ニーナ・ハーゲン(Nina Hagen/本名:Catharina Hagen/1955年3月11日~)は、ドイツの歌手、作詞家。日本語では「ニナ・ハーゲン」の表記もある。

 

 

 

1955年3月11日、カタリナ・ハーゲンは、旧:東ドイツ(ドイツ民主共和国)の旧:東ベルリン・フリードリヒスハインで、女優エヴァ=マリア・ハーゲンと脚本家ハンス・オリヴァ・ハーゲンの娘として生まれる。父方の祖父はユダヤ人の銀行家・経済学者であったが、1942年にユダヤ人強制収容所で死去している。

 

2歳の時、両親が離婚。

その後、母親と一時同棲していたことのある高名な詩人のヴォルフ・ビーアマン(Wolf Biermann/1936年11月15日-)がニーナの養父となる。

ニーナは、ベルリンのプレンツラウアー・ベルクにあるハインリッヒ・シュリーマン校に学んだ。
彼女は当初、東ドイツで女優を志していた。

 

その後、母親のエヴァ=マリア・ハーゲンとともにいくつかのドイツ映画に出演し、女優としてのキャリアをスタートさせた。

 

 

1972年、演劇学校の入学試験に不合格になった。

この時期、ポーランドにて、いくつかのバンドでヴォーカルとして活動を開始。

アルフォンス・ヴォンネベルク率いるグループ「Orchester Alfons Wonneberg」に加入した。

同年、フリッツェン・ダンパーバンド(Fritzens, Dampferband)にニーナ・ハーゲンがゲストシンガーとして参加して録音されたシングル盤“私はバイオリンじゃない” (Eine Violine Bin Ich Nicht)が東ドイツでリリースされた。これがハーゲンの最初期のレコードとされる。

※YouTubeに上げられている画像には「1977」と記されている。

 

 

1974年、まずまずの成績で専門学校の歌手養成コースを修了した彼女は、あるコンサートで「アウトモビール」(Automobil)に見出され、直ちにグループに参加。その後、アウトモビールは彼女のバックバンドになっていく。歌詞をKurt Demmlerが書いて、キーボード担当のミヒャエル・ホイバッハ(Michael Heubach)が作曲した“カラーフィルムを忘れたのね” (Du hast Den Farbfilm Vergessen)を「Nina Hagen & Automobil」名義でリリース、当時の東ドイツで大ヒットとなり、今日でもカルト的な人気を誇っている。

 

同年、シングル"He, wir fahren auf's Land"をリリース。

 


1975年、アウトモビールを脱退。

同年、ソロ・シングル"Hatschi-Waldera"をリリース。

 

同年、彼女はアヒム・メンツェル(Achim Mentzel)のバンド「フリッツェン・ダンパーバンド」(Fritzens Dampferband)に加入した。


1976年、詩人・作家であり、歌による社会批評を行う音楽家でもあった養父ヴォルフ・ビーアマンが東ドイツ政府から市民権を剥奪される。すると、ハーゲンは公然とビーアマン支持を表明。これにより政府に目を付けられ、東ドイツでの活動の場を奪われたハーゲンは同年、西側に亡命し、イギリスに渡った。

この頃のロンドンは、セックス・ピストルズがデビューするなど、ロンドン・パンクが興る黎明期を迎えていた。


1977年、イギリスから西ドイツに渡った。

同年秋、ハーゲンは西ベルリンのクロイツベルクでロコモティフ・クロイツベルクのメンバー達と「ニナ・ハーゲン・バンド」(Nina Hagen Band)を結成。参加ミュージシャンのラインナップは、ベルンハルト・ポチュカ(Bernhard Potschka)、ヘルヴィヒ・ミッターレッガー、マンフレート・"マンネ"・プレーカー(Manfred"Manne"Praeker)、ラインホルト・ハイル)。

 

 

1978年2月11日、1stアルバム『ニナ・ハーゲン・バンド』(Nina Hagen Band)をCBSからリリース、西ドイツで11位になったのをはじめ、オーストリアで24位、オランダではトップ10入りとなる7位をマーク、250,000 枚以上を販売して商業的な成功を収めた。"ホワイト・パンクス・オン・ドープ"(TV-Glotzer)の他、"Auf'm Bahnhof Zoo"、"Naturträne" "Unbeschreiblich Weiblich"を収録。

