ウォルター・パラゼイダー(Walter Parazaider/1945年3月14日~)は、

アメリカ合衆国のミュージシャン。同国のバンド「シカゴ」の創立メンバーで、木管楽器奏者。

 

 

 

1945年3月14日、ウォルター・パラゼイダーはイリノイ州メイウッドで生れた。

9歳からクラリネットを始めた。

10代の頃、彼の才能はプロのオーケストラミュージシャンとして務まる程、十二分に開花した。デ・ポール大学ではクラシック・クラリネットの文学士の単位を取得し、ビートルズの“Got To Get You Into My Life”にインスパイアされ、ホーンを融合させたロックバンドを作ることに夢中になり始めた。

 

1967年2月15日、ウォルター・パラゼイダー (Woodwinds)は、ロバート・ラム (Vo,Key)、テリー・キャス (Vo,G)、ジェイムズ・パンコウ (Tb)、リー・ロックネイン (Tp)、ダニー・セラフィン (Ds)とバンドを結成。当時のバンド名は「ビッグ・シング」(The Big Thing)といった。

パラゼイダーの家での練習には、テリー・キャスとダニー・セラフィンも加わっており、後にシカゴのプロデューサーとなるジェームズ・ウィリアム・ガルシオもこれに参加するようになった。


1969年、バンドは「シカゴ・トランジット・オーソリティ」(Chicago Transit Authority)のバンド名で、コロムビア・レコードと契約。

4月28日、ジェイムズ・ウィリアム・ガルシオのプロデュースにより、セルフタイトルの1stアルバム『シカゴの軌跡』(Chicago Transit Authority)を発売し、米誌『ビルボード』総合アルバムチャート「Billboard 200」(以下「全米」)で最高位17位を獲得、全英では最高位9位でチャートインした。アルバムからは“クエスチョンズ67/68”(Questions 67 and 68)が米誌『ビルボード』総合シングルチャート「Billboard Hot 100」(以下「全米」)71位にチャートインした。また、後に“ビギニングス”(Beginnings)と“いったい、現実を把握している者はいるだろうか?”(Does Anybody Really Know What Time It Is?)が全英7位のヒットとなる。

 

 

 

 


1970年1月、シカゴ交通局(Chicago Transit Authority)から苦情を受けたため、バンド名を現在の「シカゴ」(Chicago)に変更する。

1月28日、新バンド名になって2ndアルバム『シカゴと23の誓い (シカゴⅡ)』(Chicago)を発売、全米4位・全英6位になった。アルバムからはシングル“長い夜”(25 or 6 to 4)が全米4位・全英7位を獲得する大ヒットになり、 他に“ぼくらに微笑みを”(Make Me Smile)が全米9位、“ぼくらの世界をバラ色に”(Colour My World)が全米7位に達するなど、多数のヒット曲を生み出した。

 

 

 

 


1971年1月11日、3rdアルバム『シカゴIII』(Chicago III)を発売し、全米2位を獲得。本作からアルバムの通算数をタイトルに付けるようになる。本作からのシングルは、 "Free"が全米20位、"Lowdown" が全米35位になった。

 

 

 

10月25日、初のライヴ・アルバム『シカゴ・アット・カーネギー・ホール』(Chicago at Carnegie Hall)を発売し、全米3位を獲得した。

 

 

1972年7月10日、アルバム『シカゴV』をリリース、バンド史上初の全米1位を獲得した。スタジオ録音のオリジナル・アルバムとしては4枚目だが、アルバムの通算数は前作のライヴ盤もカウントし、本作を「V」としている。アルバムからは、“サタデイ・イン・ザ・パーク”(Saturday in the Park)を先行シングルとしてリリースして全米3位、“ダイアログ (パート1 & 2)”(Dialogue [Part I & II])が全米24位とヒットした。

 

 

 

同年の大統領選挙ではポール・サイモンらとともに反戦候補のジョージ・マクガヴァンを熱心に支援するなど、当時は政治的な歌詞を持つ曲が多かったが、徐々にその特徴は影を潜めた。


1973年6月25日、ロッキー山脈にスタジオを変えて制作したアルバム『遙かなる亜米利加』(Chicago VI)を発売、初の全米1位になった。アルバムからは“愛のきずな”(Feelin' Stronger Every Day)が全米10位、“君とふたりで”(Just You 'N' Me)が全米4位になった。なお、ロッキー山脈で活動するバンドの姿はアメリカのテレビ番組『シカゴ・イン・ザ・ロッキーズ』として記録されており、その一部分は後のドキュメンタリー映画などにも使用されている。

