キース・リード(Keith Reid/出生名:Keith Stuart Brian Reid/1946年10月19日~2023年3月23日)は、英国イングランドの作詞家。演奏は行わなかったが「プロコル・ハルム」(Procol Harum)の正式メンバーとしてバンドの殆どの作品を作詞した。

 

 

 

1946年10月19日、キース・スチュアート ブライアン・リードは、英国ロンドン北部にあるハートフォードシャーのウェリン・ガーデン・シティ(Welwyn Garden City, Hertfordshire, England)に生まれ、ロンドンで育った。親はユダヤ人で、ホロコーストの生還者であった。

 

リードはソングライターで身を立てることを望み、早くに学校を辞めた。

1966年、エセックス州で1959年に結成されたロックバンド「ザ・パラマウンツ」(The Paramounts)が解散。バンドのフロントであり中心人物だったゲイリー・ブルッカー(Gary Brooker/1945年5月29日-2022年2月19日)はこれを機に演奏をやめ、作曲に専念することを決心。古い友人で音楽プロデューサーのガイ・スティーヴンスの紹介により、ブルッカーとリードは邂逅、ともに曲を書き始めた。ところが彼らの曲に関心を示すミュージシャンは一人もおらず、結局二人は自分らの曲を演奏するのは自分らより他はないことに気づいた。

同年、リードはフランス人シンガーソングライターのミッシェル・ポルナレフ(Michel Polnareff/1944年7月3日-)のために“You'll Be On My Mind”と“Time Will Tell”の2曲を作詞、ポルナレフが曲を付け、デビュー・アルバム『Michel Polnareff (Love Me Please Love Me)』に収録された。

 

9月、リードはあるパーティーに出席した際、誰かが隣の女性に「青ざめた顔がどんどんほの白くなってるよ」(You've turned a whiter shade of pale)と話しかけるのを聞いた。この言葉がいつまでも頭から離れず、これをタイトルにして詞を書いた。

 

 

1967年、ブルッカーとリードはバンド結成のため、メンバー探しを開始。スクリーミング・ロード・サッチのバックバンド「ザ・サヴェージズ」でオルガンを弾いていたがバンドを辞め、求職広告を出していたマシュー・フィッシャーと出会う。リードは彼と会った時、バンドに最適な男だと感じ、彼の演奏を聴く前にメンバーに決定した。「プロコル・ハルム」(Procol Harum)結成時のラインナップは、ゲイリー・ブルッカー (Gary Brooker/Vo,Pf,)、マシュー・フィッシャー (Matthew Fisher/Org)、レイ・ロイヤー (Ray Royer/G)、デイヴィッド・ナイツ (David Knights/B)、ボビー・ハリソン (Bobby Harrison/Ds)、キース・リード (Keith Reid/lyric)。初期のサウンドを特徴付けるのは、ゲイリーのピアノとマシューのオルガンからなるツイン・キーボードの編成である。また、ロックバンドの作詞を専門に担当した詩人として、古くはクリームのピーター・ブラウンが知られるが、作詞の専門家であるキース・リードを正式にバンド・メンバーとしてクレジットしたところにプロコル・ハルムの特色がある。このスタイルは、ピート・シンフィールドを擁したキング・クリムゾンにも受け継がれることになる。バンド名は「Beyond these things」(こうしたものを越えて)を意味する不正確なラテン語で、プロデューサーの飼い猫の名をもじったものと言われている。
5月12日、リードの詞にブルッカーが曲を付けた1stシングル“青い影”(A Whiter Shade of Pale)でデビュー、英米はじめ各国でチャート1位を獲得する世界的大ヒットとなり、バンドは一気にスターダムにのし上がった。ただし、表題曲“青い影”のドラムスはハリソンではなくビル・エイデン (Bill Eyden) というジャズ系のドラマーが演奏しており、B面曲のみの参加となったハリソンはレコーディング後にレーベル側から解雇、同時期にロイヤーも脱退した。後任ドラマーには、パラマウンツ時代からのゲイリーのバンド仲間であるB.J.ウィルソン (B.J.Wilson)が、ギタリストにはレイ・ロイヤー (Ray Royer)が加入した。

 

