松任谷 由実(まつとうや ゆみ/本名同じ/旧姓名及び旧芸名:荒井 由実[あらい ゆみ]/1954年1月19日~)は、日本のシンガーソングライター、作詞家・作曲家。

 

 

 

1954年1月19日、荒井由実は、3男2女の第4子、次女として、東京都八王子市に生まれる。実家の家業は、1914(大正3)年創業の荒井呉服店。

6歳からピアノ、11歳から三味線、14歳からベースを始めた。

1966年4月、杉並区の立教女学院中学校に進学。
立教女学院中学時代には、当時国内外の文化人が集まるサロン的存在だった港区麻布台のイタリアンレストラン「キャンティ」に出入りしていた。後に同レストランに集まったアーティストからアルファレコードが生まれ、デビューのきっかけを作った。

また、ザ・フィンガーズの追っかけもしていた。フィンガーズは慶應義塾高校の生徒を中心に結成されたバンドで、成毛滋や高橋幸宏の実兄である高橋信之らが在籍、プロとしても活動した。


14歳の頃、当時親しかったフィンガーズのベーシストのシー・ユー・チェンが、荒井を「ユーミン」のニックネームで呼び始めた。その意味は、当時流行していたムーミンにかけて中国語で「有名」を意味するとのことで、これが後に愛称として定着する。なお、荒井がレコード・デビューのきっかけとなる村井邦彦に紹介したのも彼だった。

立教女学院高校に進学し、当時「(立教女学院の)パイプオルガン、プロコル・ハルムに強い衝撃を受けた」と語っている。

また高校にかけては、御茶の水美術学院に通い、年長の同窓生の影響でアルチュール・ランボー、ジャック・プレヴェールを愛唱、多大な影響を受ける。

 

1971年、元タイガースの加橋かつみ(かはし かつみ/本名:高橋 克己[たかはし かつみ]/1948年2月4日-)に“愛は突然に…”(作詞:加橋かつみ)を作曲提供し、17歳で「荒井由実」として作曲家デビューした。

 

1972年4月、染色の専攻を志し、多摩美術大学に入学。後に同大学美術学部絵画学科日本画専攻を卒業。
7月5日、かまやつひろしがプロデュースしたシングル“返事はいらない”で「荒井由実」として歌手デビュー。元々作曲家志望だったが、アルファレコードを設立した村井邦彦の勧めによりレコードをリリース。だが同シングルは数百枚(300枚とも800枚とも云われている)しか売れなかった。

 

 

1973年11月5日、キャラメル・ママらとレコーディングした2ndシングル“きっと言える”を発売、B面は“ひこうき雲”を収録。これらを含めた1stアルバムのレコーディングで、後に結婚する松任谷正隆(まつとうや まさたか/1951年11月19日-)と出会う。

 

11月20日、1stアルバム『ひこうき雲』を東芝EMIから発売。TBSラジオの深夜放送番組『パックインミュージック』金曜日第2部を担当していた同社アナウンサーで番組パーソナリティの林美雄(はやし よしお/1943年8月25日-2002年7月13日)の支持を受けて知名度が上がる。

 

 

1974年、本格的にステージ活動を開始する。

10月5日、2ndアルバム『MISSLIM』を発売、“やさしさに包まれたなら”を収録、オリコン8位。

 


1975年2月5日、フォークグループ「赤い鳥」の元メンバー3人が結成したコーラスグループ「ハイ・ファイ・セット」 (Hi-Fi Set) のデビューシングル“卒業写真”を作詞作曲提供。

2月20日、5thシングル“ルージュの伝言”を発売、自身初のオリコンシングルチャート入りを45位で果たした。

 

6月20日、3rdアルバム『COBALT HOUR』を発売、“ルージュの伝言”や、セルフカヴァーした“卒業写真”等を収録。オリコン2位に達した。

 

8月1日、フォーク・グループ「バンバン」に作詞作曲提供したEP(シングル)“『いちご白書』をもう一度”が発売。オリコンチャート初登場は78位であったが、発売後約2か月余りでトップ10にランクイン、12週目には1位を獲得し、6週間1位の座を維持した。累計売上は75.1万枚を記録している。荒井にとって初の1位獲得作品となり、またバンバンにとっては唯一の1位獲得曲となった。

 

10月5日発売の6thシングル“あの日にかえりたい”がTBSドラマ『家庭の秘密』主題歌に起用されるなどして、自身の演奏曲としては初のオリコンチャート1位を獲得、翌1976年のシングル年間ランキング第10位のヒットとなり、第一次ブームを迎える。

 

 

1976年3月5日、7thシングル“翳りゆく部屋”を発売、オリコン10位。

 

11月20日、4thアルバム『14番目の月』を発売、収録曲“中央フリーウェイ”は後にハイ・ファイ・セットがカヴァーした。自身初のオリコンアルバムチャート1位を獲得。

 

 

11月29日、松任谷正隆と横浜山手教会にて結婚。それまで本名で活動してきたため、結婚して松任谷姓に変わったのを機に「松任谷由実」として音楽活動を続行する。本人は結婚したら歌手活動を辞めて曲作りに専念したいと考えていたと語っている。

