朱里 エイコ(しゅり エイコ /本名:田辺栄子[たなべ えいこ])/1948[昭和23]年3月19日~2004[平成16]年7月31日)は、日本の歌手。※生年については1946[昭和21]年説もある。

 

 

 

1948(昭和23)年(公称)3月19日、生誕。母はアメリカの人気番組『エド・サリヴァン・ショウ』に出演歴のある舞踏家兼振付師「朱里みさを」、父はオペラ歌手。

家庭内暴力のため、両親は間もなく離婚。

父はエイコが5歳の時に交通事故で亡くなったとされていたが、後に生存が確認された。

 

1962(昭和32)年4月8日、フォノシート付き雑誌『歌う雑誌 KODAMA NO.26コダマ★ヒットパレード』にて、“シンデレラ”を英語詞で歌唱。名義は「田辺エイ子」と「田辺栄子」が混在。

 

 

1963(昭和38)年10月、1stシングル“交通戦争はイヤ”(作詞:さとうよしみ/作・編曲:いずみたく)を「田辺エイ子」名義で日本ビクターより発売し、正式にレコードデビュー。

 

 

1964(昭和39)年8月、“三人三羽”(作詞:山上路夫/作・編曲:いずみたく)を「田辺エイコ」名義で発売、テレビ東京系テレビドラマ『三人三羽』主題歌。

 

ボブ・アルシルバーに師事。アメリカ、ハリウッドで当時有名だったプロデューサー、トーマス・ポールが来日した際、大勢の中からオーディションに合格。

11月、日本人の海外渡航自由化の年に16歳で単身渡米し、ダウンタウンのエルコース・ホテルで初舞台を踏む。

この年から2年間の契約で、ラスベガスを中心に各地のショービジネスにデビュー。リノ、レイク・タホ、ハワイ、シアトル、シカゴ、ニューヨークなどの一流ホテル・クラブで活躍した。まだ無名だった彼女は常にアメリカのランキング上位40曲を歌えなければならなかったという。ラスベガスではサラ・ヴォーンと一緒に舞台を踏んだ。

 

 

1966(昭和41)年9月に帰国。日本で初めてのリサイタルを、日生劇場で開く。

 

 

1967(昭和42)年4月10日、キングレコードに移籍し、「朱里エイコ」名義でシングル“恋のおとし穴”(作詞:福地美穂子/作曲:すぎやまこういち/編曲:森岡賢一郎)を発売。

 

11月20日、シングル“イエ・イエ”(作詞・作曲・編曲:小林亜星)を発売、レナウン「イエ・イエ」CM)ソングに採用される。

 

 

1968(昭和43)年5月1日、シングル“アニマル1の歌”(作詞:武井君子/作・編曲:玉木宏樹)を発売、川崎のぼる原作のレスリング漫画をフジテレビ系でテレビアニメ化した『アニマル1』主題歌(オープニングテーマ)。

 

8月1日、キングレコードの洋楽部門であったLONDONレーベル移籍第一弾としてシングル“ハバナ・アンナ”(作詞:音羽たかし/作曲: Leopold True Love/編曲:森岡賢一郎)を発売。同レーベルの女性第1号歌手となった。

 

 

1969(昭和44)年、帰国後2年余りの間にレコードを出したり、ワンマンショーを開いたりしたが、思ったように人気が出なかったため、2度目の単身渡米を敢行。当時、彼女のショーを観た専門家たちに言わせると、「彼女の持ち味が生かされるほど当時の日本は進んでいなかった」とのことだった。以前とは違う自分を試したかったエイコは、恩師の逝去という事情もあり、グループに所属せず単独のエンターテイナーとして勝負することを決心。ホテルとの契約、バンドの編成、バンドメンバーへの給料支払い等、すべてを一人でこなしながら、ラスベガスのリヴィエラ・ホテルなどで本場アメリカのショービズ界に身を投じる。 

 

 

1970(昭和45)年1月、ラスベガスでのショーが大成功を収める。

2月、「Eiko Shuri and her band」として「サハラ・ホテル」で2か月のロングラン公演がスタート。

さらにネバダ、ニューヨーク、ロサンゼルス、ハワイとワンマンショーを行う。

 

 

1971(昭和46)年2月、一時帰国し、ワーナー・パイオニアと契約。

7月25日、移籍第一弾シングル“恋のライセンス”(作詞:片桐和子/作曲:小松久/編曲:森岡賢一郎)を発売。

 

