吉田 拓郎(よしだ たくろう/旧芸名:よしだたくろう/1946[昭和21]年4月5日~)は、日本のシンガーソングライター、音楽プロデューサー。

 

 

 

1946年4月5日、鹿児島県伊佐郡大口町(後の大口市/現:伊佐市)で生まれる。両親は朝鮮羅南からの引き揚げ者。父は鹿児島県伊佐郡羽月村出身で堂前家から吉田家に養子に入り、朝鮮総督府で農林官吏として勤務した後に鹿児島県の郷土史家となった吉田正廣。兄は鹿児島ラ・サール高校出身で、母はラ・サール高校の学生寮で舎監をしていた。母方の祖母が広島の出身。拓郎という名には「故郷を拓け」との意味が込められている。

その後、同県鹿児島郡谷山町(後の谷山市/現:鹿児島市)に転居し、谷山小学校に2年生まで在学、歌手の西郷輝彦と同期生。

鹿児島時代は姉と同部屋で、姉が聴いていた歌謡曲に拓郎も大きな影響を受けた。

 

1955年に両親が別居し、兄は立教大学に進学し上京、母親は姉と拓郎を連れて広島県広島市南区西霞町に転居し、同年4月、広島市立皆実小学校へ転校。

立教大学ジャズ研でピアニストを目指した兄が、夏休み等に女性同伴で帰郷したのがきっかけで音楽に興味を持つ。小児喘息が持病で、小・中学校の頃は出席日数が半分程の目立たぬ子どもだったため家にいることが多く、母に本を買い与えられていたが、ウクレレを買ってもらい、この頃音楽を始めた。皆実小学校~翠町中学校の一学年上に長谷川和彦がいた。

 

1962(昭和37)年、皆実高校入学。友人の高校の文化祭を観て、自身もインストゥルメンタルバンドを結成し、ウクレレを担当。高校入学後に曲作りを始め、好きな女の子が出来る度に曲を作り渡した。拓郎曰く「僕が広島で過ごした高校、大学時代こそがその後50年以上続けて音楽をやって行く事になる言わば<すべての始まり>であり<僕を生み出した季節>」。

 

1965(昭和40)年、広島商科大学(現:広島修道大学)に入学し、カントリー&ウエスタン部と応援団に入部。中学の同級生と4人組バンド「ザ・ダウンタウンズ」を結成、ドラムスを担当した。

同年秋に初コンサートを開催し、ビートルズのコピーの他、オリジナル曲も演奏。

同年、メンバーと上京し渡辺プロに売り込むがGSブーム未到来の時で相手にされず。

バンド活動と並行して独学でギターの演奏技術を磨き、ソロでもオリジナルソングを演奏した。

 

 

1966(昭和41)年、大学2年時、コロムビア洋楽部主催のフォークコンテストにソロで出場。“テイク・ファイヴ”のリズムパターンに三里塚闘争から着想を得た歌詞を乗せた自作曲“土地に柵する馬鹿がいる”を6弦のエレキギターを12弦に改造して歌唱、中国大会2位、全国3位。『平凡パンチ』で「和製ボブ・ディラン」と紹介され知名度が上がるが、広島の音楽仲間からは「あれはフォークでない」「広島を歌っていない」などと批判も出て居心地も悪く、単身上京した。

 

 

1967年に広島見真講堂で開催された『第1回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』中国地区大会ロック部門で優勝した。米軍岩国基地でも定期演奏し、米兵相手の演奏で初めて音楽の凄さを知った。しかし、ベトナム戦争の侵略基地である岩国慰問がプロの演奏と捉えられ、参加資格がないと抗議が寄せられたことと、カワイ楽器在籍バンドでもあったことから、ヤマハの関係者から全国大会への出場辞退を申し入れられ、それに応じて出場を辞退した。

 

 

1968年、『第2回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』に出場し中国地区優勝、ヴォーカル・グループサウンズ部門で全国4位となる。

