レイ・トーマス (Ray Thomas/出生名:Raymond Thomas/1941年12月29日~2018年1月4日) は、英国のマルチ楽器奏者、フルート奏者、歌手。英国のプログレッシブ ロック バンド、ムーディー・ブルースの創設メンバーおよび作曲家。

 

 

 

1941年12月29日、レイモンド・トーマスは、第二次世界大戦中、英国ウースターシャー州ストゥールポート・オン・セヴァーンのリックヒル・マナーに設置された緊急産科病棟で生まれた。彼の父親の家族はウェールズの南西隅の出身で、祖父はウェールズの鉱山労働者として働いた後に大工と木彫り職人になり、ある段階ではトーマスが後に結婚する教会で働いていた。

 

9歳の時、トーマスは父親からハーモニカの吹き方を教わり、これが彼の音楽への興味のきっかけとなった。

 

1年後、彼は学校の合唱団に加わった。

 

14歳で学校を辞めた後、一時的に音楽から離れ、Lemarksで工具製作の研修生として働いた。

 

16歳までに彼は音楽バンドを探し始め、2年以内に音楽のキャリアを追求するために仕事を辞めた。

1960年代、トーマスはバーミンガム青少年合唱団に参加し、その後、「セインツ・アンド・シナーズ」や「ランブラーズ」などバーミンガムの様々なブルーズやソウルのグループで歌い始めた。

この頃の活動が、フルートを演奏する祖父からフルートを習うきっかけとなった。

また、再びハーモニカを手に取り、ベーシストのジョン・ロッジとともに「エル・ライオット・アンド・ザ・レベルズ」というバンドを結成した。

数年後、彼らの友人のマイク・ピンダーがキーボード奏者として加わった。

 

 

1963年の復活祭の月曜日、バンドはテンベリー・ウェルズのブリッジ・ホテルでビートルズの前座を務めた。

同年に結成された「クルー キャッツ」というバンドにトーマスとピンダーが参加し、ドイツ北部のハンブルクや他の街で演奏した。

 

 

1964年、レイ・トーマス(Fl,Vo)とマイク・ピンダー(Vo,G)、は、デニー・レイン(G)、グレアム・エッジ(Ds)、クリント・ワーウィック(B)をスカウトし、ブルーズベースの新しいバンド「ザ・ムーディー・ブルース」(The Moody Blues)を結成した。

5月、バーミンガムでムーディー・ブルースとして初のコンサートを行う。デビュー最初期はR&B系グループとして活動していた。

 

 

1965年、アルバム『デビュー! (The Magnificent Moodies)』を発表。

同年、シングル“ゴー・ナウ”(Go Now)が全英1位・全米10位の大ヒットを記録する。

 

 

1966年春、クリント・ワーウィックが脱退。

同年、リード・ヴォーカルとギターを担当していたデニー・レインも脱退。レインは後の1971年にポール・マッカートニー率いる「ウイングス」に加入する。

同年、辞めたメンバー2人の穴を埋めるため、バンドはジョン・ロッジとジャスティン・ヘイワードを迎え入れ、これに伴いメロトロンやシンセサイザーなどの電子楽器を駆使した前衛的な音楽性に変わっていく。

 

 

1967年11月10日発表の2ndアルバム『デイズ・オブ・フューチャー・パスト』(Days of Future Passed)では1960年代の段階でオーケストラと共演するなど新しいロックのスタイルを構築、プログレッシブ・ロックというジャンルを生み出した草分け的存在となる。特に、シングル“サテンの夜”(Nights in White Satin)は、トーマスのフルート・ ソロがプログレッシブ・ロックの決定的な瞬間の1つと見なされる重要曲だが、当初は全英19位止まりだった。ところが5年後の1972年にラジオ局から人気に火が着き、全英9位・全米2位・カナダ1位の大ヒットを記録、バンドの代表曲となった。アルバム『デイズ・オブ・フューチャー・パスト』も1972年に米国で再浮上し、全米3位まで上昇。ここからは他に"Tuesday Afternoon"が全米24位に入った。

 

 

 

 

1968年7月26日、3rdアルバム『失われたコードを求めて』(In Search of the Lost Chord)をリリース、全英5位・全米23位。ここからは、"Voices in the Sky"が全英27位に入った、

 

 

1969年4月25日、4thアルバム『夢幻』(On the Threshold of a Dream)をリリース、バンド初の全英1位を獲得し、全米でも20位に入った。ここからは、"Never Comes the Day"が全米チャート入りした。

 

 