この頃にはアメリカで十分にエンターテイナーとして通用するようになり、再び日本で活動するため1972年10月、アメリカで最後のショーを開いて帰国。

 

 

1972(昭和47)年1月に発売したワーナー・パイオニア第二弾シングル“北国行きで”(作詞:山上路夫/作・編曲:鈴木邦彦)がオリコン最高位6位と大ヒットし、デビュー8年目にしてようやく日本でも人気が出た。

 

3月、5月と二度にわたって交通事故に遭い、むち打ち症になったことがきっかけで情緒不安定な傾向が見られるようになった。

4月25日、1stアルバム『これから始まる何か PASSIONATELY S.EIKO』発売。オリジナル曲はヒットシングル“北国行きで”と、“恋のライセンス”B面の“ミスター・スマイル”(作詞:片桐和子/作曲:小松久/編曲:森岡賢一郎)の2曲のみ。他は、尾崎紀世彦の大ヒット曲“また逢う日まで”(作詞:阿久悠/作曲:筒美京平/編曲:鈴木邦彦)や、サイモン&ガーファンクル不朽の名作“明日に架ける橋”(BRIDGE OVER TROUBLED WATER/作詞・曲:Paul Simon/編曲:前田憲男)など国内外のカヴァー曲を収録。

 

9月25日、シングル“恋の衝撃”(作詞:山上路夫/作曲:いずみたく/編曲:川口真)を発売。“北国行きで”に続くヒットシングルとなった。

 

同年12月31日、第23回NHK紅白歌合戦に初出場、“北国行きで”を歌唱する。

 

 

1973(昭和48)年2月14日、福島県郡山市で行われた「朱里エイコ リサイタル」に出演中、途中で歌詞を間違えたことがきっかけに声が出なくなってしまった。公演は打ち切られたが、本人はそのまま楽屋から失踪。連絡が取れない状態となった。翌日以降に行われる予定であった福島市の公演、いわき市の公演もキャンセルとなった。

同年、コカ・コーラCMソング“うるおいの世界”を歌唱。

 

7月10日、シングル“ジェット最終便”(作詞:橋本淳/作・編曲:川口真)発売。

 

8月25日、アルバム『ジェット最終便』発売、シングル発売された表題曲“ジェット最終便”の他、和田アキ子の代表曲“あの鐘を鳴らすのはあなた”(作詞:阿久悠/作曲:森田公一/編曲:葵まさひこ)のカヴァー等を収録。

 

12月31日、第24回NHK紅白歌合戦に2度目の出場、“ジェット最終便”を歌唱。

 

 

1974(昭和49)年3月25日、」シングル“二時から四時の昼下り”(作詞:なかにし礼/作・編曲:筒美京平)を発売。朱里にとって唯一の筒美京平作品となった。

 

 

1975(昭和50)年、マネジャーの渥美隆郎と結婚。当時日本では同じ職場にいる人と結婚することは、「職場に女性を連れ込んだ」という風に見られていたため、週刊誌などでは批判の対象となってしまう。しかしアメリカで長い間活動していた彼女にとって、気兼ねなく話をしたり、信頼できるパートナーと共に仕事をするというアメリカスタイルは、ごく普通のことだった。

3月28日、三たびアメリカに向かう。

4月1日からは、半年の全米ワンマンツアーを開始する。ニューオリンズ、プエルトリコ、ラスベガスなど各地で公演を行った。この際に、アメリカでザ・トゥナイト・ショー・スターリング・ジョニー・カーソンなどいくつかの番組出演し、初日にはショーの模様がABCにて放送された。

4月25日、シングル“AH SO!”(作詞:朱里エイコ/作・編曲:東海林修)を発売。ジャパニーズ・ファンクともいうべき同曲では自身が三味線を演奏しながら歌い、「AH SO!」の掛け声とともに、ショーでは大変な熱気に包まれ、好評だった。

 

6月、彼女のショーを観たアメリカのファンク・R&Bバンド「タワー・オブ・パワー」(Tower of Power)側からの申し出でジョイントレコーディングを企画。ロサンゼルスのワーナースタジオで彼らの作品を中心に数回にわたる慎重な打ち合わせが行われた結果、“愛のめざめ”( I'm Not A Little Girl Anymore)と、“絶体絶命(Buring My Bridges Behind Me)の2曲に決定。

10月から約1箇月半を費やしレコーディングを実施。日本と米国それぞれで発売。

 

 