9月、原題ではセルフ・タイトルとなる1stアルバム『青い影』(Procol Harum)をリリース、全米47位を記録した。本国イギリス盤では当時、“青い影”や"ホンバーグ"は未収録、ドイツ盤では"青い影"のみ未収録だったが、アメリカ盤では両シングルとも収録され、後に再発された際にはともに追加収録された。収録曲は"Kaleidoscope"等。

 

 

9月22日、2ndシングル"ホンバーグ"(Homburg)をリリース、“青い影”と同じくツイン・キーボードを前面に押し出したサウンドで、全英6位・全米34位をマークした。「Homburg」とはフェルト帽のこと。

 

9月、1stアルバムから"征服者"(Conquistador)をオーストラリア限定でシングル・リリース、同国のチャートで31位に入った。
楽器を演奏しないリードであったが、レコーディング・セッションには必ず参加し、グループのツアーにも随行した。

リードは1977年に解散するまでと、1991年の再結成後のアルバム2枚において、カヴァー曲やインストゥルメンタル曲を除きすべての作品の詞を書いたが、クレジットは作詞と作曲ともに「Reid Keith/Brooker Gary」と併記された。

 

 

1968年、シングル"Quite Rightly So"をリリース、全英50位。

 

9月、2ndアルバム『月の光』(Shine On Brightly)をリリース、全米24位。5部構成のロック組曲“In Held Twas in I”が収録されている。ジャケット・デザインは、ピンクの背景色にグランド・ピアノをモチーフに描いた英国リリースのオリジナルと、砂漠でアップライト・ピアノを弾く人物が重い色彩で描かれたアメリカ盤の2種があり、後者はバンドの意向とは無関係に制作された。

 

 


1969年4月、3rdアルバム『ソルティ・ドッグ』(A Salty Dog)をリリース、全英27位・全米32位。本作においてはポップな作風を指向している。

 

同年、アルバムからタイトル・トラック"A Salty Dog"をリカット、全英44位になった他、オランダで3位に達した。

 

同年、マシュー・フィッシャーがバンドを脱退。

 

 

1970年6月5日、4thアルバム『ホーム』(Home)をリリース、全英49位・全米34位。フィッシャーの堕胎により、ロビン・トロワーの存在感が強くなり、彼の奏でるギター・リフを前面に押し出したハードな楽曲が増加してくる。ここから"The Dead Man's Dream"、"Whiskey Train"、"About to Die"をA面にシングルをリリースしたが、主要国でのチャート入りは果たせなかった。

 

 

 

 

1971年4月、5thアルバム『ブロークン・バリケーズ』(Broken Barricades)をリリース、全英42位・全米32位。

 

この語、トロワ―がバンドを脱退。これにより、バンドの音楽的指向はブルッカーの志向するクラシカルな路線が復活することとなった。

 

 

1972年4月、LP2枚組のコンピレーション・アルバム『A Whiter Shade of Pale / A Salty Dog』をFlyからリリース、1967年と1969年のアルバムの 21曲をLP2枚にリパッケージし、1枚目はモノラル、2枚目はステレオで構成、オリジナル アルバムのアートワークを再現したユニークなアップシーダウンシー見開きスリーブに収められている。全英26位をマーク。ここから、"青い影"が"A Salty Dog"/"Homburg"とのカップリングで再販、全英13位になった。

 

4月、ライヴ・アルバム『Procol Harum Live: In Concert with the Edmonton Symphony Orchestra』をChrysalisからリリース、全英48位・全米5位をマーク。

 

同年、ライヴ・アルバムからライヴ・ヴァージョンの"征服者" (Conquistador live) をリカット、英国では"Luskus Delph"、米国では"A Salty Dog"をカップリングにシングル・リリースされ、全英22位・全米16位をマークした。

 

同年、テン・イヤーズ・アフターとのジョイントコンサートで来日。

 

 

1973年3月、6thアルバム『グランド・ホテル』(Grand Hotel)をリリース、今日では1970年代プログレ・シーンを代表する作品の一つに数えられており、彼らの後期の傑作とされる。ホテルを退廃的な物質文明(西欧文明)の象徴と見なすコンセプチュアルな歌詞と、重厚華麗な演奏が特徴である。全米21位。ここからは、タイトル・トラック“Grand Hotel”が全米チャート入りした他、オランダで20位をマークした。また、"Souvenir of London"がベルギーでチャート入りした。

