松任谷 正隆(まつとうや まさたか/1951年11月19日~)は、日本の音楽プロデューサー、アレンジャー、キーボーディスト、作曲家、実業家。モータージャーナリスト、タレントとしても活動。 

 

 

 

1951年11月19日、東京衛生病院で出生、東京都出身。父親の功三郎は東京銀行(現:三菱UFJ銀行)横浜支店長。実弟の愛介は後に音楽・映像・イベントなど、総合プロデューサーとして活躍。家系は「電力の鬼」と呼ばれた財界人、美術コレクター、茶人としても知られ、耳庵(じあん)の号を持つ近代小田原三茶人の一人である松永安左エ門につながる。二科展絵画部会員・会友の松任谷國子、松任谷千鶴姉妹は従姉妹。著書で「電話帳で松任谷のページを開くといきなり親戚」と語っている。

 

4歳頃にピアノを習い始める。

日の丸幼稚園、慶應義塾幼稚舎から慶應義塾普通部、慶應義塾高校を経て、慶應義塾大学文学部に入学。

 

 

1971(昭和46)年11月20日にエレック・レコードから発売されたフォーク歌手「よしだたくろう」(現:吉田拓郎/1946年4月5日-)の2ndアルバム『人間なんて』に、ミュージシャンとして参加。

以降、たくろうのアルバム制作やライヴにおいてキーボード、バンドマスターを担当する。CBSソニー移籍後1972年のヒットシングル“結婚しようよ”でも、当時20歳だった松任谷はハーモニウム(オルガン)/バンジョーでクレジットされている。

 

 

1972(昭和47)年、小坂忠(こさか ちゅう/元エイプリル・フール/1948年7月8日-2022年4月29日/Vo)、林立夫(はやし たつお/1951年5月21日-/Ds)、後藤次利(ごとう つぐとし/1952年2月5日-/B)、駒沢裕城(こまざわ ひろき/1950年3月9日-/G)と「小坂忠とフォー・ジョー・ハーフ」(Four Joe Half)を結成。実際は小坂のバックバンド的な位置づけだった。

 

 

1973(昭和48)年、フォー・ジョー・ハーフ解散。

同年、細野晴臣(ほその はるおみ/元エイプリル・フール、元はっぴいえんど/1947年7月9日-/B)、鈴木茂(すずき しげる/元はっぴいえんど/1951年12月20日-/G)、林立夫と「キャラメル・ママ」を結成。このユニットは「ロック・バンド」というよりは、「音楽プロデュース・チーム」としての色彩が濃く、2枚のオリジナル・アルバムよりも、荒井由実、雪村いづみ、いしだあゆみなどの演奏やプロデュースが目立つ。

11月20日、荒井由実(現:松任谷由実)の1枚目のアルバム『ひこうき雲』(全作詞・作曲:荒井由実/全編曲: 荒井由実・キャラメル・ママ)が発売。松任谷はキャラメルママの一員として本アルバムのレコーディングセッションに参加、これが二人の出会いだった。荒井の2ndシングルB面としてもリリースされた表題曲“ひこうき雲”の「空を〜かけてゆく〜」の箇所のコード使いについて、セオリー通りであれば〈 Gm7→B♭7→A♭M7 〉となるところだが、中央部の B♭7 をやめ、B♭m7 を選択している。松任谷は、このコード使いの意外性に驚き結婚を決めた、と冗談交じりに語っている。

 

 


1974(昭和49)年、慶應義塾大学文学部卒業。

同年、キャラメル・ママのメンバーのまま、「ティン・パン・アレイ」にバンド名を変更。

この年、谷山浩子(たにやま ひろこ/1956年8月29日-)の“お早ようございますの帽子屋さん”の編曲の仕事に関わったことから本格的にアレンジャーとしての活動を始める。ただし、この仕事は最終的に萩田光雄の手によるものとなっている。

10月5日、ユーミンの2ndアルバム『MISSLIM』が発売、本アルバムから全曲のアレンジを松任谷が担当。

 