 

 

 


1974年3月11日、アルバム『シカゴⅦ 市俄古への長い道』(Chicago VII)を発売、全米1位を記録するが、内容はジャズやラテン音楽を意識したもので、従来の音楽性を望む声も多かった。シングルは、"(I've Been) Searchin' So Long"が全米9位、"君は僕のすべて"(Call on Me)が全米6位、"Wishing You Were Here"が全米11位になった。

 

 

 

 

 

1975年3月24日、アルバム『シカゴⅧ 未だ見ぬアメリカ』(Chicago VIII)を発売、4作連続全米1位になった。シングル全米5位になった“オールド・デイズ”(Old Days)などで従来のシカゴらしいブラス・ロックを復活させたが、同アルバムからAOR、ポップス路線へと移行し始める。

 

 

11月10日、バンド初のベストアルバム『Chicago IX: Chicago's Greatest Hits』を発売、オリジナル・アルバム4作品に続き5作連続となる全米1位を獲得した。

 

 

 

 

1976年6月14日、アルバム『シカゴX カリブの旋風』(Chicago X)を発売、全米3位。ここからラブ・バラード“愛ある別れ”(If You Leave Me Now)が全米1位の大ヒットを記録するが、バンドのリーダーであるテリー・キャスやロバート・ラムはこうした音楽性に強く反対した。

 


1977年9月12日、『シカゴXI』(Chicago XI)を発売、全米6位。方向性が見直され、ポップス路線の楽曲に加え、従来のシカゴらしいナンバーや社会風刺が再び取り入れられた。また、“朝もやの二人”(Baby, What A Big Surprise)が全米4位とシングルヒットも排出。しかし、デビュー以来活動をともにしてきたプロデューサーのガルシオを金銭問題により解雇せざるを得なくなる。

 

 

1978年1月、リーダーのテリー・キャスが自動式拳銃の薬室に残った弾丸の誤発射という拳銃暴発事故により死亡、バンドは低迷期に突入する。なお、キャスの死後、バンドは解散や改名を考えたというが、新しいリーダーは立てずにシカゴとして活動再開を決意する。
9月、ギターに新しくドニー・デイカスを起用。

10月2日、キャスの死後初となるアルバム『ホット・ストリート』(Hot Streets)を発売。しかし音楽性がディスコ・ミュージックに移行したとして評論家から批判され、全米12位。アルバムからのシングルは、"Alive Again"と"No Tell Lover"が全米14位になった。

 

 

1979年8月13日、アルバム『シカゴ13』(Chicago 13)を発売、全米21位に終わる。

 

 

1980年7月21日、トム・ダウドプロデュースによるアルバム『シカゴXIV』(Chicago XIV)を発売、全米71位に沈んだ。


 

1981年11月23日、2枚目のベストアルバム『Greatest Hits, Volume II』をコロムビアからリリース、全米171位。

 

 

その後、WEA系のフル・ムーンに移籍。

 

 

1982年6月7日、セラフィンの友人ビル・チャンプリンの紹介によりデイヴィッド・フォスターをプロデューサーに迎え、アルバム『ラヴ・ミー・トゥモロウ (シカゴ16)』(Chicago 16)を発売、全米9位と復活の兆しを見せる。先行シングル“素直になれなくて”(Hard to Say I'm Sorry)が全米1位をはじめ各国で首位に達し、同年ビルボード年間12位の大ヒットとなった。

 

 

1984年5月14日、『シカゴ17』(Chicago 17)を発売、全米4位になった本アルバムからは“忘れ得ぬ君へ”(Hard Habit to Break)と“君こそすべて”(You're the Inspiration)がともに全米3位になるなど、ラブ・バラード路線のシングル曲が大ヒットを記録し、再ブレイクを果たした。

 

 

しかし音楽性の変化により、ブラス担当のジェームズ・パンコウ、リー・ロックネイン、ウォルター・パラゼイダーの三人は従来のように担当楽器を演奏できなくなったため、思案の末キーボードやギターを担当し始める。さらに、バンド活動自体がセテラとフォスターの二人による主導になりつつあったため、メンバー間の溝はより一層深まっていった。