また、吉田の発案で広島の3つのフォーク団体によるアマチュアフォークサークル「広島フォーク村」を結成。レコードを出す前から地元ラジオにリクエストが殺到し、NHK広島に出演したり、中国放送でDJを担当したりした。この頃激しい学園闘争が繰り広げられた広島大学のバリケードで囲まれたステージで“イメージの詩”を歌い、終了後、白ヘルメット姿の学生に取り囲まれ激しいアジ(agitation)を浴びせられた。

 

 

1969年、カワイ楽器広島店に就職内定。

上智大学全共闘のメンバーが自主制作(ユーゲントレーベル)で「広島フォーク村」名義のアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を制作することになり参加。

 

 

1970年3月頃、ユーゲントレーベルから『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を自主制作し、手売り販売した。また、インディーズレーベルの走りだったエレック・レコードが“イメージの詩/マークII”を無許可でシングルカットし関東広島地域でリリースしたが、吉田の抗議で音源を録り直した。そこでエレックの浅沼勇に口説かれ、「ザ・ダウンタウンズ」を解散して上京した。

4月、エレックに契約社員として就職。だが会社はまともな仕事を取ってこれず、愛川欽也司会の子ども番組でオーディションに参加し“イメージの詩”を歌って審査員の子どもに落とされたり、NHKのオーディションで藤山一郎に落とされたりした。

6月1日、1stシングル“イメージの詩”(作詞・作曲:吉田拓郎/特記がない限り以下同じ)をエレックから発売し、正式にデビュー。B面は“マークII”。

 

6月27日、「広島フォーク村アルバム発売記念コンサート」を東京厚生年金会館で開催した際、客はほとんどいなかったが、当時イベントの企画などを手がけていた後藤由多加の目にとまり、コンサートなどで起用される。後藤はこれ以降、重要なパートナーとなる。

11月1日、1stアルバム『青春の詩』を発売。

 

 

1971年6月7日、自身初のライヴアルバム『よしだたくろう オン・ステージ ともだち』を発売。“夏休み”を初収録。

7月、TBSラジオ深夜放送『パックインミュージック』のパーソナリティに抜擢。

7月21日、3rdシングル“今日までそして明日から”発売。

 

8月7日〜9日、『第3回全日本フォークジャンボリー』に出演。

10月、後藤とアーティスト主体の音楽制作プロダクション「ユイ音楽工房」を設立。

11月、広島フォーク村の後輩・大久保一久のアマチュアグループに初の楽曲提供。

11月20日、2ndアルバム『人間なんて』発売。

 

 

1972年1月、CBSソニーに移籍し、アーティスト兼プロデューサーとして契約。

1月21日、移籍第一弾シングル“結婚しようよ”がオリコン3位、40万枚以上を売り上げた。従来の長髪の若者達の反体制的音楽と目されていたフォークが一躍普通の音楽として認知され、サブカルチャーからメインストリームへ浮上する契機となった。

 

6月、長野県軽井沢の「聖パウロ教会」で四角佳子と挙式。

同月、CBSソニーとプロデューサー契約を結び、ワンマンレーベル「Odyssey」を立ち上げた。

7月1日発売の5thシングル“旅の宿”(作詞:岡本おさみ)がオリコンで5週連続1位、1972年年間ランキング4位と大ヒットしたことで作曲の依頼も舞い込んだ。

 

モップスに“たどりついたらいつも雨降り”、猫に“雪”や“地下鉄に乗って”(作詞:岡本おさみ)を提供し、拓郎はフォーク歌手としてだけでなく売れっこ作曲家となった。

7月21日、3rdアルバム『元気です。』発売。大ヒットシングル“旅の宿”や表題曲“元気です”の他、“春だったね”(作詞:田口淑子)、“高円寺”等を収録。オリコンで14週連続(通算15週)1位を獲得、1972年の年間第2位、1973年の年間第4位に輝いた。

 

 