 

1975(昭和50)年10月5日、荒井由実の6枚目シングル“あの日にかえりたい”が発売、松任谷はティン・パン・アレーの一員としてレコーディングに参加し、アレンジも担当した。バンバンに提供した“いちご白書をもう一度”でソングライターとしてオリコンのシングル週間ランキング1位を獲得していた荒井にとって、自身が歌唱する楽曲としては初の1位、1976年のシングル年間ランキングでは第10位のヒットとなり、第一次「ユーミン」ブームを迎える。

 

11月25日、ティン・パン・アレー通算1作目のスタジオ・アルバム『キャラメル・ママ』を発売。

 

 

 

1976(昭和51)年11月20日、荒井由実の4thオリジナル・アルバム『14番目の月』がリリース。由実の独身時代最後のアルバムで、この作品から松任谷がプロデュースを担当する。なお、由実は自伝『ルージュの伝言』で、このアルバムで歌手を引退するつもりだったと語っている。自身初のオリコンアルバムチャート1位を獲得。

 

 

11月29日、横浜山手教会にて荒井由実と挙式。松任谷正隆と由実は公私ともにパートナーとなり、それまでも本名を名乗っていた由実は、結婚して松任谷姓になったため、松任谷由実として活動を継続する。

また、二人は結婚を機に、芸能事務所「有限会社雲母社」(きららしゃ)を設立、由実とともに自身が所属しつつ、正隆が代表取締役社長、由実が取締役にそれぞれ就き、監査役として正隆の実母:松任谷正子が就任した。

 

 

1977年9月5日、ティン・パン・アレーの2ndスタジオ・アルバム『TIN PAN ALLEY 2』を発売。クラウン在籍時にリリースされた、ティン・パン・アレー名義でのオリジナル・アルバム最終作。ティン・パン・アレーの関連楽曲やフォーク歌謡をカヴァーしたインストゥルメンタル・アルバム。

 

 

 

1979年6月1日、CBS/SONY SOUND IMAGE SERIES3枚目のオムニバス・アルバム『エーゲ海 (the AEGEAN SEA)』が発売、松任谷は作曲と編曲で参加。

9月5日、ティン・パン・アレー通算3作目のアルバム『メルヘン・ポップ』が発売。だが、YMOで多忙のため細野が不参加、アレンジは全曲スズキが担当、松任谷は演奏で参加。

 

 

1981年6月21日、角川映画『ねらわれた学園』主題歌として書き下ろされた松任谷由実のシングル“守ってあげたい”が1981年シングル年間ランキング第10位のヒットとなり、ユーミン第二次ブームが到来。

 

11月1日発売の12thアルバム『昨晩お会いしましょう』以降のユーミンのオリジナルアルバムは、1997年発売の『Cowgirl Dreamin'』まで、17枚連続でオリコン1位を獲得。これにより、オリコンアルバム1位連続獲得年数は歴代1位の18年を記録する。

 

 

1982(昭和57)年6月21日、ユーミンの13thアルバム『PEARL PIERCE』を発売。第24回日本レコード大賞ベストアルバム賞を受賞。

同年6月21日、フジテレビ系「FNS歌謡祭」で最優秀編曲賞を受賞。

 

 

1983年2月21日、14thアルバム『REINCARNATION』を発売。第25回日本レコード大賞ベストアルバム賞を受賞。

 

 

1984年10月、テレビ朝日の『カーグラフィックTV』に自動車評論家としてレギュラー出演、2001年3月31日をもって16年間に及ぶ放送を終了した後、同年10月、テレビ朝日による制作が再開、一部のテレビ朝日系列局や首都圏などのUHF局での放送となった。2002年からはブロードバンドによる配信も開始された。その後2005年、テレビ朝日に代わりBS朝日が制作を行うようになり、2013年10月9日に放送通算1400回を迎えて、2022年11月現在も松任谷が継続して出演する長寿番組となった。また、出演者としてだけでなく、“THE THEME OF WINNER”など番組テーマ音楽の作曲もしている。

