セルジュ・ゲンスブール(Serge Gainsbourg/出生名:リュシヤン・ギンスブルグ(Lucien Ginsburg/1928年4月2日~1991年3月2日)は、フランスの作曲家、作詞家、歌手、映画監督、俳優。

 

 

 

1928年4月2日、リュシヤン・ギンスブルグは、帝政ロシア(現:ウクライナのハルキウ)出身のユダヤ人の両親の元、パリ4区シテ島にあるパリ市立病院 (Hôtel-Dieu de Paris)で誕生。ギンスブルグ家はロシア革命の混乱から逃れてきた移民である。リュシヤンの父ジョゼフはピアニスト・美術家だったが、移民の多いパリ20区シーヌ通り(中国通り)界隈に移ってからはもっぱらキャバレーでピアノを弾いて生計を立てていた。

パリで生まれ育ったリュシヤンは、父の影響で幼少からクラシック音楽に親しみ、絵画にも興味を持っていた。

幼いころは内気な性格だった。

青少年期は、家族と共にパリ20区、9区、リモージュ、パリ解放少し前に16区に移り住み、9区のリセ・コンドルセに通った。

 

1947年頃、小遣い稼ぎにギターを弾き始める。

 

1948年に召集を受け翌1949年までおよそ1年間従軍するが、この間、脱走を企てたことなどから3か月間投獄されている。

これと前後してギターで生計を担うようになり、絵画からは遠ざかってゆく。

この期間、貧困に苦しんでさまざまな仕事をする合間に初めて作曲をする。

 

1951年、エリザベット・レヴィツキーと結婚するも、1957年に離婚。

 

1954年、パリの有名なキャバレー「ミロール・ラルスイユ」でピアニストとして働き始める。そこで作家・詩人であるボリス・ヴィアンの歌唱を聞いて感銘を受け、「これなら自分にもできる」と考える。それ以来、「セルジュ・ゲンスブール」(Serge Gainsbourg)と名乗るようになる。本人の談によると、「ゲンスブール」とは、高校(リセ)の教師が「ギンスブルグ」をうまく発音できず「ゲンスブール」と読んでいたことに由来、「セルジュ」はロシア風の名前から選んだという。同時にリュシヤンというファーストネームに嫌気がさしていたともいわれている。なお、日本語では「ゲンズブール」の表記もあるが、ここでは「ゲンスブール」で統一。

また、ヴィアンの歌唱を聞き、その反骨精神に感銘を受けたことが後の作風に影響したという。

 

デビュー前から、他の歌手に提供する形で作曲はしていた。ヴィアンはセルジュの才能を絶賛していた。

 

 

1958年、セルジュは歌手としてメジャーデビューする。デビュー作“リラの門の切符切り”(Le Poinçonneur des Lilas)は、地下鉄の駅(ポルト・デ・リラ駅)で切符を切り続ける改札係を歌ったものである。暗い地下から逃げて広い世界に出たいという着想は、あるとき改札係に「何か望みはないか」と尋ね、「空が見たい」という答えを受けたことから生まれたという。歌詞の中では、色々な意味に変わりながら繰り返される trous(穴)という語が性的な隠喩であるとされる。この曲がヒットしている間、セルジュはコンサートで改札係に扮して歌った。

 

同年、1stアルバム『第一面のシャンソン』 (Du chant à la une !)をリリース。

 


1959年、2ndアルバム『No.2』(Serge Gainsbourg N°2)をリリース。

同年、映画『気分を出してもう一度』( Voulez-vous danser avec moi?)に出演。

 

 

1960年、“唇によだれ”(L'Eau à la bouche)を発表。

 


1961年、3rdアルバム『驚嘆のセルジュ・ゲンスブール』(L'Étonnant Serge Gainsbourg)をリリース。


1962年、4thアルバム『No.4』(Serge Gainsbourg N° 4)をリリース。

同年、“ラ・ジャヴァネーズ”(La Javanaise)を発表。

 


