ステイシー Q(Stacey Q/出生名:Stacey Lynn Swain/1958年11月30日~) は、アメリカ合衆国のポップシンガー、ソングライター、ダンサー、女優。

 

 

 

1958年11月30日、ステイシー・リン・スウェインは、アメリカ合衆国カリフォルニア州フラートン(Fullerton, California)のオレンジ・カウンティ(the Orange County)郊外で3人兄弟の末っ子として誕生。母親のジョイスは、ハリウッド映画やテレビ番組に出演する「タレント犬」のウェルシュ・コーギー・カーディガンを飼育していた。

 

3歳の時、スウェインはダンスのレッスンを受けたいと願った。

 

5歳の時、スウェインクラシックバレエを習い始める。彼女は11年間バレエを学び、フラメンコダンスも学んだ。

 

1969年、スウェインはアナハイムの慈善ショーに出演する地元の劇団であるオレンジ・カウンティのダンスシアターの最年少メンバーとなった。

彼女はディズニーランドのクリスマス・ファンタジー・オン・パレードの複数のイベントに出演した。

スウェインはコミュニティ・シアター・オブ・パフォーミング・アーツとウィルシャー・シアター・オブ・アーツで学んだ。

彼女はまた、初期のレコーディングキャリア中に出版時の別名として使用していた「オランダの人形」の衣装を着てパフォーマンスも行った。

彼女はロアラ高校に2年生まで通った後、アナハイム高校に転校した。

 

 

1976年、高校卒業後、スウェインは「リングリング・ブラザーズとバーナム&ベイリー・サーカス」(the Ringling Brothers and Barnum & Bailey Circus)に参加し、1年目はショーガールとして、2年目は象乗りとしてパフォーマンスを行った。

彼女の最初の歌に関連する仕事は、LAのラジオのスポットで、ゴーゴーズ(the Go Go's)のメンバーのものまねをしながら番組を紹介したり発表するものであった。

 

 

1981年、スウェインは、ベルリンとソーシャル・ディストーションというバンドのレコーディングを主催したフラートンズ・カスバ・レコーディング・スタジオの経営者であるジョン・セント・ジェームス(Jon St. James)に紹介された。彼はクラフトワークやMのようなシンセバンドの大ファンであった。

同年、セント・ジェームスはステイシー・スウェインに会った時、この信じられない程スタイリッシュな元リングリング・ブラザーズのエレファントガールであり、ディズニーのメインストリート・パレードのベテランである彼女が、スウェイン自身も崇拝していたジャンルであるエレクトロニック・ミュージックと完璧に相性の良いスター性を備えていることをすぐに悟った。スウェインは日本の無名バンド「ザ・プラスチックス」と「ザ・B-52's」に夢中だったが、どうしてもデヴィッド・ボウイから離れられなかった。

ファッション・スタイルの研究者であるスウェインは、ボロ布を文字通りファッション・ステートメントに変えることができた。

ある時、彼女はアナハイムの店で買った大きな柔らかい革を2枚着て、アゴーラのルネッサンス・フェアに行った。
同年、セント・ジェームスは、ジェームズ・ボンドのキャラクターにちなんで名付けられた「Q」というシンセポップ・グループを開発。Q とは、ジェームズ・ボンドと彼のすべてのハイテク・ガジェットの責任者である科学者を指す。バンドはギターのセント・ジェームス、ボコーダーとシンセサイザーのダン・ヴァン・パッテン(Dan Van Patten)とジョン・ヴァン・トンゲレン(John Van Tongeren)で構成された。セント・ジェームスが最初の曲“Sushi”にヴォーカリストが必要であることに気づいた時、スウェインはバンドの4曲のアシスタント・プロデューサーを務めた。スウェインは以前彼のスタジオでデモを録音していたので、そのヴォーカルを提供した。

 

その後、彼女はQのリード・シンガーとなったが、当時はまだ自分自身を歌手というよりもダンサーだと考えていた。

同年、ジョン、ダン、そしてスウェインはプロジェクトQにおいて、ジョン Q(Jon Q)、ダン Q(Dan Q)、ステイシー Q(Stacey Q)のステージ・ネームとなる。

この頃、Q EP は大学のラジオでもっぱら放送された。その成功により、セント・ジェームスとスウェインはさらに多くの曲を制作するようになった。

 

 

1982年、グループは、ドラマーのカール・モエとシンセ奏者のリッチ・ウェストを新たに加えた。

だが、超有名プロデューサーのクインシー・ジョーンズ(Quincy Jones)が「『Q』という名前の使用権を保有した」と伝えられたため、著作権の問題により名前の変更を余儀なくされる。彼らはバンドの名前を「SSQ」と改名したが、これはセント・ジェームスが「バスタブほどの大きさの湖で釣りをしていて、そのボートが『S.S.Q』だという冗談を言った」という釣りに一部インスピレーションを得たもので、また、「SS」はステイシー・スウェインの略でもあった。

