シド・ヴィシャス (Sid Vicious/出生名:John Simon Ritchie/1957年5月10日~1979年2月2日)は、英国イングランド出身のパンクロッカー。

 

 

 

1957年5月10日、後にシド・ヴィシャスとして知られるジョン・サイモン・リッチーは、英国サウスイースト・ロンドンのルイシャム(Lewisham)にて、父ジョン・リッチーと母アン(1933〜96)のもとに生まれた。

アンは学校を中退した後イギリス空軍に入隊し、そこでバッキンガム宮殿の衛兵と知り合った。そして衛兵の息子であるジョンと交際するようになったのだった。アンは出産後、イビサ(Ibiza)に引っ越すが、結局ジョンとの結婚は破談になった。

 

1965年、アンはクリストファー・ビヴァリーと結婚し、息子も「ジョン・サイモン・ビヴァリー」と改名した。しかしクリストファーはわずか6カ月後にガンで死去。1968年までに、母と息子はタンブリッジウェルズの賃貸アパートに住み、彼はサンダウンコートスクールに通った。

 

1971年、母と息子はロンドン東部のハックニーに移り、そこでジョン・サイモン・リッチーはクリソルドパーク・スクールに通った。彼はまた、サマセット州クリーブドンに住んでいた。

 

1973年、彼はジョン・ライドン(John Lydon)に初めて会う。彼らはともにハックニー工科大学の学生だった。

 

17歳の頃まで、彼はロンドンをぶらぶらしていた。お気に入りのスポットの1つは、マルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウエストウッドの当時あまり知られていない衣料品店「SEX」だった。そこで彼は、米国人のクリッシー・ハインドに出会う。プリテンダーズの結成前、クリッシーは自身が労働許可を得やすくするために、彼に偽装結婚に協力するよう説得したが、失敗した。彼女からは「R」が刻印された香港・ラビット社の南京錠のネックレスを贈られた。それは後に、シド・ヴィシャスのトレードマークとなった。

当時、ジョン・サイモン・リッチーはこの店で、ジョン・ライドン、ジョン・ジョセフ・ウォードル(ジャー・ウォブル)、ジョン・グレイとつるんでいて、4人は「フォー・ジョンズ」と呼ばれていた。

ジョン・ライドンは、リッチーを噛んだリドンのペットのハムスター「シド」に因んで、リッチーを「シド・ヴィシャス」(Sid Vicious)と呼んだ。ハムスターの名は「シド・バレット」に由来していた。

 

1975年、ジョン・ライドンはジョニー・ロットン(Johnny Rotten)のステージネームで、セックス・ピストルズ(Sex Pistols)の結成に参加。

 

シドは、セックス・ピストルズの熱狂的なファンになった。ファンの頃からピストルズのライヴ中に記者が邪魔でピストルズが見えないと言ってその記者をベルト代わりにつけていた自転車のチェーンで殴るなど、目立った存在だった。

同時期、ライヴで垂直にぴょんぴょん飛び跳ねる「ポゴダンス」を発明している。シド曰く、発明した理由は「ライヴ会場にいる敵をつぶすためにジャンプして上から潰す!」とのこと。 

 

1976年、シドは自身も音楽を始めて、スージー・アンド・ザ・バンシーズ(Siouxsie and the Banshees)にてドラムを担当した。

ある時シドは、ダムドのフロントマンとしてオーディションを受けており、最終選考まで残ったが、選考日に寝坊してすっぽかしたため、ダムドのフロントマンになり損ねている。だがシドは、オーディションに行けなかったのは、合格してダムドの一員に収まったデイヴ・ヴァニアンとその仲間が妨害のためシドが到着しないようにオーディションに関する情報を意図的に差し控えたからだと主張。ヴァニアンとダムドに個人的な恨みを抱いたという。

1976年9月20日、スージー・アンド・ザ・バンシーズはライヴ・イベント「the 100 Club Punk Festival」に参加、バンドにとってデビューライヴとなるこのギグで、シドはドラムを叩いている。

 

9月21日、「The 100 Club Punk Special」の2日目、ダムドの演奏中に何者かが投げたグラスが柱に当たり、その破片で観客の女性が片目を失明するという事件が発生。この時アンフェタミンでキメていたシドがグラスを投げた犯人として逮捕されたものの、証拠不充分により告訴は取り下げられ釈放されている。しかしヴィヴ・アルバーティン(Viv Albertine)は彼女の自叙伝の中で「グラスを投げたのは自分だ」と1年後になってシドが告白していたことを明かしている。

その後、シドはフラワーズ・オブ・ロマンス(the Flowers of Romance)の設立に参加。

 