1973年1月、バックバンドだった柳田ヒロのグループを「新六文銭」に発展させた。

同年、梓みちよに“メランコリー”(作詞:喜多条忠)、森進一に“襟裳岬”(作詞:岡本おさみ)を提供。

5月23日、4月18日の金沢公演の夜に暴行されたと女子大生から訴えられ逮捕。8日間拘留後、女子大生の狂言だと判明して不起訴となり、6月2日に釈放。翌3日、神田共立講堂のステージに立つ。しかしマスコミのバッシングにあい、ツアーのキャンセル、提供曲までも含めた放送禁止、CM(スバル・レックス[富士重工]、テクニクス[松下電器])自粛等の措置がとられた。そんな中で『明星』編集部は不起訴後、いち早く拓郎の独占自筆手記を掲載した。

6月1日、4thアルバム『伽草子』発売、オリコン1位。

 

6月21日、シングル“伽草子”(作詞:白石ありす)発売、オリコン36位。

 

12月21日、同年11月26・27日に東京中野サンプラザホールでの音源を収めたライヴアルバム『よしだたくろう LIVE '73』発売、“落陽”(作詞:岡本おさみ)初収録。

12月、“襟裳岬”が第16回日本レコード大賞を受賞する快挙となったが、当時国民的大イベントだった同大賞授賞式に拓郎は上下ジーンズの普段着で登場、物議を醸した。

 

 

1974年7月1日、「よしだたくろう&かまやつひろし」名義で“シンシア”を発売。

 

12月10日、5thアルバム『今はまだ人生を語らず』発売、オリコン1位。

 

 

1975年には、かまやつひろしに“我が良き友よ”を提供、この曲もヒットとなった。

 

5月、高額納税者番付1974年度納税分で、歌手部門にフォークシンガーとして井上陽水とともに初のランク入りとなる(拓郎5位、陽水7位)。

6月1日にCBSソニーの拓郎が、ポリドールの井上陽水、エレックの泉谷しげる、ベルウッドの小室等とともに、アーティストの手になる初のレコード会社「フォーライフ・レコード」を発起。これを機に漢字表記の「吉田拓郎」と改名する。

9月25日、フォーライフ設立後初のシングル“となりの町のお嬢さん”発売、吉田拓郎名義で出した最初のシングル。オリコン4位。

 

12月、オールナイトニッポン最終回で四角佳子との離婚を発表する。

同年、森山良子に提供した“歌ってよ夕陽の歌を”(作詞:岡本おさみ)は彼女の新境地を切り開き、「フォークの女王」の座に返り咲かせる。

 

 

1976年3月25日、11thシングル“明日に向って走れ”発売、オリコン8位。

 

4月、フォーライフ第1回新人オーディションでグランプリ獲得の川村ゆうこをプロデュース、デビュー曲“風になりたい”を提供。拓郎曰く「自分で作った曲で一番」。

5月25日、移籍後初のオリジナルアルバム『明日に向って走れ』発売、オリコン1位。

 

11月に、小室・拓郎・陽水・泉谷ら4人のスプリット・アルバム『クリスマス』を初回プレス30万枚で発売し、オリコンで1週のみ1位となったものの、累計が10万枚にも満たず、フォーライフの屋台骨を揺さぶることとなった。

 

 

1977年、フォーライフは2年目の決算で8億円の赤字を出す。

6月、小室に代わり、フォーライフ2代目社長に就任する。

7月、浅田美代子と2度目の結婚。

9月10日、井上陽水が大麻所持(大麻取締法違反容疑)で逮捕。社長として記者会見で平謝りし、嘆願書を集めて東京地検に日参するなど陽水の救済に尽力した。

 

70年代後半、キャンディーズに“やさしい悪魔”(作詞:喜多条忠)、石野真子に“狼なんか怖くない”(作詞:阿久悠)を提供。“やさしい悪魔”は後年、町田ガールズ・クワイアがカヴァー。

 

 

 