1963年、5thアルバム『コンフィデンシャル』(Gainsbourg Confidentiel)をリリース。


1964年、6thアルバム『ゲンスブール・パーカッション』(Gainsbourg Percussions)をリリース。

同年、“コーヒー・カラー”(Couleur Café)、“ニューヨーク”(New York U.S.A.)を発表。

 

 

 

 

1965年、フランス・ギャルがセルジュの曲“Poupée de cire, poupée de son”(邦題:夢見るシャンソン人形)でユーロビジョン・ソング・コンテストのグランプリを獲得。当時ジャック・プレヴェールに代表される情緒豊かな作品(日本で普通「シャンソン」と呼ばれるようなもの)が主流だったフランス音楽界において、それらと比べテンポが速く音数も多い作風であることが一線を画したゆえ一部の反発を受けるが、若い層を中心に絶大な人気を集め、ギャルとともにセルジュの名を一気に高める。その後もギャルへの提供曲は続々とヒット、ギャルはフレンチロリータという伝統の始まりとなる。

 

ギャルに提供したセルジュの詞を詳しく検討すると、他にも皮肉や嫌味が入っているものがあり、時としてそれは悪意の領域にまで達している。 たとえば『夢見るシャンソン人形』の歌詞は「私=アイドルの中身は蝋または詰め物だが、良いか悪いか」とも解釈できることから、蝋人形という死のイメージにアイドル歌手をダブらせるという意味が込められているとされる。

同年、“ジキルとハイド”(Docteur Jekyll et monsieur Hyde)を発表。

 


1966年にギャルへ提供した“アニーとボンボン”(Les sucettes)の原題にある「sucette」という語は棒状のペロペロキャンディを意味すると同時に、フェラチオの隠語でもあった。当時18歳のアイドルだったギャルは、PVで無邪気にロリポップをなめる姿を見せているが、その意味には気付いていなかったと発言している。また、ギャルの後ろでロリポップ・キャンディの着ぐるみを被った数人の人物が共演しているが、彼らの着ぐるみもギャルが手にしたキャンディも、両者共に男性器を彷彿させるような形状であることが確認できる。ギャルは、ヒット中には何も知らずにTVやグラビアで棒つきキャンディを頬張っている姿を見せていたが、後にセルジュが書いた歌詞に秘められていた別の意味に気付いて人間不信に陥り、恥ずかしさと怒りから数か月部屋に閉じこもってしまった。様々な物議を醸した本楽曲は、しかし5万枚ほどしか売れなかった。

 

同年、映画『ザ・スパイ』(L'espion)の音楽を担当。

 

 

1967年、セルジュは既婚のブリジット・バルドーと関係を持つ。この年にはバルドーに“Harley Davidson”など多数の曲を提供している。

 

 

1968年、フランソワーズ・アルディに“さよならを教えて”(Comment te dire adieu)の作詞を担当(ジャック・ゴールド作曲、アーノルド・ゴーランド作詞で、ヴェラ・リンが1967年に歌った“It Hurts To Say Goodbye”のカヴァー)。これがきっかけで、アルディはセルジュともバーキンとも親しく交際するようになる。セルジュの死後もアルディはバーキンのアルバム『ランデ・ヴー』(Rendez-vous, 2003年)に Suranée で参加するなど、バーキンと懇意である。

 

同年、映画『スローガン』(Slogan)でセルジュはジェーン・バーキンと共演。当時20歳のバーキンはセルジュに一目惚れする。

同年、セルジュ単独名義のアルバム『イニシャルB.B.』(Initials B.B)と。バルドーとのデュエットなどによるコンピレーションアルバム『ボニーとクライド』(Bonnie and Clyde)をリリース。また、“誰がインで誰がアウト”Qui est in, qui est out)、“イニシャルB.B.”(Initials B.B)、“ボニーとクライド”(Bonnie and Clyde)、“フォード・ムスタング”(Ford Mustang)を発表。