 

 

1983年、SSQはデビュー・アルバム『プレイバック』(Playback)を「エニグマ・レコード」からリリース。ここからカットした“シンシサイド”(Synthicide)はミュージック・ビデオも製作され、米音楽誌『ビルボード』の「Dance Club Songs」チャート(以下「ダンス」) 47位に入った。

 

 

1985年、スウェインはソロ歌手としてコロンビア・レコードとレコーディング契約を結んだ。

同年、彼女はソロ作品の名義としてS.S.Q時代のステージ・ネーム「ステイシーQ」(Stacey Q)を使用し、デビュー・シングル“Shy Girl”をリリースした。彼女のセルフタイトルのアルバムは後にカセット形式で限定リリースされた。このアルバムには、もともとスー・ガトリンによってリリースされ演奏された“Two of Hearts”の初期バージョンが含まれていた。

 

シングルが合わせて数千枚売れた後、彼女はアトランティック・レコードと契約し、セント・ジェームスをマネージャーとし、SSQの他のメンバーをバック・ミュージシャンとして迎えた。
同年末、彼女はアルバム『Better Than Heaven』の制作に取り組み、翌年にかけて3週間でレコーディングした。

 

 

1986年、ジョン・ミッチェル(John Mitchell)により作曲されたリード・シングル“トゥ・オブ・ハート”(Two of Hearts)をリリースすると、大きな反響を呼んだ。

同年後半、“トゥー・オブ・ハート”のミュージック・ビデオが『MTV』で頻繁に流れ、曲がラジオでオンエアされた。こうした動きもあり、本曲は『ビルボード』誌の総合シングル・チャート「Billboard Hot 100」(以下「全米」)最高3位に達し、カナダでは1位を獲得、その他5つの国でトップ10に達した。

 

10月17日、アルバム『Better Than Heaven』を発売、『ビルボード』誌の総合アルバム・チャート「Billboard 200」(以下「全米」)59位に達し、32位に入った豪州でゴールド認定を受けた。ここからは他に、ユートピアのウィリー・ウィルコックスが書いた"We Connect"が全米35位・ダンス14位・豪州7位、“Insecurity"がダンス1位、“Music out of Bounds"がダンス19位になった。なお、タイトル・トラック “Better Than Heaven”はベルリンとの共作で、“He Doesn't Understand”はラスティ・アンダーソンが書いた。

 

 

 

 

 

 

“トゥ・オブ・ハート”は一時的に「奇妙なアル」ヤンコビッチのパロディとして検討されたが、ソングライターは断った。

彼女はアメリカとヨーロッパのクラブ・ツアーに出かけた。

“トゥ・オブ・ハート”の成功により、スウェインはテレビのトークショーに出演した他、ゲーム番組『ザ・ゴング・ショー』や『ニュー・ハリウッド・スクエアズ』にゲストパネル出演するようになった。彼女はエピソード「オフ・ブロードウェイ・ベイビー」に「シナモン」役で出演し、NBCコメディ『The Facts of Life』で“トゥ・オブ・ハート”を披露した。 続くエピソード「A Star Is Torn」では彼女は“We Connect”を披露した。

 

 

1988年2月、スウェインはステイシー Qの2ndアルバム『ハード・マシーン』(Hard Machine)をリリースした。彼女は髪の色を金髪から赤に変え、パンクロックの影響を受けた外見を採用した。このアルバムにはセント・ジェームス以外にもプロデューサーが参加しており、結果的に音楽の方向性が異なったものとなった。チャートでは全米115位に達した。

 

ここからのシングル“ドント・メイク・ア・フール・オブ・ユアセルフ”(Don't Make a Fool of Yourself)は全米66位を記録し、シェップ・ペティボーンによるリミックスはダンス・チャートで4位に入った。このシングルは『フルハウス』のエピソード「D.J.タナーの休日」でフィーチャーされ、そこで彼女は「ステイシー・Q」本人役で少しだけ登場した。また、“ザ・リバー”(The River)と“アナザー・チャンス”(Another Chance)はカルト・アクション映画『ワン・マン・フォース』でも起用された。

 

 

 

1989年、3rdアルバム『Nights Like This』をAtlanticから3枚目にして最後のアルバムとしてリリース。この作品は、SSQ の最後の参加作品でもあった。 最初のシングルは“Give You All My Love”でダンス16位を記録、2番目のシングル“Heartbeat”はイーグルスのティモシー・B・シュミットがバッキング・ヴォーカルを担当したが、主要なチャートに入ることはできなかった。タイトル曲にはウェザーガールズによるバック・ヴォーカルがフィーチャーされている。音楽スタイルには、カワイのキーボードなどの楽器をさらに実験することが含まれていた。彼女はアルバムのプロモーションで、様々なクラブでの全国ツアーを行った。

 

 