1978年11月21日、アルバム『ローリング30』発売、ほぼ全曲の作詞を松本隆に依頼した作品。“外は白い雪の夜”(作詞:松本隆)等を収録。オリコン8位。

 

 

1979年2月、『たくろうオン・ステージ第二集』(1972年12月発売)収録の“ポーの歌”が浜口庫之助の曲の盗作と報じられる。拓郎自身は初めからオリジナル曲とは言っていなかったが『たくろうオンステージ第二集』を無許可でリリースしたエレックが「吉田拓郎作詞・作曲」とクレジットしてしまったというのが真相である。

5月5日、16thシングル“流星”発売。TBS系ドラマ『男なら!』主題歌。ドラマ第22話(1979年9月4日放送)に本人役でゲスト出演、本楽曲を披露した。オリコン54位。

 

同年、「吉田拓郎 アイランド・コンサート in 篠島」が開催され、オールナイトで69曲、約8時間歌い、観客2万人動員。また、特別出演としてデビュー直後の長渕剛がステージに登壇した。 「TOUR 1980」では過去の曲を一切やらず、全て新曲で通すなど、過去との決別を宣言し、初の海外録音作品『Shangri-La』を発表した。

 

 

1980年5月5日、アルバム『Shangri-La』発売、単身渡米、プロデューサー、アレンジャーに、少年期のあこがれの人物であるブッカー・T・ジョーンズを起用した他、スタッフ全員を外国人で固め、ロサンゼルス郊外マリブにある「シャングリ・ラ スタジオ」で録音した作品、オリコン8位。

 

11月5日、宮崎美子が主演したTBS系ポーラテレビ小説『元気です!』の主題歌となったシングル“元気です”とアルバム『アジアの片隅で』を同時発売。“元気です”や“いつも見ていたヒロシマ”(作詞:岡本おさみ)等を収録したアルバムはオリコン6位。

 

 

 

1982年3月21日、シングル“唇をかみしめて”を片面シングルで発売。オリコン18位。

 

6月、ツアー最中の株主総会で、アーティスト業に専念するため、フォーライフ・レコード社長を退任すると発表。

 

 

1983年に浅田美代子と協議離婚する。

 

 

1985年6月15日、国立競技場で国際青年年 (IYY) 記念イベント「ALL TOGETHER NOW」を小田和正とともに企画運営し、司会を務めて、5万人の観客を動員した。

同年、オールナイトライヴ「吉田拓郎ONE LAST NIGHT IN つま恋」を開催。

 

 

1986年、映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』に高杉晋作役で出演。主題歌“ジャスト・ア・RONIN”(作詞:安井かずみ/作曲:加藤和彦)を加藤和彦とのデュエットシングルとして12月5日に発売。

 

同年12月、森下愛子と3度目の結婚。

 

 

1988年1月1日、個人事務所「宇田川オフィス」設立。 この頃からテレビ出演増加。

6月16日、日清パワーステーションにて、ライヴハウスでのコンサートを行う。 

 

 

1989年、NHK総合テレビ『愉快にオンステージ』にホストとして出演。

2月8日、アルバム『ひまわり』を引っ下げて行われた全国ツアーがスタート。

3月15日に、東京ドームでコンサートを行い、5万人を動員する。

3月21日、シングル“夏休み”をCBSソニーから発売。

 

9月13日、シングル“落陽”をフォーライフから発売。

 

 

1992年4月、新潟県吉田町の有志団体「若者共和国」の依頼で“吉田町の唄”を発売。

 

 

1993年、TBS系で放送されていたドキュメンタリー番組『地球ZIG ZAG』の3代目司会者に高橋リナとともに起用された。また、本人自ら出演した『サッポロ☆ドライ』に出演し話題となり、CMソングとなった“すなおになれば”もヒットした。

 

 

1994年8月16日に参加した『日本をすくえ'94 〜奥尻島、島原・深江地区救済コンサート〜』(日本武道館)はテレビ放送され、

同年の大晦日には、『第45回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たす。

 

 

