ピーター・セテラ(Peter Cetera/ポーランド語名:ピョートル・ツェテラ[Piotr Cetera]/出生名:Peter Paul Cetera/1944年9月13日~)は、アメリカ合衆国のミュージシャン。ロックバンド「シカゴ」の元リード・ヴォーカリスト。

 

 

 

1944年9月13日、ピーター・ポール・セテラは、ポーランド系とハンガリー系の血を引く移民の両親の元、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ南端に位置するモーガン・パーク地区(the Morgan Park neighborhood)で生まれ育った。父親は機械工として働いていた。セテラは6人兄弟の2番目で、兄弟には、1970年代初頭にリッキー・ネルソン (Ricky Nelson/1940年5月8日–1985年12月31日) とアルバムを録音したティム・セテラと、ケニー・セテラがいる。 両者とも、シカゴ時代やセテラのソロでのレコーディング時にミュージシャンとしてクレジットされている。

 

セテラ曰く「家の中でいつも歌っていた」母が子どもらにも歌を教えていたという。

セテラは敬虔なカトリック教徒としての教育を受け、幼少より教会で合唱、ポーランド人会でアコーディオンとギターを習った。


11歳の時、セテラは欲しかったギターの代わりに両親がアコーディオンを買ってくれたことがきっかけで音楽への興味が深まった。彼は自分が「ポルカの天才のようなものだった」と述べている。

11・12歳頃、音楽に満ちた家庭で育ったセテラは自分に歌の才能があると気づいた。

12歳の時にはアコーディオン演奏で地元のタレント・コンテストで優勝した。しかし、彼の家族はFM受信機を持っていなかったため、翌週の番組放送時に彼のラジオデビューを聴き逃した。


高校入学時、「母が私に司祭になることを望んでいた」ため、セテラは高校の1年間、クイグリー大司教準備神学校に通った。

高校生の頃は、その一方で、歌手としてのキャリア追求を真剣に考え始めた。

15歳の時、高校の先輩たちがバンドを見るために彼をクラブに連れて行ってくれたことがきっかけで、モンゴメリー・ワードでアコースティック・ギターを購入した。

セテラは、ボ・ディドリー、リッチー・ヴァレンス、リトル・リチャード、ジミー・リード、ベンチャーズといったミュージシャンに初期の影響を受けた。

 

その後、メンデル・カトリック準備高校に転校。

最終的にセテラはエレキ・ベースを手に取り、高校時代の友人たちとともに、地元のダンス・サーキットで演奏を始め、リード・ヴォーカルをギタリストと分担した。

1962年、高校を卒業。そこでは「注目すべき卒業生」にリスト・アップされた。
 

セテラは、シカゴ地域でいくつかのグループで演奏した。

1960年代半ば、地元の人気ロック・バンド「エクセプションズ」(The Exceptions)で中西部をツアーし、セテラ曰く「18歳になる頃には父親よりも稼いでいた」という。

20代前半、音楽キャリアを始めた後、大きな影響を受けたのはビートルズだった。


1967年12月、セテラは「ザ・ビッグ・シング」(The Big Thing)というバンドのショーを観に行った。バンドが演奏するロックンロールとホーンセクションの組み合わせに感銘を受けたセテラは、2週間でエクセプションズを脱退、ビッグ・シングにヴォーカル兼ベース担当として加入する。これによりラインナップは、ロバート・ラム(Vo,Key)、テリー・キャス(Vo,G)、ジェイムズ・パンコウ(Tb)、ウォルター・パラゼイダー(Woodwinds)、リー・ロックネイン(Tp)、ダニー・セラフィン(Ds)、ピーター・セテラ(Vo,B)となった。

 

1968年、彼らはプロデューサーのジェイムズ・ウィリアム・ガルシオ(James William Guercio/1945年7月18日-)と契約、これに伴い、ビッグ・シングはバンド名を「シカゴ・トランジット・オーソリティー」(The Chicago Transit Authority)へと変更した。

 

 

1969年4月28日、セルフ・タイトルの1stアルバム『シカゴの軌跡』(Chicago Transit Authority)をコロンビア・レコードから発売、デビュー作は米音楽誌『ビルボード』の総合アルバムチャート「Billboard 200」(以下「全米」)17位・全英9位を記録。

7月、セテラとロバート・ラムがヴォーカルを分け合った“クエスチョンズ67/68”(Questions 67 and 68)をリカット、『ビルボード』誌の総合シングルチャート「Billboard Hot 100」(以下「全米」)で71位をマーク、さらに1971年に再販された際には全米24位に達した。

 

アルバムからは他に、ラムが歌った“いったい現実を把握している者はいるだろうか?”(Does Anybody Really Know What Time It Is?)が全米7位・同誌「アダルト・コンテンポラリー」チャート(以下「AC」)5位になり、同じくラム歌唱の“ビギニングス”(Beginnings)が再販時に全米7位・AC1位を記録した。