1985年、バンドの顔であったセテラが、ソロ活動に専念するため脱退。新ヴォーカリストのジェイソン・シェフが加入するものの、フォスターによる主導は続く。

 

 

1986年9月29日、アルバム『シカゴ18』(Chicago 18)を発売、全米35位。ここから"スティル・ラブ・ミー"(Will You Still Love Me?)が全米3位になった。

 

 

1988年6月20日、『シカゴ19』(Chicago 19)を発売、全米37位。シングルでは"Look Away"が3曲目の全米1位になったのを筆頭に、"I Don't Wanna Live Without Your Love"が全米3位、"You're Not Alone"が全米10位と、ラブ・バラード、AOR路線でヒットを記録するが、メンバーはフォスターに対する不満を募らせ、遂に彼を解雇する。

 

 

 

 

1989年11月20日、ベストアルバム『Greatest Hits 1982–1989』をリリース、全米37位・全英6位。ここからカットした"What Kind of Man Would I Be?"が全米5位になった。

 


1991年1月、新しくプロデューサーを迎え21thアルバム『シカゴ21』(Twenty 1)を発売。しかしアルバムは全米66位、シングルも"Chasin' the Wind"が全米39位になっただけと売り上げが低迷したことから、バンドとレコード会社の関係が悪化する。

 

『シカゴ22』として製作された次作『ストーン・オブ・シシファス(英語版)』はレコード会社の希望する路線と異なっていたことから、アルバム発売が中止されてしまう(2008年5月6日放送『ベストヒットUSA』での、ロックネインとパンコウの発言より)。これがきっかけとなり、バンドはジャイアント・レコードへ移籍。

 

 

1995年5月23日、ビッグバンド・ジャズのカヴァー・アルバム『ナイト・アンド・デイ〜ビッグ・バンド』(Night & Day: Big Band)を発売し、全米90位。

 


1998年8月25日、初のホリデイ・アルバム『シカゴ25〜クリスマス・アルバム〜』(Chicago XXV: The Christmas Album)を発売、全米47位。プロモーション活動も精力的に行い、同時期のベスト・アルバム数枚も大ヒットを記録した。

 

 

2002年7月2日、ベストアルバム『The Very Best of Chicago』を発売、全米20位・全英11位。


2004年、アース・ウィンド・アンド・ファイアーとのジョイント・コンサートを開催し、成功を収める。ロバート・ラムは後にこのコンサートを「近年では一番好きなライヴ」と語っている。


2006年3月21日、ジェイ・ディマーカスをプロデューサーに迎え、15年ぶりのオリジナル・アルバム『シカゴXXX』(Chicago XXX)を発売、全米41位。

 

 

2008年6月には、かねてからお蔵入りとなっていた『シカゴ22』が『シカゴ32 ストーン・オブ・シシファス』としてリマスターされ発売された。


2010年代以降、パラゼイダーのライヴへの参加が不定期となる。


2014年7月4日、8年ぶりのオリジナル・アルバム『シカゴ36"NOW"』(Chicago XXXVI: Now)を発売、全米82位・全英141位。パラゼイダーがクレジットされた最後のオリジナル・アルバムとなった。



2016年4月、ロックの殿堂入りを果たした。授賞式では“サタデイ・イン・ザ・パーク”、“いったい現実を把握している者はいるだろうか?”、“長い夜”の3曲を披露し、元ドラマーのセラフィンも演奏に参加した。だが、セテラはバンド側との条件交渉が決裂、式典に出席することはなかった。

同年、パラゼイダーはツアーを引退。



2017年1月1日、米CNNにおいて2013年に撮影されたシカゴのドキュメンタリー映画『ザ・ヒストリー・オブ・シカゴ ナウ・モア・ザン・エヴァー』が公開され、後に海外でDVDも発売された。

同年にはラム、パンコウ、セテラがソングライターの殿堂入りを果たした。

この年、パラゼイダーはバンドから正式に脱退することを発表、後任は以前から代役を務めていたレイ・ハーマンが担当した。


2021年、パラゼイダーがシカゴのオフィシャルサイトにてコメントし、自身がアルツハイマー病に苦しんでいることを公表した。

12月23日、ドキュメンタリー映画『ザ・ヒストリー・オブ・シカゴ ナウ・モア・ザン・エヴァー』がDVDで発売。

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ウォルター・パラゼイダー」「シカゴ (バンド)」「Walter Parazaider」「Chicago (band)」