11月21日、5thアルバム『子供たちの子供たちの子供たちへ』(To Our Children's Children's Children)をリリース、全英2位・全米14位。

 

 

1970年8月7日、6thアルバム『クエスチョン・オブ・バランス』(A Question Of Balance)をリリース、全英1位・全米3位。ここからは、“クエスチョン”(Question)をカット、全英2位・全米21位をマークした。

 

 

 

1971年7月23日、7thアルバム『童夢』(Every Good Boy Deserves Favour)をリリース、全英1位・全米2位。ここからは、"The Story in Your Eyes"が全米23位をマークした。

 

 

ムーディー・ブルースは、ほとんどのアルバムが英米で大ヒットを記録。ピンク・フロイド、キング・クリムゾン、イエス、EL&P、ジェネシス等とともに1960年から1970年代にかけてのプログレッシブ・ロック・ムーブメントを支えた。かつてジミー・ペイジは「本当にプログレッシブなバンドは、ピンク・フロイドとムーディー・ブルースだけだ」と語っていた。

 

 

1972年10月23日、8thアルバム『セヴンス・ソジャーン』(Seventh Sojourn)をリリース、全英5位・全米1位をマーク。ここからは、"Isn't Life Strange"が全英13・全米29位、"I'm Just a Singer (In a Rock and Roll Band)"が全英36位・全米12位に到達した。

 

 

 

これ以降、メンバー個人のソロ・アルバム制作や、アーティスト自身のレコード・レーベルでは先駆けとなる「スレッショルド・レコード」(Threshold Records/『夢幻』の原題On the Threshold of a Dreamから名称がとられた)の運営などが活動の中心となり、バンド活動が停滞する。当時はプログレッシブ・ロックの最盛期であり、この頃にほとんど活動を行っていなかった。

 

 

1974年4月、アメリカのカリフォルニア州に移住していたマイク・ピンダーが、家族との生活を優先させるためバンドを一度脱退する。

 

 

1975年7月11日、レイ・トーマスは1stソロ・アルバム『From Mighty Oaks』をNicky Jamesとともに制作、リリースして、全英23位・全米68位をマークした。

 

 

 

1976年6月3日、トーマスは再びNicky Jamesとコンビを組んで2ndソロ・アルバム『Hopes, Wishes and Dreams』をリリース、全米147位を記録した。

 

 

1977年4月30日、1969年に開催したロイヤル・アルバート・ホール公演のライヴ音源とスタジオ・アウトテイク5曲を収録したアルバム『コート・ライヴ+5』(Caught Live + 5)を発売、全米26位を記録するなど売り上げが好調だった。

 

 

1978年、ムーディー・ブルースは正式に再始動し、マイク・ピンダーもバンドに復帰した。しかし、再結成第一弾アルバム『新世界の曙』録音途中で、ピンダーは続くツアー参加に難色を示し、録音途中でアルバム製作から抜け、プロモーションビデオやアルバム用写真撮影にも不参加。それに伴い、長年、6人目のムーディー・ブルースとまで言われたプロデューサーのトニー・クラークも「マイクがいないムーディー・ブルースをプロデュースする意味がない」として離脱、同じく長年録音エンジニアを担当していたデレク・バーナルズが生オーケストラを使ったアレンジを加え、最終的なアレンジが完成した。

6月9日、こうして難航が続いた9thアルバム『新世界の曙』(Octave)はなんとかリリースまでこぎつけ、全英6位・全米13位を記録。ここからは、"Steppin' in a Slide Zone"が全米39位に入った。

 

アルバム・リリースに続くツアーには、オーディションの結果、元イエスのパトリック・モラーツがサポート参加した。

 

 

1981年、新作アルバムの制作に際し、マイク・ピンダーから「レコーディングにだけは参加したい」との連絡がメンバーに入ったが、バンドは参加を認めず、パトリック・モラーツを正式なメンバーとしてレコーディングを行う。

5月15日、10thアルバム『ボイジャー - 天海冥』(Long Distance Voyager)を発表、全英7位、9年ぶりに全米1位を獲得し、シングルも"Gemini Dream"が全米12位・カナダ1位、"The Voice"が全米16位・カナダ9位を記録。ムーディー・ブルースの復活を印象付けた。「イーグルスの『ホテル・カリフォルニア』のようなドラム演奏をしたかった」とのグレアム・エッジのコメントが残っているが、実際エッジのドラム・プレイは、過去の作品と比べても最もダイナミックでパワフルな演奏を残している。

1980年代以降は、しかしプログレッシブ・ロックの衰退もあり、ポップな大衆的音楽に変化していった。

 