1976(昭和51)年3月25日、シングル“愛のめざめ / 絶体絶命”(作詞・作曲・編曲/Tower of Power)を日本で発売。

 

 

3月、フラミンゴ・ラスベガスでの彼女のショーを観たアメリカ人コメディアン、レイカルド・デュオからカーネギー・ホール出演を持ちかけられる。

5月25日、ライヴアルバム『LAS VEGAS HERE I COME』を発売。1976年2月14日、ラスベガス・フロンティアホテルのラウンジで開催されたワンマンショーを録音したもの。ラスベガスでのライヴ・レコーディングを実施したのは、五木ひろしやピンク・レディーなどに先駆けて、朱里が日本人初。

 

6月19日、カーネギーホール(日本人女性として初出演)でのレイカルド・デュオとのジョイントリサイタル。大ホールでのこの公演は超満員となり、大成功を収めた。 

9月、カーネギー・ホールに出演して以来一緒に活動していたHervey Truittらバンドメンバーとともに帰国し、日本各地で凱旋公演を行った。この公演以来、「海外に通用する日本人アーティスト」として彼女を取り上げた「キョードー東京」の企画によって公演を行うようになる。 キョードー東京では海外アーティストとして扱われたという。

12月10日、ライヴ盤LP『NOW ON STAGE』発売。

 

12月、四度目の渡米。

 

 

1977(昭和52)年6月23日より東京から全国縦断リサイタルをスタート。

6月、彼女は来日していたポール・アンカに直接アタックする。ポールはLPに収録されていた“マイ・ウェイ”を聴いて大絶賛し、“ジョーのダイヤモンド”、朱里は“オクラホマ・モーニング”など、計4曲をプレゼントされた。

 

6月25日、松任谷由実に歌詞提供を受けたシングル“めぐり逢い”(作詞:松任谷由実/作曲:Randy Edelman/編曲:新井英治)を発売。キリンビールが発売する黒ビール「キリンブラック」のCMソング。

 

11月25日、ポールから贈られた“ジョーのダイヤモンド”(作詞:なかにし礼・Paul Anka/作曲:Paul Anka/編曲:竜崎孝路)をシングル発売。前作に引き続き「キリンブラック」CMソング。B面は“オクラホマ・モーニング”。

 

 

1978(昭和53)年、第7回東京音楽祭の国内大会に“ジョーのダイヤモンド”で出場、ゴールデン・スター賞、作曲賞を受賞した。 

7月15日に公開の映画『キタキツネ物語』にて、母キツネ「レイラ」役として女性ナレーション部分を担当。劇中歌“風の予感”、“やすらぎ”、“囁き”も歌唱したが、契約の関係でサウンドトラックには発売当初のLP盤には、“やすらぎ”、“囁き”のみ元ヤング101の牧ミユキが歌ったヴァージョンが収められた。

 

同年9月には渡米し、バーブラ・ストライサンド、フランク・シナトラ、ダイアナ・ロスら大物歌手を手掛け、多数のヒット曲を世に送り出したアメリカのトップ・プロデューサー、ドン・コスタのプロデュースによるアルバムの打ち合わせを行い、10月よりレコーディングが行われた。このアルバム制作のために、ポールはオリジナル曲15曲をプレゼントした。

10月25日、アルバムに先駆けて英語詞の“SAMURAI NIPPON”(作詞:Marco Bruno/作・編曲:Peter Stone)を発売。トヨタ「新チェイサー」CMソング。B面は同曲の日本語詞“サムライ・ニッポン”(作詞:麻生香太郎作・編曲:Peter Stone)。レコード売上5万枚という、“ジョーのダイヤモンド”に続くヒット曲となった。

 

11月にはレコーディングを完了し、この新曲のプロモートのためにハリウッドで行ったオーディションで選び抜いた4名のダンサーと共に帰国。テレビ、ステージで活躍した。インパクトのある題名、CMと何かと話題を集めた作品になった。 

12月21日、アルバム『NICE TO BE SINGING』を発売。

 

 

1979(昭和54)年、ソウル国際音楽祭に日本代表で出場。前年に出したLPに収録の“I GET OFF ON YOU”などを歌った。ちなみにこの模様を収録したLPが韓国のみで発売された。

5月、“窓あかり”を発売。バックにはレニー・ホワイトが参加した。 また久しぶりに日本を拠点に活動し、1年間をかけ徹底的に全国くまなくコンサートを各地で開き、大盛況。