 

 

1970年1月26日、バンド名が紛らわしいとの苦情をシカゴ交通局(Chicago Transit Authority)から受け、現在の「シカゴ」(Chicago)にバンド名を変更、LP2枚組の2ndアルバム『シカゴと23の誓い (シカゴⅡ)』(Chicagi)を発売した。全米4位・全英6位になった本作からは、セテラが初めてシングルでメイン・ヴォーカルを務めた“長い夜”(25 or 6 to 4)が全米4位・全英7位と初期を象徴するヒットとなる。また、アルバムには、キャスが歌い全米9位になった“ぼくらに微笑みを”(Make Me Smile)などの曲が収録された。

 


1971年1月11日、3rdアルバム『シカゴIII』(Chicago III)を発売し、全米2位・全英9位を達成。ここからのシングルは、キャスが歌った"Free"が全米20位、セテラがヴォーカルを担当した"Lowdown"は全米35位を記録した。

 

10月25日、バンド初のライヴ・アルバム『シカゴ・アット・カーネギー・ホール』(Chicago at Carnegie Hall)を発売し、全米3位を獲得。

 

 

1972年7月10日、アルバム『シカゴV』(Chicago V)をリリース、バンド初の全米1位を獲得した。本作は4枚目のスタジオ作品であるが、シカゴのアルバムの数字はスタジオ盤やライヴ盤、ベスト盤等を合わせた通算で表記されるため、前作のライヴ盤を挟んで「V」と記された。本作からは、ラムとセテラが歌った“サタデイ・イン・ザ・パーク”(Saturday in the Park)が全米3位、セテラとキャスがヴォーカルを分けた“ダイアログ (パート1 & 2)”(Dialogue [Part I & II])も全米24位をマークした。

 

 

同年の米大統領選ではポール・サイモンらと反戦候補ジョージ・マクガヴァンを支援するなど当時は政治的歌詞を持つ曲が多かったが、その特徴は徐々に影を潜めた。


1973年6月25日、スタジオ作品『遙かなる亜米利加』(Chicago VI)を発売、2作連続で全米1位を獲得した。ロッキー山脈にスタジオを変えて制作した本作からは、セテラが歌った2曲、“愛のきずな”(Feelin' Stronger Every Day)が全米10位、“君とふたりで”(Just You 'N' Me)が全米4位・AC7位とヒットした。なお、ロッキー山脈で活動する姿はアメリカのテレビ番組『シカゴ・イン・ザ・ロッキーズ』として記録されており、その一部分は後のドキュメンタリー映画などにも使用されている。

 

 

 


1974年3月11日、スタジオ・アルバム『シカゴⅦ 市俄古への長い道』(Chicago VII)を発売、3作連続で全米ナンバー1を記録するが、元セルジオ・メンデスのラウヂール・ヂ・オリヴェイラ(Perc)が加入したこともあり、その内容はジャズやラテン音楽を意識したものになっており、ファンの間には従来の音楽性を望む声も多かった。ここからは、セテラが歌った2曲、“遥かなる愛の夜明け”([I've Been] Searchin' So Long)が全米9位・AC8位、“君は僕のすべて”(Call on Me)が全米6位・AC1位、キャスとセテラがリード・ヴォーカルを担当した“渚に消えた恋”(Wishing You Were Here)が全米11位・AC1位をマークした。

 

 

 

 

1975年3月24日、スタジオ・アルバム『シカゴⅧ 未だ見ぬアメリカ』(Chicago VIII)を発売、4作連続全米1位を獲得した。本作ではセテラが歌い全米5位・AC3位になった“オールド・デイズ”(Old Days)など従来のシカゴらしいブラス・ロック・ナンバーが復活したが、作品全体としてはAORやポップス路線へと移行し始める。

 

11月10日、9枚目のアルバムとしてベスト盤『Chicago IX: Chicago's Greatest Hits』を発売、5作連続でアルバム全米首位を獲得する。

 

 

1976年6月14日、スタジオ・アルバム『シカゴX カリブの旋風』(Chicago X)をリリース、全米3位首位を逃した。ここからは、セテラの甘い声が魅力のラブ・バラード“愛ある別れ”(If You Leave Me Now)が全米1位・AC1位の大ヒットとなるが、リーダーのテリー・キャスやロバート・ラムはこのような音楽性に反対した。

 


1977年9月12日、スタジオ・アルバム『シカゴXI』(Chicago XI)を発表し、全米6位を記録。セテラがヴォーカルを取ったシングル“朝もやの二人”(Baby, What A Big Surprise)が全米4位とヒットした。ポップス路線の楽曲に加え、従来のシカゴらしいナンバーや社会風刺が再び取り入れられたが、デビューから一緒に活動してきたプロデューサーのガルシオを金銭問題により解雇せざるを得なくなった。