 

 

 

 

 

だが、作品の成功とは裏腹に、エキセントリックなパンク・スターとなったハーゲンの我流ぶりとスター気取りと、それを非難する4人のバック・ミュージシャン達との間に確執が生じた。

CBSとはすでに二枚目のアルバムの契約が締結されていたため、レコーディングはバックの演奏とハーゲンの歌唱の追加録音という不規則なかたちで行われる羽目になってしまう。

 

 

1979年、2ndアルバムは『Unbehagen』(「不愉快」の意)という、誤解しようのないタイトルでリリースされた。だが本アルバムは、前作を上回る西ドイツ2位をマーク、またオーストリア9位・スウェーデン8位・ノルウェー10位と欧州でヒットした。ここからは、"アフリカン・レゲエ"(African Reggae)、"Herrmann Hiess Er"、 "Auf'm Rummel"がシングル・リリースされた。

 

 

 

 

同年、2枚目のアルバムのリリース後、バンドは解散。

1980年代にはバックバンドの4人は、ニーナ抜きで「シュプリフ」(「マリファナ」の意)というグループ名で活動し、成果を挙げた。

 


1980年、EP『Nina Hagen Band』をリリース。


一方、ニーナ・ハーゲンは、80年代、90年代を通して、彼女独自のUFO理論によって、スピリチュアルなシーンや宗教、希少動物の保護などへの関与で注目を惹いた。この影響は数多くの他のミュージシャンたちとの競演などにも見られる。

 


1981年、ハーゲンは娘コズマ・シヴァ(Cosma Shiva Hagen)を出産した。父親は、1988年に亡くなったオランダのギタリスト、フェルディナンド・カルメルク。

 

1982年6月12日、ハーゲンはソロ・デビュー・アルバム『NunSexMonkRock』をCBSからリリース、全米184位・ドイツ27位・ノルウェー18位・ニュージーランド38位をマークした。ここからのシングルは、"スマック・ジャック"(Smack Jack)がノルウェーで7位になった。

 

 

 

1983年11月、2ndソロ・アルバム『Fearless / Angstlos』をリリース、西ドイツ24位・オーストリア11位をはじめ、全米151位に入った。ここからは、"Zarah (Ich weiss, es wird einmal ein wunder geschehn)"が米ダンス・チャート45位、"ニューヨーク・ニューヨーク"(New York / N.Y.)が米ダンス9位になった他、"The Change"もリカット。

 

 

 

 

 

1985年1月10日、3rdソロ・アルバム『Nina Hagen in Ekstasy』をリリース、西ドイツ24位・オーストリア13位・スイス13位を記録した。収録した"マイ・ウェイ"(My Way)は、数々のアーティストにカヴァーされているスタンダード・ナンバーだが、ハーゲン版はセックス・ピストルズのシド・ヴィシャスによるヴァージョンを元にしている。また、このアルバムからは、"ユニバーサル・ラディオ"(Universal Radio)が米ダンス39位になった他、"Spirit In The Sky"もシングル・リリースした。

 

 

 

 

1月、ハーゲンはブラジルのロックフェスティバル「ロック・イン・リオ」にメインアクトとして出演。このステージでの彼女は、ファッションデザイナー、ジャン・ポール・ゴルチェのデザインした独特の衣装で、ファンクとロックの要素を兼ね備えた歌姫として登場している。ライヴだけでなく、断続的ながらも着実にファンへ向けてリリースを続けていたアルバム作品の中でも、ドイツ語と英語の歌の数々で彼女はコスモポリタン的な要素を発揮した。

3月、唯一の日本公演が実現している。

 

 

1987年、ハーゲンは、イビサでの「パンク結婚式」で「イロコイ」と名乗る17歳のパンクミュージシャンと結婚した。彼はロンドンの家屋不法占拠などで知られるようになった人物である。一週間で二人は離婚している。

