシュウィン(George Gershwin/1898年9月26日-1937年7月11日)の作品を歌い上げたアルバム『Sarah Vaughan Sings George Gershwin』をリリース、トラッド・ジャズ・アルバム・チャートで44位をマークした。

 

12月、カウント・ベイシー・オーケストラ(Count Basie Orchestra)と共演したアルバム『No Count Sarah』をMercuryからリリース、全英19位。ここからは"If I Were a Bell"をリカットした。

 

 

1950年代、ジャズに留まらない幅広い音楽性を持つサラはポップスにも挑戦して、 “Whatever Lola Wants”や“Broken-heated Melody”等、いくつかのヒット曲を出した。だが、商業的に大きな成功を得るには至らず、通俗性故に批評家からは冷淡な扱いを受けた。

 

 

1960年、"Eternally"が全米41位・豪州76位、"Serenata"が全米82位・豪州32位・全英37位。

 

 

1960~1963年、ルーレット・レコードに移籍する。

 


1963~1967年、再びマーキュリーと契約。この時期にはビートルズのカヴァーや、日本では特に知られる“ラヴァーズ・コンチェルト”をリリースした。

 

 

1964年、"Bluesette"がAC33位。

 


1966年、"ラヴァーズ・コンチェルト"(A Lover's Concerto)をリリース、本国メリカでは全米63位・AC5位と振るわなかったが、日本ではヒットした。

 

同年、"1-2-3"がAC33位。

 

 

1967~1971年、レコード契約がない不遇時代を迎えたが、この時期のライヴ録音が没後にCD発売されており、ヴォーカリストとしての力は決して衰えを見せなかった。

 

 

1971~1975年、メインストリーム・レコードと契約。依然として、カーペンターズの“雨の日と月曜日は”やマーヴィン・ゲイなどのカヴァーなどポップな録音を残している。

 

 

1973年9月に中野サンプラザで録音した『ライヴ・イン・ジャパン』(Live in Japan)は名盤の1つに数えられる。

 


1974年、"I Need You More (Than Ever Now)"がR&B80位。

 


1977年、ジャズ界の著名なプロデューサーであるノーマン・グランツの誘いで、彼の運営するパブロ(Pablo)・レコードに在籍、円熟した歌唱をアルバムに残す。

同年、ブラジルを訪れ、アントニオ・カルロス・ジョビンやミルトン・ナシメントらトップ・ミュージシャンと共演、アルバム『アイ・ラヴ・ブラジル!』(I Love Brazil!)をリリースした。

 

 

1981年、カウント・ベイシー・オーケストラとの共演盤『Send in the Clowns』をリリース。

4月9日、ポップなアレンジによる全曲ビートルズのカヴァーで構成した『ソングス・オブ・ザ・ビートルズ』(Songs of the Beatles)をアトランティックからリリース。

 

 

1982年、パブロでの最後のアルバムで初めてセルフ・プロデュースを行った『枯葉』(Crazy & Mixed Up)をリリース。『ペンギン・ガイド・トゥ・ジャズ・レコーディングス』は、このアルバムがパブロ・レーベルにおけるヴォーンのベストアルバムである可能性があると考えている。

 

 

同年、トーマス指揮によるロサンジェルス・フィルハーモニックとの共演でガーシュイン作品を歌った公演の模様を収めたライヴ盤『ガーシュウィン・ライヴ!』(Gershwin Live!)をリリース、第25回グラミー賞で最優秀女性ジャズ・ヴォーカル・パフォーマンス賞を獲得し、自身初のグラミー受賞を獲得した。



1980年代中盤以降も精力的なライヴ活動を行ったが、継続的なレコード契約がない時期を過ごした。

 

 

1987年、アルバム『ブラジリアン・ロマンス』(Brazilian Romance)をリリース、『ビルボード』誌のジャズ・アルバム・チャート4位を記録。これが自身最後のアルバム作品となった。

 

 

1989年には、クインシー・ジョーンズ(Quincy Jones/1933年3月14日-)のアルバム『バック・オン・ザ・ブロック』(Back on the Block)に参加している。

この頃、ヴォーンの健康状態は悪化し始めたが、彼女は演技でその兆候を明らかにすることはほとんどなかった。

同年、手の関節炎の治療の必要性を理由にヨーロッパでの一連の公演をキャンセルしたが、日本では予定通り公演を終えることができた。

この年、ニューヨーク「ブルーノート・ジャズ・クラブ」で公演期間中に肺がんと診断され、体調が重すぎたこともあり、一連の公演日程を最後まで終えられなかった。
その後、カリフォルニアの自宅に戻り化学療法を開始、最後の数か月間は病院と自宅で交互に過ごした。ヴォーンは入院生活にうんざりし、家に帰ることを要求した。

 

 

 

 

1990年4月3日の夜、カリフォルニア州の自宅で肺癌のため66歳で死去。娘が出演したテレビ映画『レイカー・ガールズ』を見ている最中だったという。

 

 

 


彼女の葬儀はニュージャージー州ニューアークにあるマウント・ザイオン・バプテスト教会で執り行われた。

式典の後、彼女の遺体は馬車でブルームフィールドのグレンデール墓地に運ばれた。



ソプラノからコントラルトまで幅広いレンジに美しいヴィブラートの掛かった、オペラ歌手にも匹敵する幅広い声域と豊かな声量を兼ね備え、大胆なフェイクやスキャットを取り入れた歌唱力をも持ち味としたサラ・ヴォーン。ジャズ・ヴォーカル史上、ビリー・ホリデイ(Billie Holiday/1915年4月7日-1959年7月17日)、エラ・フィッツジェラルド(Ella Fitzgerald/1917年4月25日-1996年6月15日)と並ぶ「女性ジャズ・ヴォーカリスト御三家」の一人と言われている。ヴォーンは数々の名盤を残し、ポピュラーの領域に挑むなど意欲的な活動を重ねたが、晩年まで「ジャズの女王」の名をほしいままにした。

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「サラ・ヴォーン」「Sarah Vaughan」

 

 

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