 

 

 

 

 

 

 

1969年、“ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ”(Je t'aime... moi non plus)をバーキンとデュエットするなど親密な関係となる。“ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ”は、スローテンポのラウンジ的な伴奏に、性交中の男女が自らの肉体の状態を描写する歌詞が合わせられ、さらに女性側の喘ぎ声まで挿入されるという極めてエロティックかつ過激な内容で、バルドーは当時の夫ギュンター・ザックスの怒りを恐れ、当初はこの歌のリリースを拒否する。発表当時大いに話題を呼んでヒットしながら同時に激しい物議を醸し、一部の国では放送禁止曲にまでなった、曰く付きの作品である。

 

同年、バーキンが“ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ”を歌ったアルバム『ジェーン&セルジュ』(Jane Birkin et Serge Gainsbourg)が、セルジュとジェーン・バーキンとの連名でリリース。本アルバムにはセルジュが歌う“Les sucettes”も収録されている。

 

 

バーキンの希望により2人は法的には結婚せず、彼女は後年、セルジュからの求婚を断ったことを後悔している。しかし家庭生活は円満で、セルジュはバーキンの連れ子ケイト・バリーを我が子のように育てる。

同年、ブリジット・バルドーとのデュエットを数曲含んだアルバム『イニシャルB.B.』(Initials B.B.)をリリース。タイトルはバルドーに因んでいるが、本作の発表時には既に彼女との関係は終わっていた。

1969年、“エリザ”(Elisa)、“’69はエロな年”(69, année érotique)を発表。

 

 


1971年、アルバム『メロディ・ネルソンの物語』(Histoire de Melody Nelson)をリリース。
7月21日、バーキンとの間に娘のシャルロット・ゲンズブール(本名:シャルロット・ルーシー・ゲンズブール[Charlotte Lucy Gainsbourg])が生まれた。以後セルジュはバーキンのために多数の曲を作る。

 

 

1972年、“ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ”と同様、性行為を歌ったバーキンとのデュエット曲“デカダンス”(La décadance)をリリース。

 

 

1973年、映画『女の望遠鏡(マドモアゼル à GO GO)』(Trop jolies pour être honnêtes)でバーキンと共演、音楽も担当した。

同年、アルバム『ゲンスブール版女性飼育論』(Vu de l'extérieur)をリリース。 “手ぎれ”(Je suis venu te dire que je m'en vais)を発表。

 

 

同年、心臓発作を起こして倒れるが、セルジュは入院中もデオドラントで臭いを消しながら隠れて喫煙していたという。バーキンは家庭のために健康にも気遣ってほしいと懇願するが、セルジュはそれを聞き入れず、相変わらず飲酒と喫煙を続ける。これも一因となって夫婦の争いが多くなり、セルジュはバーキンに暴力を振るうようになる。

 

 

1975年、ナチス・ドイツを題材としたコンセプト・アルバム『第四帝国の白日夢』(Rock Around the Bunker)をリリース。“ナチ・ロック”(Nazi Rock)、 “ロック・アラウンド・ザ・バンカー”(Rock around the bunker)等を収録。

 

 

 


1976年、アルバム『くたばれキャベツ野郎』(L'Homme à tête de chou)をリリース。“ジョニー・ジェーンのバラード”(Ballade de Johnny-Jane)を発表。

 

同年、映画『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』(Je t'aime... moi non plus)の監督を務め、バーキンと共演もした。

 

 

1977年、映画『さよならエマニエル夫人』(Good-bye, Emmanuelle)の音楽を担当、主題歌も歌唱した。

 

 

1978年、“海、セックスそして太陽”(Sea, Sex and Sun)を発表。

 


1979年、“Tout mou tout doux”を発表。

 