 

 

1986(昭和61)年、音楽学校「マイカ・ミュージック・ラボラトリー」を開校し、校長を務める。同校の講師に桐ヶ谷仁がいる。
 


1987(昭和62)年、松任谷由実1987年発売の19thアルバム『ダイアモンドダストが消えぬまに』が、78万枚の大ヒットを記録、このアルバムを擁した「DIAMOND DUST」コンサートツアーより松任谷が演出を手がける。

 

 

同年公開の映画『私をスキーに連れてって』の主題歌“サーフ天国、スキー天国”と挿入曲に“恋人がサンタクロース”や“BLIZZARD”などの楽曲が使用されたユーミンは、「バブル景気」時代にあって人気の高かったスキーを題材にした本作の影響もあり、「若者のカリスマ」、「恋愛の教祖」などと呼ばれた。また、“恋人はサンタクロース”はシングル発売されていなかったが、本映画が切っ掛けとなりクリスマスソングの定番となった。

 

 

 

当時比較されがちであった同年代のシンガーソングライターである中島みゆきの、中流以下の地方の若者に人気のあった作風とは一線を画し、「中流以上の育ちじゃないとわからない世界観」、「中産階級の手に届く夢」(当時の音楽ライターによる表現)を歌って、90%以上の日本人が「自分を中流と思っている」という、一億総中流かつ上昇志向のバブル時代に沸く時代の波に乗った。

 

 

1988年11月26日、20thアルバム『Delight Slight Light KISS』は159万枚とセールスが倍増。

 

 

 

1990年11月23日発売の22ndアルバム『天国のドア』では史上初のアルバム200万枚出荷を記録。1991年日本レコード大賞ポップス・ロック部門優秀アルバム賞受賞。

 

 

1991年発売の『DAWN PURPLE』に至ってはオリコン史上初の初動ミリオンを達成するなど、第三次ブームとも呼べる時期を迎えた。以降、1995年の『KATHMANDU』までの80年代後半から90年代半ばにかけてオリジナルアルバム8作連続のミリオンセラーを獲得する。

 

 

1993年、TBS系列ドラマ『誰にも言えない』主題歌となった“真夏の夜の夢”はユーミンにとってシングル初のミリオンセラーとなる。

 

 

1994年発売のユーミンのシングル“Hello, my friend”、“春よ、来い”も続けてミリオンセラーを記録する。

 

 

11月25日発売のユーミンの26thアルバム『THE DANCING SUN』はオリジナルアルバムとして自己最高の217万枚を売り上げるなど、ユーミンにとって第四次ブームと呼べる年となった。

 

 

1998年には松任谷由実時代以降のベスト・アルバム『Neue Musik』が380万枚を売り上げ、自身が発表した全作品の中で最大の売上を記録している。

 

 

1999年、ロシアのサーカスチームとコラボレートしたコンサート「シャングリラ」を開催。同コンサートは2003年に「シャングリラII」、2007年にはシリーズ最後を飾る「シャングリラIII」として開催された。『シャングリラ』3回の総制作費は120億円以上、観客動員数は100万人に達した。

 

 

2004(平成16)年12月31日、『第53回NHK紅白歌合戦』に、「ゆず」のゲスト演奏者として出演、アレンジを担当した“栄光の架橋”(作詞・曲:北川悠仁)にてピアノを演奏した。

 

 

2005(平成17年)、第34回ベストドレッサー賞(学術・文化部門)受賞。

 

 

2006(平成18)年、スタインウェイのピアノを購入。このピアノについて「スタインウェイのピアノは高音がぴんと張って硬く、低音はぎーんと倍音がたくさん混じる。そのコンビネーションが世界の果てまで連れて行ってくれるような気がする」と綴っている。

 

 