1976年11月26日、セックス・ピストルズはデビューシングル“アナーキー・イン・ザ・U.K./アイ・ワナ・ビー・ミー”(Anarchy in the U.K./I Wanna Be Me)をリリース。その後、メンバーの言動などが問題になりEMIが契約を解除、バンドには多額の違約金が支払われた。

 

 

1977年、初代ベーシストにして唯一の作曲者グレン・マトロックがアルバムのレコーディング直前にピストルズを脱退。原因はフロントマンのジョニー・ロットンとの確執だったが、バンドのマネージャーであったマルコム・マクラーレンの誘いもあり、シドが後任のベーシストとなった。当時ピストルズでは、スティーヴ・ジョーンズ(G)とポール・クック(Ds)は非常に仲が良く、常に行動をともにしており、スティーブとポール、グレン、ロットンという対立の構図があった。だがマクラーレンは仲を取り持つ事をせず、むしろメンバー同士をいがみ合わせるよう仕向けた。ロットンは、折り合いの悪かったグレンの脱退後、スティーブとポールに対して発言権を強めたい目論みもあり、旧知のシドをベーシストにと強力にマクラーレンにプッシュしたのである。 

シドの加入で、ピストルズはよりスター性のあるバンドとなった。もっとも、シドのベースの技量は心もとなく、アルバムレコーディングでは技量不足のため"ボディーズ"(Bodies)のみに参加、それ以外の曲はギタリストのスティーヴ・ジョーンズがベースを担当した。シドはピストルズ加入時、ベース演奏の経験はなかったが、一時期熱心に練習する姿を見せていたという。

なお、楽曲のクレジットはメンバーの連名が基本だったが、唯一人の作曲者だったグレン・マトロックが抜けたため、"Holidays in the Sun"と"Bodies"の2曲でシドの名前が連ねられている。

 

 

一方、バンドのグルーピーの一人だった米国フィラデルフィア出身のナンシー・スパンゲンが、ライドンに毛嫌いされていながらシドについて回り、程なくしてシドとナンシーは一緒に暮らすようになる。ベースプレイの練習も投げ出し2人で麻薬に溺れるようになっていってしまった。

 

EMIとの契約破棄後、ピストルズはA&Mレコードと契約したが、シングル“ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン/分かってたまるか”(God Save the Queen/No Feelings)の発売直前に破棄され、EMIの時と同様、バンドは再び巨額の違約金を手に入れた。

最終的にヴァージン・レコードと契約し、エリザベス女王在位25周年祝典の日にテムズ川のボートでゲリラライヴを行い、英国国歌と同名の曲“ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン”を演奏し逮捕された。このプロモーションの成果は上々だった。

5月27日、“ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン/分かってたまるか”が発売されると、全英シングルチャートで最高2位、NMEチャートでは最高1位を記録した。ただし、ロットンとクックが右翼に襲われて重傷を負う事件が発生し、バンド活動はしばらく停滞した。

 

同年夏、スカンジナビアンツアーを実施。

7月28日、ストックホルムのHappy Houseで行った公演はライヴレコーディングされた。

 

 

1977年10月28日、セックス・ピストルズ唯一のオリジナル・アルバムとなる『勝手にしやがれ!!』(Never Mind the Bollocks, Here's the Sex Pistols)を発売。アルバムの販売権は英国ではヴァージン・レコードだったが、フランスでは別の会社に1曲多い盤の製作を許可、米国ではワーナー・ブラザース・レコード、日本では当時ヴァージンと提携していた日本コロムビアから発売された。 アルバムは全英チャートで1位を獲得、米国ではトップ100にも入らず最高位106位に終わったが、発売10年後の1987年にはゴールド・ディスクに輝くロングセラーとなった。

 

 

1978年、ワーナーの企画により、初のアメリカツアーを決行。保守的なアメリカ南部からツアーを始めたが、そのツアー中にピストルズは崩壊へと向かう。

1月14日、アメリカツアー中、サンフランシスコ、ウインターランド公演後に、もはや嫌気がさしていたジョニー・ロットンがバンドを脱退。急遽ツアーを中止し、実質上バンドの終焉となった。

 

スティーヴ・ジョーンズとポール・クックは、イギリスの大列車強盗犯人ロナルド・ビッグズや偽物の元ナチスのマルチン・ボルマンとコラボレーションを行い、おふざけ半分でピストルズを延命させられた後、活動は消滅した。

 

その後シドは、ピストルズの初代ベーシストのグレン・マトロックや、憧れであったジョニー・サンダースらと一時的に組み、ライヴを行っている。ただしジョニー・サンダースとのステージでは、同じジャンキーであるジョニー・サンダースからしてもシドのドラッグの悪影響はステージ上にも及んでおり、そのせいでライヴパフォーマンスを保てないシドを途中で降板させている。 この事は激しくシドを失意に落とした出来事だったと言われている。

 