 

 

1978年1月、リーダーのテリー・キャスが自動式拳銃の薬室に残った弾丸の誤発射により死亡、バンドは低迷期に突入する。なお、キャスの死後、バンドは解散や改名までも考えたが、リーダーを新しく立てずにシカゴとして活動再開を決意する。
10月2日、元スティーヴン・スティルスのドニー・デイカス(Vo,G)を新たに起用し、キャスの死後初のスタジオ作品『ホット・ストリート』(Hot Streets)を発売、全米12位。ここからは、セテラが歌った"Alive Again"が全米14位・AC39位、セテラと新加入のデイカスがヴォーカルを担当した"No Tell Lover"が全米14位・AC5位に到達。だが、音楽性がディスコ・ミュージックに移行したと評論家から批判を受ける。

 

 

同年、ビリー・ジョエル(Billy Joel)のアルバム『ニューヨーク52番街』(52nd Street)に収録された“マイ・ライフ”(My Life)に、セテラはシカゴの同僚ドニー・デイカスとともにバック・ヴォーカルとして参加、同曲はシングル・カットされ、全米3位・全英12位を記録した。

 

 

1979年8月13日、スタジオ・アルバム『シカゴ13』(Chicago 13)を発売、従来ローマ数字で表していた通算数をアラビア数字で初表記したが、全米21位に終わる。

デイカスは本作リリース後、バンドから解雇される。

 

 

1980年7月21日、トム・ダウドプロデュースによる『シカゴXIV』(Chicago XIV)も全米71位と、前作とともに失敗に終わる。

 

 

1981年、セテラは初のソロアルバム『Peter Cetera』143を発表するが、当時はシカゴの低迷期でもあり、さほど話題にもならす、全米143位に終わる。ここからのシングルも、"Livin' in the Limelight"が『ビルボード』誌の「メインストリーム・ロック」チャートで6位に入ったのみであった。

 

 

1982年、シカゴはフル・ムーン (WEA系) に移籍、再起を図る。

5月、セラフィンの友人ビル・チャンプリンの紹介でデイヴィッド・フォスターをプロデューサーに招聘、ロバート・ラムに代わりセテラが作詞作曲に積極的に参加、元サンズ・オブ・チャンプリンのビル・チャンプリン(Vo,Key,G)が加入する。

6月7日、こうして完成したスタジオ・アルバム『ラヴ・ミー・トゥモロウ (シカゴ16)』(Chicago 16)をリリースすると、全米9位を記録。ここから、フォスターとセテラが共作したセテラ歌唱の“素直になれなくて” (Hard to Say I'm Sorry)が全米1位、1982年ビルボード年間12位を記録、今日まで愛されるバラードの定番となった。また、セテラが歌った"Love Me Tomorrow"が全米22位・AC8位になった。

 

 

 

 

1983年、セテラはポール・アンカ(Paul Anka)のシングル"Hold Me 'Til the Mornin' Comes"に客演、全米40位・AC2位をマーク。

 


1984年5月14日、スタジオ・アルバム『シカゴ17』(Chicago 17)をリリースすると、全米4位、引き続き合州国700万枚のビッグヒットを記録。ここからはセテラが歌い全米3位・AC1位・全英14位になった“君こそすべて”(You're the Inspiration)など、ラブ・バラード路線の楽曲が大ヒットを記録し、再ブレイクどころか、復活を通り越して過去最大の成功を収めた。ここからは他にも、セテラとチャンプリンが歌った"Hard Habit to Break"が全米3位・AC3位・全英8位になった。

 

 

 


1985年、バンドが絶頂期を迎えた頃、セテラはシカゴを脱退する。メイン・ヴォーカルを務める中、セテラはソロシンガーとして成功する自信を深める一方、シカゴの頻繁なツアーは体力的負担が大きすぎると感じすとともに、売れっ子故の激務により家族と過ごす時間がほとんど取れなくなったことに苦悩。フィル・コリンズとジェネシスのように、ソロ活動とバンド活動とを分け、より個人の自由時間が欲しいと訴えた。だが、セテラは、バンドとソロの活動を同時に行なわない確約を含む契約書への署名を迫られ、これを拒否したためバンド脱退を余儀なくされたという。

なお、セテラ脱退後のシカゴは、彼に似た声質のジェイソン・シェフを後任ヴォーカリストに迎えたことから、その影響の大きさが伺い知れる。

セテラは現在でもシカゴについて語りたがらず、自身のベストアルバムでもシカゴ時代の曲は再録を収録。また、以前からシカゴのブラス・ロック的手法を嫌い、ソロ転向の機会を伺っていたといい、「加入した翌日からやめたくなった」らしい。

 

 