1978年から1983年はオリジナルアルバムを毎年2枚リリースした。“埠頭を渡る風”、“DESTINY”、“恋人がサンタクロース”、“カンナ8号線”、“真珠のピアス”、“ダンデライオン”などはこの頃作られた。また、リゾート地でのコンサートのスタイルをこの時期に確立した。

 

 

 

1978年10月5日、12thシングル“埠頭を渡る風”を発売、オリコン71位。

 

 

1979年12月1日、8thアルバム『悲しいほどお天気』を発売、オリコン6位。

 

1979年以降はコンサートの大規模化が始まり、本物の象を登場させた「OLIVE」、マジックを取り入れた「MAGICAL PUMPKIN」、エレベータを設置した「BROWN'S HOTEL」、噴水ショー「SURF & SNOW」、30メートルの竜に乗った「水の中のASIAへ」など、年々エスカレートしていった。当時のインタビューでも「レコードで儲けた分、コンサートで夢と一緒にファンの方にお返しするのが役目」と語っていた。


1981年6月21日、17thシングル“守ってあげたい”を発売、角川映画『ねらわれた学園』主題歌として書き下ろされた本曲が、同年のシングル年間ランキング第10位のヒットとなり、第二次ブームが到来。

 

11月1日発売の12thアルバム『昨晩お会いしましょう』がオリコン1位を達成。

 


1980年代頃は、他者への楽曲提供も積極的に行っており、旧知の仲である松本隆からの依頼で松田聖子の“赤いスイートピー”の作曲を引き受けている。引き受けるの際の条件として使用した変名が「呉田軽穂」である。作曲家としてではなく名前(知名度)で選ばれる事を嫌ったためであったが、夫の正隆が編曲者として実名でクレジットされており、松任谷の作曲であることはすぐに知られるようになった。以降も松本と組んで聖子にシングル曲を次々と提供しヒットさせており、他者の楽曲提供の際にも呉田軽穂の変名を使うようになった。

 

 

 

また、ペンネームや本名を問わず、小林麻美“雨音はショパンの調べ”の日本語詞提供や、ブレッド&バターなどへの楽曲提供、近年は手嶌葵、一青窈、NOKKO、岩沢幸矢、鈴木雅之、Char、薬師丸ひろ子への楽曲提供も行っている。

 

 

 

1984年12月1日、16thアルバム『NO SIDE』を発売、オリコン1位。

 


1987年11月5日、22ndシングル“SWEET DREAMS”を発売、オリコン7位。

 

11月21日、1985年以降の「バブル景気」時代人気の高かったスキーを題材にした映画『私をスキーに連れてって』が公開、主題歌に1980年の“SURF&SNOW”と、挿入曲として1980年の“恋人がサンタクロース”をはじめ、“ロッヂで待つクリスマス”、“A HAPPY NEW YEAR”、“BLIZZARD”といった新旧の楽曲を提供し、「若者のカリスマ」、「恋愛の教祖」などと呼ばれた。

 

 

 

12月5日発売の19thアルバム『ダイアモンドダストが消えぬまに』が、78万枚の大ヒットを記録した。

 

 

1988年11月26日、20thアルバム『Delight Slight Light KISS』を発表すると、159万枚と前作に比べセールスが倍増。

 

 

 

1989年6月28日、23rdシングル“ANNIVERSARY〜無限にCALLING YOU”を発売、オリコン2位。

 

 

1990年11月23日発売の22ndアルバム『天国のドア』では日本のレコード販売史上初のアルバム200万枚出荷を記録した。

 

 

1991年11月22日発売の23rdアルバム『DAWN PURPLE』に至ってはオリコン史上初の初動ミリオンを達成するなど、第三次ブームとも呼べる時期を迎えた。


当時比較されがちであった、中流以下の地方の若者に人気のあった中島みゆきの作風とは一線を画し、「中流以上の育ちじゃないとわからない世界観」、「中産階級の手に届く夢」(当時の音楽ライターによる表現)を歌って、90%以上の日本人が「自分を中流と思っている」という一億総中流かつ上昇志向のバブル景気に沸く時代の波に乗った。


1990年代に入ると精神世界や民族音楽にも着目し、“満月のフォーチュン”、“DAWN PURPLE”、“真夏の夜の夢”、“砂の惑星”、“春よ、来い”、“輪舞曲”などを作曲する。

 

 

1993年7月26日、24thシングル“真夏の夜の夢”を発売、TBS系列ドラマ『誰にも言えない』主題歌となり、オリコン1位を獲得、さらに自身初のシングルのミリオンセラーを達成した。

 

 

1994年7月27日発売の25thシングル“Hello, my friend”で2作連続オリコン1位、ミリオンセラーを獲得した。

 

10月24日、26thシングル“春よ、来い”も3作続けてオリコン1位、ミリオンセラーを達成した。

 

11月25日発売の26thアルバム『THE DANCING SUN』はオリジナルアルバムとして自己最高の217万枚を売り上げるなど、第四次ブームと呼べる年となった。

 

 

1995年11月13日、27thシングル“輪舞曲 (ロンド)”を発売、オリコン2位。

 