 

 

 

1983年8月28日、11thアルバム『プレゼント - 新世界への道程』(The Present)をリリース、全英15位・全米26位。ここからは、"Blue World" が全英35位、"Sitting at the Wheel"が全米27位に入った。

 

 

 

1986年、トニー・ヴィスコンティをプロデューサーに迎えたポップ・ナンバー“Your Wildest Dreams”が全米9位を記録し、久々のヒットとなった。

 

4月6日、12thアルバム『ジ・アザー・サイド・オブ・ライフ』(The Other Side Of Life)をリリース、"Your Wildest Dreams"を収録。全英24位・全米9位。

 

 

1988年6月6日、13thアルバム『シュール・ラ・メール』(Sur La Mer)をリリース、全英21位・全米38位。ここからは、"I Know You're Out There Somewhere"が全英52位・全米30位を記録。

 


1991年、パトリック・モラーツが自身の音楽活動に専念し、新アルバム制作に支障をきたしていることと、またバンドに対して大きな報酬を要求していることを理由として、バンドは新作のレコーディングに際し彼を正式メンバーではなく、アシスト・メンバーとしてクレジットした。これに不服申し立てを行ったモラーツとバンドは訴訟となり、結果、バンドは敗訴。これに伴い、モラーツは脱退した。

6月25日、14thアルバム『キーズ・オブ・ザ・キングダム』(Keys of the Kingdom)をリリース、全英54位・全米94位。ここからは"Say It with Love"がヒットした。

 

 

1999年8月17日、15thアルバム『ストレンジ・タイムズ』(Strange Times)をリリース、全英19位・全米93位をマーク。

 

 

2002年12月、レイ・トーマスが今後のツアーには参加しない意志を明らかにし、ムーディー・ブルースを脱退。これによりバンドの正式メンバーはジャスティン・ヘイワード、ジョン・ロッジ、グレアム・エッジの3人となる。なお、彼の脱退の理由についてエッジは、2014年の『Pollstar.com』のインタビューで、トーマスが病気のため引退したと述べた。トーマスは小脳失調症を患っており、それが平衡感覚に影響を及ぼし、演奏が不可能になっていた。

 

 

2009年7月、トーマスが息子と孫のロバートのために、少なくとも2曲“アダムとアイ”と“マイ・リトル・ラブリー”を書いたことが判明した。

7月9日にウェールズ州チェレディジョンのムントにある聖十字架教会での式典で、長年のガールフレンドであるリー・ライトルと再婚したことも明らかになった。


2010年9月24日、トーマスは2枚のソロ・アルバムをリマスターしてボックスセットでリリースした。このセットには、2枚のアルバムに加えて、「フロム・マイティ・オークス」のリマスターされたクワッド・バージョン、新曲「ザ・トラブル・ウィズ・メモリーズ」、未発表曲も含まれている。 「ハイ・アバブ・マイ・ヘッド」のプロモーションビデオと、ムーディー・ブルースの創始者であるマイク・ピンダーによるインタビュー。 ボックスセットはエソテリック・レコーディングス/チェリー・レッド・レコードからリリースされた。

 

 

後年、トーマスは他のミュージシャンとフルート演奏を再開した。

 

 

2015年、ジョン・ロッジのアルバム『10,000 Light Years Ago』の収録曲“シンプリー・マジック”でフルートを演奏し、ムーディー・ブルーグラスとレコーディング。

 

 

2016年には、イタリアのバンド「シンドン」のアルバム『エロス&タナトス』の曲「L'urlo nelle ossa」にフルートで参加。

 

 

 

 

2018年1月4日、トーマスは76歳の誕生日から6日後、サリー州の自宅で亡くなった。 所属レコード会社による公式発表では死因は明らかにされていない。

バンド仲間ジョン・ロッジは、トーマスとの関係を「レイは私の最高の友人だった。私がレイに出会ったのは14歳の時だった。私たちはバーミンガム出身の2人の子供で、スターを目指していた――そして、そこに到達できたと思う。レイがいてくれて本当に嬉しい」と語った。さらに「私たちはロックの殿堂入りすることを知っていました。私はクリスマスの直前にレイと話しました。彼の誕生日がクリスマス後の29日だったので、私たちは長い会話をしました。私たちはとても親しい友人です。あるいは、とても親しい友人だった。とても悲しい。とても、とても悲しい。」と語った。


2018年4月、トーマスはムーディー・ブルースのメンバーとしてロックの殿堂入りを果たした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「Ray Thomas」「ムーディー・ブルース」「The Moody Blues」

 

 

 

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