1986年6月4日、セテラは映画『ベスト・キッド2』(The Karate Kid Part II)の主題歌“グローリー・オブ・ラヴ”(Glory of Love)を発売、全米1位・AC1位・全英3位の大ヒットとなる。

 

6月23日、“グローリー・オブ・ラヴ”を収録した2ndソロ・アルバム『ソリテュード〜ソリティア』(Solitude/Solitaire)をリリース、全米23位ながらRIAAプラチナ認定を受けるベストセラーとなった。

 

9月、『ソリテュード〜ソリティア』から、エイミー・グラント(Amy Grant/1960年11月25日-)とのデュエット・ナンバー"The Next Time I Fall"をリカット、続けて全米1位・AC1位の大ヒットを記録した。

 


1987年、AORサウンドを代表するシンガーとして知られるボビー・コールドウェル(Bobby Caldwell/1951年8月15日-2023年3月14日)により提供された“Stay With Me”が日本映画『竹取物語』の主題歌となり、日本のオリコン洋楽シングルチャートで1987年10月12日付から4週連続1位を獲得した。

 

 

1988年、“One Good Woman”が全米4位・AC1位を記録。

 

 

1989年、シェール(Cher)とのコラボレーション曲“アフター・オール”(After All)が全米6位・AC1位にランクインする。

 

 

1991年3月13日、国際赤十字組織を支援するチャリティー・シングル"Voices That Care"を、デヴィッド・フォスター、リンダ・トンプソンとともに共作、この日にリリースした。この曲は、人気ミュージシャン、エンターテイナー、スポーツ選手により構成されたスーパーグループによって演奏され、全米11位・AC6位を記録した。

 

 

1992年、"Restless Heart"が全米35位・AC1位。

 

 

1993年、チャカ・カーン(Chaka Khan)とのコラボ・シングル"Feels Like Heaven"が全米71位・AC5位を記録。

 

同年、"Even a Fool Can See"が全米68位・AC3位を記録。

 

 

1997年、Az Yetのシングル"Hard to Say I'm Sorry"に参加、全米8位・AC14位・全英7位を記録した。

 

同年、コンピレーション・アルバム『You're the Inspiration: A Collection」をリリース、全米134位をマーク。

 

 

1998年、シングル"She Doesn't Need Me Anymore"がAC27位をマーク。

 

 

2001年、シングル"Perfect World"がAC21位。

 

 

2004年、クリスマス・アルバム『You Just Gotta Love Christmas」をリリース。

 

 

2005年、前年のクリスマス・アルバムからリカットした"You Just Gotta Love Christmas"がAC39位、"Silent Night"がAC24位、"Something That Santa Claus Left Behind"がAC37位をそれぞれマーク。

 

 

 

 

2009年12月13・15・17日の3日間、東京駅前のコットンクラブでシカゴ脱退後初の日本公演を行った。

 

 

2010年10月、デイヴィッド・フォスター&フレンズの一員として再来日し、“素直になれなくて”など共作したシカゴのナンバーを数曲演奏した他、フジテレビ『情報プレゼンター とくダネ!』にも生出演し、デイヴィッド・フォスターのピアノ伴奏で“素直になれなくて”を歌唱している。

 

 

2012年1月には東京・名古屋公演が行われた。

11月12日にはデイヴィッド・フォスター&フレンズの一員として東京国際フォーラムで公演を行い、「素直になれなくて」や「グローリー・オブ・ラヴ」など自身のヒット曲を歌唱した。


2016年、シカゴのロックの殿堂入りの際に再結成の話し合いも進んでいたとされる。授賞式でのパフォーマンスでは“サタデイ・イン・ザ・パーク”、“いったい現実を把握している者はいるだろうか?”、“長い夜”の3曲の演奏が予定されており、元メイン・ヴォーカリストとしてセテラも式典でプレイしたいと発言していたが、いくつかの理由で結局バンド側との話し合いが決裂。

4月、殿堂入りの授賞式での演奏に元ドラマーのセラフィンは加わったが、セテラは不参加、パーティーにも出席せず、アイスホッケーの試合を見に行っていたとされる。決裂した理由としては、セテラが現在の自分のバンドの曲を演奏したがっていたこと、ヒット曲“長い夜”のキーをAからEに下げることを希望していたことが、キーボード担当のロバート・ラムの『ローリング・ストーン』誌でのインタビューで判っている。結局ブラスがある“長い夜”は大きなキー変更は難しかった。


最近ではセテラは数年ぶりにベースを持ち、“I'm a man”や“Feelin' stronger everyday”などシカゴの曲を披露しているが、キーは下げている。

近年セテラのライヴにおいてシカゴの曲の演奏は増えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ピーター・セテラ」「Peter Cetera」「シカゴ (バンド)」「Chicago (band)」

 

 

 

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