10月10日、ワーナーから最後のシングル“愛は旅びと”(作詞:八坂裕子/作曲:Henry Mancini/編曲:梅垣達志)を発売。B面の“Everytime 愛”は自身が初めて作詞・作曲したシングル曲である(編曲:栗原三行)。

 

12月10日、初のベストアルバム『BEST Greatest Hits '72-'79』発売(アメリカ含む)し、ワーナーとの契約終了。

同月に東京厚生年金会館で行われたリサイタルは録音されたが、LP・CD化されておらず、幻の音源となっている。

 

 

1980(昭和55)年はレコード会社が安定しないままほとんどアメリカで活動していたため、日本公演は行われたが新曲発売は無かった。 

 

 

1981(昭和56)年、RCAレコードへ移籍。

1月8日より移籍後初のリサイタルを東京メルパルクホールから行う。

 

 

1983(昭和58)年6月、名古屋で3度目の失踪事件を起こしてしまう。この後しばらく入院したが、彼女の復活を望む声は多く、また徐々に活動を始める。 しかし悲劇は続いてしまう。赤坂コルドンブルーに出演して1週間たったある日、開演時間を過ぎても会場に現れない彼女を心配し、関係者が品川区の当時の自宅を訪ねた。すると部屋でパニック状態に陥り、苦しみ悶えている姿で発見される。彼女が精神科で出されていた薬と、直前に飲んだ栄養ドリンクが異常な症状を出すという、いわゆる薬の飲み合わせによるものだった。結局この日の公演は中止になり、この事件で彼女は信用を失ってしまう。 さらにはストレスなどいろいろなことが重なり、肝臓病を患ってしまう。生きるか死ぬかという状態が続き、5年という長期にわたって入院生活が続いた。

同年、事件の後に渡米。

 

 

1984(昭和59)年6月には一時帰国し、東京から、凱旋公演を行う。この時の公演は、事件の後初めて日本で行う公演であった。

 

 

1986(昭和61)年に帰国し、日本での活動を増やす。

 

 

1987(昭和62)年8月25日、シングル“すべての愛をあなたに”(作詞:森浩美/作曲:Michael Masser・Gerry Goffin/編曲:J.Latonio)を発売。B面“グレイテスト・ラブ・オブ・オール”(作詞:さかたかずこ/作曲Michael Masser・Linda Creed/編曲:J.Latonio)とも、ホイットニー・ヒューストンのヒット曲の日本語詞カヴァー。

 

 

1992(平成4)年10月21日、木崎たかしとのデュエット曲“お手をどうぞ/いつの日も愛のために”をシングル発売。表題曲“いつの日も愛のために”(作詞・曲:朱里エイコ/編曲:桜庭伸幸)は、ワーナー・パイオニアでの最後のシングルに収録された、朱里エイコ自身が作詞・作曲した“Everytime 愛”を改題してデュエットにしたもの。

12月、芸能生活25周年のリサイタルを開催。

 

 

1999(平成11)年3月9日、母・朱里みさをが心不全のため、東京都足立区の病院で亡くなる。

 

 

2003(平成15)年、ライヴで新曲“Dancin'”を披露。だが、CDなどの音源としては未だリリースされていない。

 

 

 

 

2004(平成16)年7月31日、東京都足立区竹の塚の自宅にて死亡しているところを同居人に発見される。死因は虚血性心不全。56歳没。

 

 

 

 

2009(平成21)年、1978年公開の映画『キタキツネ物語』のサウンドトラック『キタキツネ物語 ALTERNATE SOUND TRACKS+タケカワユキヒデ ホームレコーディングデモin1978』リリース。

劇中にて使用されながらも過去にレコード化された際に差し替えられた“やすらぎ”、 “囁き”を朱里エイコのヴォーカルによるオリジナル・バージョンで初収録、さらには完全初音源化となる“風の予感”をタケカワユキヒデの多重コーラスがダビングされたテイクで収録されている。

 

 

 

2011(平成23)年、ワーナー在籍時(1971年~1979年)に発表したオリジナル・アルバム9枚とアルバム未収録EP楽曲19曲を1枚に集約したシングル・コレクションをセットにしたCD全10枚の『ワーナー・イヤーズ 1971-1979紙ジャケット・コレクション』を数量限定発売、 全137曲収録。

 

 

2019(令和元)年11月3日、7インチシングル“AH SO!/悲しみの鳥が飛び立つとき”と“愛のめざめ/絶体絶命”がHMV record shopより数量限定発売。

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「朱里エイコ」