テレビでは、彼女は『ママズ・ファミリー』のエピソードに出演し、ボーンクラッシャーズという女性だけのバンドのメンバーとして出演した。

 

 

1993年、スウェインは独立レーベルのサンプ・レコードからシングル“トゥー・ホット・フォー・ラブ”(Two Hot for Love)をリリースした。 このシングルは1990年代初頭のダンス サウンドに向けて構成され、性的なものを暗示する歌詞をフィーチャーしており、アーティストの新たな方向転換を表している。また、アトランティック レコードの最初のアルバムからの素材と、決して収録されなかったQおよびSSQ からのトラックも収集した。

 


1995年5月16日、コンピレーション・アルバム『Stacey Q's Greatest Hits』をリリース。ほとんどのトラックは、オリジナル バージョンから完全にリミックスまたは再編集された。

 

 

 

1990年代半ば、スウェインはチベットを旅行し、そこで極東の修道院の踊りと歌に出会う。彼女はネパールにも住んでおり、そこで仏教のラマ僧と一緒に僧院で学び、古代芸術であるチャムダンスの訓練を受けた。

 

1997年10月21日、スウェインはチベットでの経験と仏教への改宗を反映したアルバム『ブーメラン』(Boomerang)をリリースした。

 

同年、ジャニス・イアンの“Tenderness”のカヴァーをシングル・リリースし、ジャマイカのチャートで第5位に達した。

 

 

スウェインは引き続き様々な音楽や演技のプロジェクトに関わり続けた。

彼女は同性愛者をテーマにしたアート映画『Citizens of Perpetual Indulgence』に出演し、『Playing the Odds』では「性的でない特別な出演」をした。

 

 

2000年、彼女はサンフランシスコを拠点とするナムサイ・ドルジェ・シアター・カンパニーによる『パドマサンバヴァの生涯』で主人公の女性キャラクター「イェシェ・ツォギャル」を演じた。

 

 

2001年、彼女はコンピレーションアルバム『ポルノ・トゥ・ロック』やディオールの同年のアルバム『S E X』で監督のジェフリー・カレン・ディオールと協力した。

 

 

2002年、スウェインはVH1ゲーム番組Never Mind the Buzzcocksの「Identity Parade」ラウンドに出演した。

 

 

2003年、彼女は、ディヴァイン・フリークエンシー(シンプリー・ジェフ)のシングル「ヒア・ザ・フィーリング」でヴォーカルを提供し、レイブに関するドキュメンタリーのサウンドトラックに使用された。

 

 

この頃、彼女は、日本のアニメ シリーズである『ストラトス フォー』の英語版『STRATOS 4』で、ヒロインのうちの一人「菊原花凛」の声を担当した。

 

 

2007年、この頃、元SSQのバンド仲間であるジョン・セント・ジェームス(‎JON ST. JAMES)とスキップ・ハーン(‎Skip Hahn)のデュオ「エコー・ジャンキーズ」(‎Echo Junkies)のデビュー・アルバム『Echo Junkies』でヴォーカルを担当した。

 

同年、Thump Records は別の Stacey Q コンピレーション『Queen of the 80s』をリリース、Q と SSQ の曲だけでなく、彼女のソロ曲の多くのオリジナル バージョンが含まれていた。

 

 

2008年11月、彼女はCBSの『ザ・アーリー・ショー』に1980年代の回想コーナーの一環として出演し、“トゥ・オブ・ハート”を歌った。
同年、スウェインはショーン・ウィンスティアンとシェーン・コンドからなるソングライター・デュオ、ハイドラ・プロダクションズにゲスト・ヴォーカルを提供した。 彼らのデビューアルバムである『リキッド』には、エクスポーゼのティファニーやジョイア・ブルーノなど、1980年代のダンスポップ・アーティストが出演した。

 

 

2009年、10数年ぶりに制作中のアルバムから先行シングル"Trip"をリリース。

 

 

2010年2月14日、アルバム『Color Me Cinnamon』をHydra Productionsからリリース。ここからは、さらに"Pandora's Box"と"Going Goth"をカットした。

 

 

 

2011年、プロモーション・シングル"Trick or Treat"をリリース。

 

 

2020年1月1日、SSQは12曲の新曲を収録したニューアルバム『Jet Town Je t’aime』をリリースした。37年ぶりのリリースとなる本アルバムは、ジョン・セント・ジェームスがプロデュースし、デジタルストアとストリーミングサービス限定でリリースされた。このセットには、元々ステイシー Q のシングルとして2019年12月 10日にデジタルリリースされた“Trippin' Me Out”が含まれている。

 

 

1月27日、2番目のシングル“Airpods On”の2つの別々のミュージック・ビデオが、ステイシー Q の YouTube チャンネルに投稿された。

 

 


2022年9月、ステイシーのアルバム『Better Than Heaven』がボーナス・トラックとリミックスとともに再リリースされた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「Stacey Q」「SSQ (band)」

 

 

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