2007(平成19)年、『YUMING SPECTACLE SHANGRILA III〜A DREAM OF DOLPHINE〜』の総合演出を担当し、ロシアの国立グレートモスクワサーカス団とコラボ。この功績により7月23日、ロシア安全保障アカデミーよりロモノーソフ勲章を受章。
 

 

2009(平成21)年10月1日、東京工科大学メディア学部客員教授に就任。
 

 

2010(平成22)年、「ザ・ガーデニアヒルズ・オキナワ」プロデュース。

5月25日放送の『NEWS ZERO』内にて、アメリカ合衆国のカントリーミュージシャンが保守派の政治家を支援している点と、U2のボノなどがバラク・オバマ大統領の就任式典に参加していた点を引き合いに出し、「ミュージシャンは積極的に政治に関わるべきだ」と発言している。
10月、京都造形芸術大学芸術学部客員教授に就任。

 

 

2012(平成24)年、荒井由実時代・松任谷由実時代を通じたベストアルバム『日本の恋と、ユーミンと。』がオリコンチャートにて初登場1位となり、累計でのCDアルバム売り上げ枚数が 3,000万枚を突破、ソロアーティストならびに女性アーティスト初の記録となった。

 

 

2014(平成26)年、第9回渡辺晋賞を受賞。
12月31日、『第65回NHK紅白歌合戦』にて、薬師丸ひろ子“Woman -Wの悲劇-より”(作詞:松本隆/作曲:呉田軽穂[松任谷由実]/編曲:松任谷正隆)のゲスト演奏者として出演、ピアノを演奏した。

 

 

2016(平成28)年11月2日、ユーミンの38thアルバム『宇宙図書館』がリリース、オリコン1位を記録した。オリジナルアルバムとしては、1997年の『Cowgirl Dreamin'』以来、19年8か月ぶり、通算23作目のオリコン首位となった。

 

 

 

2018(平成30)年、ベストアルバム『ユーミンからの、恋のうた。』がオリコンチャートにて初登場1位を獲得。また同ベストアルバムとともに、前ベストアルバム『日本の恋と、ユーミンと。』が8位にランクインし、ランキングトップ10に2作同時ランクインすることとなった。

 


2019年4月10日、「天皇陛下御即位三十年奉祝感謝の集い」の祝賀コンサートで披露され、ゆずが昭仁上皇が詠んだ「御製(ぎょせい)」を、松任谷由実が美智子上皇后が詠んだ「御歌(おんうた)」を歌唱した。松任谷は由実とともに、明仁上皇と美智子上皇后がそれぞれ天皇、皇后在位時に詠んだ和歌に曲をつけ、即位三十年奉祝曲とした。

同年、俳優の佐野史郎のレコーディングを切っ掛けとして、小原礼の呼びかけで、鈴木茂、林立夫により伝説のバンド「SKYE」(スカイ)が1968年以来の再結成、松任谷にも声がかかり、キーボーディストとして加入した。

9月25日、「佐野史郎 meets SKYE with 松任谷正隆」名義で“禁断の果実”をリリース。

 

 

2020年12月1日、ユーミン4年ぶりのアルバム『深海の街』が発売、翌2021年9月30日からアルバムを擁した全国60公演に及ぶコンサートツアー「深海の街」を催行。

 

 

2021年10月27日、「SKYE」名義でセルフタイトルアルバム『SKYE』を発表、バンドはメジャーデビューを果たした。

 

 

2022年10月4日、ユーミンのデビュー50周年記念としてベストアルバム『ユーミン万歳!』を発売。オリコンチャートにて2週間連続1位を達成。これにより、自身の持つ「ソロアーティストによるアルバム1位獲得作品数」における歴代1位記録を25作に更新し、オリコン史上初となる1970年代から2020年代の6年代連続でのアルバム1位獲得を達成。また「アルバム1位獲得最年長アーティスト」記録において、歴代で2位、女性アーティストとして歴代1位となった。(2022年11月現在)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「松任谷正隆」「キャラメル・ママ」「ティン・パン・アレー」「松任谷由実」「SKYE」

 

 

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