3月13日、この時代レゲエに傾倒していたセルジュは、新作のアルバム『フライ・トゥ・ジャマイカ』(Aux armes et cætera)をジャマイカのキングストンで録音、フランスの国歌“ラ・マルセイエーズ”(La Marseillaise)をレゲエに編曲した “祖国の子供たちへ”(Aux armes et caetera)をリリースする。このレコーディング時、ボブ・マーリーのバックヴォーカルを務めていたリタ・マーリーが参加しているが、ボブは後にリタがエロティックな歌詞を歌わされたとして怒ったという。なお、『フライ・トゥ・ジャマイカ』は右翼団体に問題視され、その後セルジュはたびたび襲撃されるようになる。

 

 


1980年、セルジュはバーキンと別れるが、その後も曲の提供は続ける。

同年、“神様はハバナタバコが大好き”(Dieu fumeur de havanes)を発表。

 

同年から、モデル・歌手のバンブーと同棲、正式な結婚の手続きをとらず最後まで事実婚状態だったが、バンブーがセルジュの最後のパートナーとなった。2人の間にはピアニスト・作曲家等として活動するルル・ゲンスブール(1986年生まれ)がいる。

 

 

1981年、アルバム『星からの悪い知らせ』(Mauvaises Nouvelles des étoiles)をリリース。

同年、“エクセ・オモ”(Ecce homo)を発表。フリードリヒ・ニーチェの『この人を見よ』にちなんだもの。

 


1984年、アルバム『ラヴ・オン・ザ・ビート』(Love on the Beat)をリリース。タイトル。ナンバー“ラヴ・オン・ザ・ビート”(Love on the Beat)を発表。

 

同年、競売で“ラ・マルセイエーズ”の原詩ににあたる、1833年に出版された『ライン軍のための軍歌』のオリジナル原稿を買い取った時、「破産する覚悟で望んだ」という本人の談がある。
この年、当時13歳の実娘シャルロット・ゲンスブール(Charlotte Gainsbourg/1971年7月21日-)とのデュエットで“レモン・インセスト”(Lemon incest)を連名でリリース。これはショパンの「練習曲ホ長調『別れの曲』」に、incest(インセスト)という題名の通り、セルジュとシャルロットの関係を思わせるような歌詞をつけて歌ったものである。

 

 

1986年、シャルロットの主演映画『シャルロット・フォー・エヴァー』(Charlotte For Ever)の監督を務めた。

同年、シャルロットのアルバム『魅少女シャルロット』(Charlotte for Ever)をプロデュースして、同作でも2曲でシャルロットとデュエットした。再発盤のタイトルは『Lemon Incest』。

 

 

1987年、アルバム『囚われ者』(You're Under Arrest)をリリース。“ユア・アンダー・アレスト”(You're under arrest)、“幸せな子供たちへ”(Aux enfants de la chance)、“おれの外人部隊”(Mon Légionnaire)を発表。

 

 

 

 

 

1989年、“ヘイ・マン・アーメン”(Hey Man Amen)を発表。

 


晩年、テレビに出演する機会は多かったが、髭も剃らず、しばしば酔ったままで現れた。ホイットニー・ヒューストンと共演した時には「I want to fuck you」と発言した。

 

 

1990年、第5回ヴィクトワール・ドゥ・ラ・ミュージック(フランスのグラミー賞と呼ばれる音楽の祭典)において名誉賞に輝く。

 

 

 

1991年3月2日、セルジュ・ゲンスブールが死去。62歳没。死因は心筋梗塞と考えられているが、発見時、既に死後どの程度の時間が経過していたか定かでない。

 

 

 

死後、彼の遺体は、その栄光をたたえて、ジャン=ポール・サルトル、シャルル・ボードレールなどの著名人が数多く眠るパリのモンパルナス墓地に埋葬された。

セルジュ・ゲンスブールの墓を訪れる人は後を絶たず、彼らが“リラの門の切符切り”にちなんで地下鉄の切符を供えるため、墓の周りにはいつも無数の切符が散らばっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「セルジュ・ゲンスブール」「Serge Gainsbourg」

 

 

 

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