 

 

 

 

1974年4月、アルバム『異国の鳥と果物』(Exotic Birds And Fruits)をリリース、 全米86位。"Nothing but the Truth"、"Beyond the Pale"をシングル・リリースした。

 

 

 

1975年8月1日、8thアルバム『プロコルズ・ナインス』(Procol's Ninth)をリリース、第5期)、ロックンロール草創期の代表的なソングライターだったジェリー・リーバーとマイク・ストーラーのコンビをプロデュースに迎え、時流に即してAOR的要素を取り入れた作品。全英41位・全米52位。ここからは、"Pandora's Box"が全英16位、オランダで20位をマークした。

 

 

 

1977年、アルバム『輪廻』(Something Magic)をリリース、第6期)、全米147位。

 

同年、すべてをやりつくしたとのゲイリー・ブルッカーの判断により、プロコル・ハルムが解散。

 

 

1986年、リードはオーストラリアの歌手ジョン・ファーナム(John Farnham/1949年7月1日-)のヒット曲“You're the Voice”の詞を共作した。リードは、自分の詞が暗い色調なのは親のホロコーストの体験に由来するものだろうと語っている。

 

同年、ニューヨークに移住し、マネージメント会社を設立した。

 

 

1990年、ドラマーのB.J.ウィルソンが肺炎で死去。これをきっかけに、ブルッカーは哀悼の意を込めてバンドの復活を考える。

 

 

1991年、プロコル・ハルムを再結成し、アルバム『放蕩者達の絆』(The Prodigal Stranger)をリリース。プロモーション・シングル"All Our Dreams Are Sold"がカナダでチャート・インした。再結成時のラインナップは、ゲイリー・ブルッカー (Vo,Pf)、マシュー・フィッシャー (Org)、ロビン・トロワー (G)、デイブ・ブロンズ (Dave Bronze/ B)、マーク・ブレゼジッキー (Mark Brzezicki/ Ds)、ジェリー・スティーヴンソン(Jerry Stevenson/ G,Mand)、キース・リード (lyric)。

 

ロビン・トロワ―は短期間で脱退するが、バンドはその後も北米や英国を中心に散発的にライヴを行っている。
プロコル・ハルムは、デビュー曲を別とすれば、総じて華やかなチャート・アクションとは縁の遠いバンドであった。しかし、プログレ的ではあるものの分類の難しい独特な作風はロック史上に一特色を呈するものであり、結成から半世紀近くを経た21世紀になって、世界各国で再評価の機運が高まっている。


2003年3月4日、フィッシャー、リードらも参加した再結成後第2作のアルバム『ウェルズ・オン・ファイアー』(The Well's on Fire)をリリース。クイーンのロジャー・テイラーが“Shadow Boxed”のバック・ヴォーカルで参加している。

 

同年には再来日して四人囃子との共演を実現させた。



2008年、リードは「The Keith Reid Project」名義で、アルバム『The Common Thread』をリリース。

 

 

2012年、プロコル・ハルムが来日、松任谷由実とのジョイント・ライヴを日本国内数箇所で行なう。

 


2017年4月21日、クリームやジャック・ブルースとの共同作業で知られる詩人ピート・ブラウン(Pete Brown) を作詞家に迎え、14年ぶりの新作『乙女は新たな夢に』(Novum)をリリース。プロコル・ハルムのアルバムとしては初めて、キース・リードが作詞に関わらない作品となった。ドイツとオランダでチャート入りした。

 

 

2018年12月、The Keith Reid Projectは2ndアルバム『In My Head』を発表した。

 


2022年2月19日、プロコル・ハルムを主宰していたゲイリー・ブルッカーが癌のため自宅にて死去。76歳没。死去はバンドの公式サイトで明らかにされた。これにより、プロコル・ハルムの活動に事実上の終止符が打たれた。


2023年3月23日、キース・リードがロンドンの病院で死去。肝臓にまで転移した大腸癌を患っていたいたという。76歳没。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「キース・リード」「Keith Reid」「プロコル・ハルム」

 

 

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