 

 

1988年、EP『Punk Wedding EP / Punkhochzeit』をリリース。

 

 

1989年10月8日、4thソロ・アルバム『Nina Hagen』をマーキュリー(Mercury)からリリース、西ドイツ20位・オーストリア24位・スイス26位を記録した。ここからは、"Las Vegas"、"Hold Me"、"Michail, Michail (Gorbachev Rap)"、そして"Love Heart Attack"をカットした。

 

 

 

 

11月9日、ベルリンの壁崩壊の際には世界ツアーをキャンセルしてベルリンに駆け付け、無償ライヴを開催した。

同年、彼女はフランス人フランク・シャヴァリエと結婚。この結婚から息子オーティス・シャヴァリエ・ハーゲンが誕生。

 

 

1991年、Udo Lindenbergと共演し、"Ein Herz kann man nicht reparieren"をリリース、ドイツ29位をマークした。

 

7月23日リリースの5thソロ・アルバム『Street』では、もはや音楽ともいえない、自らの大統領立候補演説(Nina 4 President)まで盛り込んでいる。ドイツ36位・オーストリア39位・スイス32位。ここからのシングルは、"In My World"がスイス19位になった。

 

 

 

1992年、Adamskiにフィーチャーされ、"Get Your Body!"をリリース、全英68位をマークした。

 


1993年、6thソロ・アルバム『Revolution Ballroom』を引っさげ、新レーベル「フィル・マンザネラ」で新しいスタートを切った。"So Bad"収録。

 

 

 

1995年1月1日、7thソロ・アルバム『FreuD euch』をAriola / RCAからリリース。ここからは、"Tiere"と"Abgehaun"をリカット。

 

 

 

1996年1月1日、ソロ・アルバム『BeeHappy』をリリース。本作は前年に発表した『FreuD euch』の英語ヴァージョン。

3月、ハーゲンは、15歳年下のデビット・リンと結婚。2人は2000年には破局。

 

 

1997年、トーマス・D(Thomas D)と新曲"Solo"を制作、同名のアルバムに収録するとともに、後にシングル盤としてもリリースし、ドイツ15位・オーストリア36位・スイス26位に達した。

 


1998年、演出家ベルトルト・ブレヒトの生誕100年に際し、ハーゲンは生まれ故郷のベルリンに戻った。女優でシャンソン歌手のメレット・ベッカーとともに彼女はベルリナー・アンサンブル劇場で、「パンクとブレヒトの夕べ」(Punk-Brecht-Abend)と題し、「私たちは二人ともアンナというの」(Wir hießen Beide Anna)を企画、巨匠ブレヒトとの対話を試みた。

同年、故郷ベルリンのプロ・サッカー・クラブ1. FC Union Berlinの公式ソング "Eisern Union!"をシングル・リリース。

 

 

1999年、彼女はマックス・ラーベによるCD2枚組の完全版『三文オペラ』に「マック・ザ・ナイフ」役で参加。合わせて、HK・グルーバー指揮下のアンサンブル・モデルンのソプラノパート(セシリア・ピーチャム役)で、クルト・ヴァイルのオリジナルに忠実に歌声を披露した。ただし、彼女にはソプラノは1オクターブ高すぎたようで、ベルリンの上演会場でのライヴ公演では、「とてもじゃないけど、歌い通せないわ。声がダメになっちゃう。」と出演を辞退している。

10月29日、8thソロ・アルバム『Om Namah Shivay』をSmart ASSからリリース。


2000年3月、ハーゲンはベルリナー・アンサンブル劇場の企画「インドの夜」に出演。生贄を備えたタバコの煙でむせ返るような祭壇を模したセットに素足にサリーを纏った姿で登場した。「私は第二の故郷ヒマラヤのエネルギーで完全に浄化されたのです。6週間も過ごしたヒマラヤの高地で参加したナヴラトリの儀式では、ハイドハカン・ヴィシュヴァ・マハドハムからババジィ師まで様々な神秘的な体験を積みました。1年前にここベルリナー・アンサンブル劇場で私が初めてこの『インドの夜』に参加したときにはそなわっていなかったような力までも解放させたのです。」と発言している。ここで披露された彼女の歌は、ニーナ・ハーゲンのウェブサイトでのみ公開されている。これは、ババジィの道場やドイツのホスピス、ブラジルのストリートチルドレン、インドの子ども病院、チェルノブイリの人々の手助けを得て開放された力だという。