1995年6月21日、アルバム『Long time no see』発売、収録曲“永遠の嘘をついてくれ”(作詞・曲:中島みゆき)はアルバム制作中、拓郎が中島に直接制作を依頼した曲。オリコン33位。

 

 

1996年に、まだCDデビュー前だったKinKi Kidsとともにテレビ番組『LOVE LOVE あいしてる』の司会を務め、大きな話題を呼ぶ。

 

 

1997年11月1日、『LOVE LOVE あいしてる』番組内でバックバンドを務めた「LOVE LOVE ALL STARS」とともに制作したセルフカヴァーアルバム『みんな大好き』を発売、20万枚以上の売り上げを記録した。番組テーマソング“全部抱きしめて”収録。CDレーベルのデザインは篠原ともえが担当。

 

 

1999年9月30日にフォーライフ・レコードとの専属アーティスト契約を解消。

 

 

2000年4月、テイチクエンタテインメントのJ-POP専用レーベル「インペリアルレコード」に移籍。交友のある飯田久彦がテイチクエンタテインメント代表取締役社長に就任したため。

 

 

2001年3月28日、拓郎自身初のマキシシングル“いくつになっても happy birthday”とアルバム『こんにちわ』を同時発売、シングルはテレビ朝日系『T×2 SHOW』のエンディングテーマでオリコン74位、アルバムはオリコン23位。ジャケットの写真はシングル、アルバムいずれもTHE ALFEEの坂崎幸之助が撮影した。

 

 

 

2003年4月、肺がん手術のためコンサートツアーを延期するが、手術は無事成功、秋には復帰コンサートで全国に元気な姿を見せた。ビッグバンドでのコンサートツアーはこの年から2006年まで毎年行われた。 

 

 

2004年、新潟県吉田町の「吉田ふれあい広場」に“吉田町の唄”歌碑が建立される。 

 

 

2008年8月3日、母校の広島修道大学(旧広島商科大学)で在学中に作詞作曲した“今日までそして明日から”の歌詞と、1970年代の写真入りの歌碑が披露された。 

 

 

2009年2月、avex traxに移籍。

4月15日、移籍第一弾アルバム『午前中に…』発売、オリコン6位。通算19作目となるオリコンTOP10入りを果たした。また、63歳1か月でのTOP10入りは、小田和正が2007年に『自己ベスト-2』で記録した60歳4か月を上回る史上最年長記録となった。その後、小田に2011年にリリースした『どーも』で最年長記録を塗り替えられる。

 

 

6月21日、生涯最後の全国ツアー「Have A Nice Day LIVE 2009」(10ヶ所10公演予定)がスタートするが、7月8日開催の大阪公演開始45分前に、体調不良による公演中止が決定。診察の結果、慢性気管支炎の悪化で約2週間の自宅療養を行うことになり、福岡、広島、神戸の3公演は中止となった。 

7月23日、つま恋へ車で移動中再び体調異変を訴え、同日に残り2公演も中止が決定。

 

 

2011年6月8日、1st配信シングル“That's it やったね”、同2nd“慕情”を配信開始。

 

 

2012年6月20日、アルバム『午後の天気』発売、タイトルは「GO!GO!能天気」から。オリコン12位。

 

 

2013年1月30日、前年のライヴを収録した『吉田拓郎 LIVE 2012』(Blu-ray・DVD・CD付DVD)を発売、オリコン週間DVDランキング総合6位となり、TOP10入り史上最年長(66歳10ヶ月)を記録する。 

 

 

2014年6月18日、セルフカヴァーアルバム『AGAIN』発売、オリコン14位。

 

 

2017年3月8日、「ニッポン放送<春の新番組>パーソナリティ発表記者会見」にて、新番組『吉田拓郎 ラジオでナイト』の開始を発表(2019年3月31日終了)。

 

 

2020年4月、ラジオ『吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』開始。

 

 

 

 

 

今日は拓郎75歳のHappy Birthday!

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「吉田拓郎」