12月1日発売の27thアルバム『KATHMANDU』まで、80年代後半から90年代半ばにかけてオリジナルアルバム8作連続のミリオンセラーを獲得。


1996年7月15日、荒井由実時代に三木聖子、そして石川ひとみに提供した楽曲のセルフカヴァーを28thシングル“まちぶせ”として発売。

 

また、当時の仲間のミュージシャンを集めて、『Yumi Arai The Concert with old Friends』を開催した。このライヴ・アルバム発売に伴い、年末リリースのアルバムが数か月遅れた。これ以降、恒例となっていた活動サイクル(冬のアルバム発売〜夏までツアー)が若干緩やかになった。

 

 

1997年2月28日発売の28thアルバム『Cowgirl Dreamin'』まで、オリジナルアルバムが17枚連続でオリコン1位を獲得した。

 

 

1998年には松任谷由実時代以降のベスト・アルバム『Neue Musik』が380万枚を売り上げ、自身が発表した全作品の中で最大の売上を記録している。


1999年にはロシアのサーカスチームとコラボレートしたコンサート『シャングリラ』を開催。同コンサートは2003年に『シャングリラII』、2007年にはシリーズ最後を飾る『シャングリラIII』として開催された。『シャングリラ』3回の総制作費は120億円以上、観客動員数は100万人。

 

 

2001年1月11日、34thシングル“幸せになるために”を発売、オリコン6位。

 

 

2005年12月31日、『NHK紅白歌合戦(第56回)』に「松任谷由実 with Friends Of Love The Earth」名義で初出演。それ以前は「家でおせち料理を作るから」という理由で出場を辞退していた。

 

 

2011年5月、NHK『SONGS』の企画で新たにレコーディングされた“(みんなの)春よ、来い”第一弾を配信。

11月には第二弾“(みんなの)春よ、来い 2011年秋編”を配信。

 

 

2012年3月、“(みんなの)春よ、来い 2012”を配信。第一弾からの収益すべてを東日本大震災の被災地へ寄付した。
同年、荒井由実時代・松任谷由実時代を通じたベストアルバム『日本の恋と、ユーミンと。』がオリコンチャートにて初登場1位となり、累計でのCDアルバム売り上げ枚数が 3,000万枚を突破、ソロアーティストならびに女性アーティスト初の記録となった。
同年と、2014年、2017年には帝国劇場にて『ユーミン×帝劇』を開催。


2013年、デビュー以来所属していたレコード会社・(東芝音楽工業→東芝EMI→)EMIミュージック・ジャパンの吸収合併に伴い、ユニバーサルミュージックに移籍する。
同年春の叙勲で紫綬褒章受章。
同年、「岩谷時子賞」を受賞(岩谷時子存命中最後の受賞者となった)。


2015年、石川県観光ブランドプロデューサーに就任。


2016年9月21日、配信限定シングル“残火”をリリース。中村勘九郎主演の舞台を映画化した『真田十勇士』の主題歌として書き下ろされた曲。初の時代劇作品への楽曲提供となった。

 

11月2日、38thアルバム『宇宙図書館』を発売、ベストアルバム『日本の恋と、ユーミンと。』以来3年11か月ぶりにアルバム1位、オリジナルアルバムとしては1997年発売の『Cowgirl Dreamin'』以来19年8か月ぶり通算23作目の1位となった。また、62歳10か月での首位獲得は、女性アーティストの歴代最年長記録を更新した。


2017年、東京芸術文化評議会委員に就任。世田谷区名誉区民。


2018年にはベストアルバム『ユーミンからの、恋のうた。』がオリコンチャートにて初登場1位を獲得。また同ベストアルバムとともに、前ベストアルバム『日本の恋と、ユーミンと。』が8位にランクインし、ランキングトップ10に2作同時ランクインすることとなった。
9月には、荒井由実時代を含めたほとんどのアルバムとシングルのサブスプリクション配信が開始された。

 

 

2019年8月23日、公式YouTubeチャンネルで歴代ミュージック・ビデオの内、33作品が公開された。


2020年12月1日、4年ぶりに39thアルバム『深海の街』を発売、オリコン3位。

 


2021年9月30日から、アルバムと連動した全国60公演に及ぶコンサートツアー『深海の街』を開催した。


2022年10月4日、デビュー50周年記念としてベストアルバム『ユーミン万歳!』を発売。オリコンチャートにて、 2週間連続1位を達成。これにより、自身の持つ「ソロアーティストによるアルバム1位獲得作品数」における歴代1位記録を25作に更新し、オリコン史上初となる 1970年代から2020年代の6年代連続でのアルバム1位獲得を達成。また「アルバム1位獲得最年長アーティスト」記録において、歴代で2位、女性アーティストとして歴代1位となった(2022年11月現在)。
同年、シンガーソングライターとして史上初となる文化功労者に選出。これに対して松任谷はコメントを発表した。
12月15日に日本テレビで放送された『世界一受けたい授業2時間SP』で、今後の大きな夢として「羽田空港の名称をユーミン空港にすること」と語っている。



 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「松任谷由実」

 

 

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