3月28日、9thソロ・アルバム『Return of the Mother』をOrbit, Virginから発表、77位で9年ぶりにドイツのアルバム・チャートに復帰、クイーン・オブ・パンクの復活を印象付けた。ここからは、"Der Wind hat mir ein Lied erzählt"がドイツ96位になった。

 


映画監督のペーター・ゼンペルは、1994年から1999年までの間ニーナ・ハーゲンと彼女の家族、配偶者について実験的な記録映画を撮っている。中心になっているのは彼女で、トーマス・Dと彼のバンド「オームフ!(Oomph!)」と「アポカリプティカ」が協力している。


2001年、彼女はリルケ・プロジェクトのCD作品『すべての星々に至るまで』のために、詩『Die Welt Die Monden IstとWie Das Gestirn』を吹き込んだ。

同年、Rosenstolzにフィーチャーされ、"Total Eclipse/Die schwarze Witwe"をリリース、ドイツ22位になった。

 

 

2002年12月には作家マルセル・ファイゲが、ニーナ・ハーゲンとの密接な協力により執筆した伝記『ニーナ・ハーゲン 令嬢がどうしてパンクになったのか』が刊行された。この本は、2003年国際的な出版賞であるコリン賞を受賞している。

 

 

2003年、Apocalypticaと共演した"Seemann"をリリース、ドイツ13位・オーストリア35位・スイス73位・フィンランド18位に達した。

 

12月9日、10thソロ・アルバム『Big Band Explosion』をSPVから発表。

 

 

2004年1月、ハーゲンは、22歳年下のデンマークの歌手ルーカス・アレクサンダー・ブラインホルムと結婚。2005年1月には離婚に至る。

同年、ソロ・シングル"Immer Lauter"をリリース、「Life Ball 2004」公式ソングに選ばれ、オーストリア28位をマークした。

 

 

1979年に「シュプリフ」のメンバーと袂を別って以来、彼女は自身のレコーディングとは別に数多くのプロジェクトで音楽活動を行っていった。世界中でリリースされたレコード、CDは、ニーナ・ハーゲンの歌が聴けるものだけで、ほとんど500枚近くに及ぶ。「ニーナ・ハーゲン・アーカイブ」には、2005年10月の時点で、206枚のレコード、180枚のCD、30本のオーディオカセット、21本のビデオカセット、12枚のDVDがある

 

 

2006年4月24日、11thソロ・アルバム『Irgendwo auf der Welt』をIslandからリリース、ドイツ62位。

 

8月、ニーナ・ハーゲンは、リアリティ番組「ポップスター」に審査委員として出演。

 

 

2010年7月16日、12thソロ・アルバム『Personal Jesus』をKochからリリース、ドイツ16位をはじめ、オーストリア62位・スイス61位になった。

 

 

2011年11月11日、13thソロ・アルバム『Volksbeat』をリリース。

 

 

2020年、シングル"Unity"を発表。新しいアルバムからの先行リリースとなった。

 


2021年12月2日、第8代ドイツ連邦首相だったアンゲラ・メルケル(東ドイツ出身)が首相の任期を終えて、国防省で行われた退任式(Großer Zapfenstreich)に出席、演奏曲に“カラーフィルムを忘れたのね”を自ら選曲した。メルケルは選曲の理由について「この曲は青春時代のハイライトだった」と語っている。

 

 

2022年12月9日、ニナ・ハーゲンは11年ぶりの最新作となる14thソロ・アルバム『Unity』をリリース、ドイツ30位・スイス27位をマークした。ジョージ・クリントンとのコラボ曲も収録。ここからはタイトル・トラックの他、"Shadrack"と"16 Tons"がシングル・カットされた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ニーナ・ハーゲン」「Nina Hagen」

 

 

 

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