1978年4月、マクラーレンは嫌がるシドにフランク・シナトラの“マイ・ウェイ”(My Way)の替え歌をパリでスタジオ録音させる。

同年、“My Way”はセックス・ピストルズ名義の曲“ゴッド・セイヴ・ザ・ピストルズ”(No One Is Innocent)との両A面シングルとしてリリース、全英7位を記録した。

 

 

同年、続くシングルとして"カモン・エヴリバディ"(C'mon Everybody) をリリース。

 

この年、シドはジョニー・ロットンと和解し、2人で新たなバンド結成の話を持ちかける。ロットンも話に乗っていたが、ナンシーが間に入り、そのバンドのフロントマンはシドじゃないとと譲らず、ロットンが「じゃあ、おれは何をやるのさ?」と問いかけるとナンシーは「あなたはドラムでもやったらいいわ」と言い、結果的に夢の実現は、ナンシーとドラッグを断てないシドのために崩壊し終わっている。

9月28~29日、ニューヨークのマクシズ(Max's Kansas City)で3回ライブを行う。連日ライヴハウスは超満員だったが、シドはドラッグによって立っているのがやっとで、マイクスタンドにしがみついている状態で、時折、ステージ上で倒れこんでしまう。さらには、歌詞を思い出せずに歌詞カードを手に持ち歌わなければならず、ついには1曲もまともに歌う事も叶わず、観客からも冷やかな反応を受ける。3日目のステージではザ・クラッシュのミック・ジョーンズと共演している。

 

これらの時期に収録した音源が、マルコム・マクラーレン主導で製作したピストルズドキュメンタリー映画『ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル (映画)』のサウンドトラック盤(『ザ・グレイト・ロックン・ロール・スウィンドル』)に使用された。

 

10月13日、ニューヨークで居住していたチェルシーホテル100号室のバスルームで、同居していた恋人のナンシー・スパンゲンの死体が発見された。ナンシーの遺体を発見し通報したのはシドだったが、同じ部屋にいたことや殺害に使われたとされるナイフがシドの物だったことなどから殺害の容疑はシドに向けられ逮捕された。

だが、レコード会社が多額の金を払い、保釈された。

その後もシドは自殺未遂を起こしたり、パティ・スミスの弟をビール瓶で殴るなどの騒ぎを起こした。

 

同年11月のインタビューでシドは、ナンシーの死は「起こりそうなこと」であり、「ナンシーは常に21歳になる前に死ぬと言っていた」と述べた。インタビューの終わり近くに、彼は楽しんでいるかどうか尋ねられた。それに応えて彼はインタビュアーに冗談を言っているのかと尋ねた。それから彼はどこに行きたいか尋ねられ、「地下」と答えた。

 

1979年2月2日、ナンシーを刺殺した容疑をかけられたまま、シドは麻薬の過剰摂取により死亡。21歳の若さだった。彼が死に至った直接的な原因は、収監中に完全にヘロインが抜けきった体に、収監以前と同じ感覚で高純度のヘロインを大量に摂取したことによるもの。なお、彼が使ったヘロインは、その夜、シドに哀願された母親のアンが渡した物だった。

 

同年2月、シドの死から3週間後、エディ・コクランのカヴァー“サムシング・エルス”(Something Else)が追悼シングルとしてリリースされた。同曲は発売後2週間で38万2000枚のリリースを達成。この記録はセックス・ピストルズ最大のヒット・ソングであった“God save the queen”を10万枚以上も上回り、事実上のセックス・ピストルズ関連楽曲NO.1セールスとなっている。

 

12月、シド・ヴィシャス名義で初のアルバム『シド・シングス』(Sid Sings)がリリースされた。前年9月末にニューヨークでライヴ録音されたものに“My Way”等を加えたもので、同年12月15日付全英アルバムチャートで初登場36位を記録、計8週チャート・インして最高30位に達した。ほとんどがカヴァーだが、セックス・ピストルズ名義で発表された唯一のオリジナル“Belsen was a gas”はシド自身が曲づくりに携わったナンバー。

 

 

 

 

1986年、シドとナンシーを描いたアレックス・コックス監督のイギリス映画『シド・アンド・ナンシー』(Sid And Nancy)が公開。シド役で主演したゲイリー・オールドマンの出世作となった。

 

 

2007年。アルバム『Sid Lives』リリース。

 

 

 

2016年、ダニー・ガルシア監督のドキュメンタリー映画『SAD VACATION ラストデイズ・オブ・シド&ナンシー』が公開。

 

 

2021年、シド・ヴィシャスのラストコンサートの未公開映像をフィーチャーしたドキュメンタリー映画『Sid: The Final Curtain』が公開予定。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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(参照)

Wikipedia「シド・ヴィシャス」「セックス・ピストルズ」「ナンシー・スパンゲン」「Sid Vicious」「Sex Pistols」