T-ボーン・ウォーカー (T-Bone Walker/出生名:Aaron Thibeaux Walker/1910年5月28日~1975年3月16日)は、アメリカ合衆国のブルーズ・ギタリスト、シンガー。

 

 

 

最も早い時期にブルースにエレキギターを持ち込んだ人物とされ、モダン・ブルース・ギターの父とも称される。彼の代表曲"Stormy Monday"はブルースのスタンダードとして知られている。

 

 

 

1910年5月28日、アーロン・ティーボー・ウォーカーは、南部テキサス州リンデン(Linden)で、アフリカ系アメリカ人とチェロキー族の子孫として生まれた。彼の両親、Moveria JimersonとRance Walkerは両方ともミュージシャンだった。継父であるマルコ・ワシントン(Marco Washington)もダラス・ストリング・バンドのメンバーとしてあらゆる楽器を演奏するミュージシャンで、ウォーカーにギター、ウクレレ、バンジョー、バイオリン、マンドリン、ピアノを弾くように教えた。

ウォーカーは幼少時にテキサス州最大のブルース都市に移り、急激に発展したブルーズの現場で幼いころから演奏家としてもまれながら育つ。

 

10歳でウォーカーは学校を卒業した。

1920年頃、彼の母親と継父など家族の友人で、時々夕食にやって来たブルーズマンのブラインド・レモン・ジェファーソン(Blind Lemon Jefferson)のリード・ボーイ(盲人の先導役)を務めるようになる。

 

 

1923年頃からギターの演奏を試みるようになる。薬売りの余興から始まった、音楽のみならず、寸劇や手品なども盛り込んだ、一種の大衆娯楽ショー(いわゆる「メディシン・ショー」)に出演したり、アイダ・コックス(Ida Cox/ 1896年-1967年)のグループの一員として活動するようになる。

 

15歳までにブルーズサーキットでプロのパフォーマーになった。当初、彼はジェファーソンの弟子であり、ギグのために町を案内していた。

 

1929年、ウォーカーはコロムビアレコードでレコーディングデビューを果たす。「オーク・クリフ・Tボーン」(Oak Cliff T-Bone)としてクレジットされ、“トリニティ・リバー・ブルーズ”(Trinity River Blues)を元にしたカントリー・ブルーズ調のシングル“ウィチタ・フォールズ・ブルース”(Wichita Falls Blues)をリリースした。この時のレコーディングではピアニストのダグラス・ファーネルが伴奏を演奏した。なお、この時の名義のうち「オーク・クリフ」は彼が当時住んでいたコミュニティであり、また彼のミドルネーム「ティーボー」(Thibeaux)に由来し、かつ出身のテキサス州は牛肉の最大の産地でもあるため、ビーフ・ステーキにちなんで「Tボーン」(T-Bone)と呼ばれるようになった。

 

 

1933年頃にはベニー・グッドマンとの活動等で知られるジャズ・ギタリストのチャーリー・クリスチャン(Charlie Christian)とも共演しており、その後彼らによって展開されたジャズとブルーズの革新のための前奏曲が奏でられていたことになる。

 

 

1934年にはロサンゼルスに移住。

 

 

1935年、ウォーカーはビダリーと結婚した。夫婦には3人の子どもをもうけた。

 

25歳までに、ウォーカーはロサンゼルスのセントラルアベニューのクラブで、時には注目の歌手として、またレス・ハイト(Les Hite/1903-1962)の楽団で活動しながら、ギタリストとして働いていた。

 

 

1930年代後半頃より、ウォーカーは演奏にエレクトリック・ギターを持ち込む。

 

 

1940年に彼はVarsityレーベルのためにHiteでレコーディングしたが、この時ウォーカーは歌手として扱われた。

 

 

1942年、Rhumboogie CaféのオーナーであるCharlie Glennは、Tボーン・ウォーカーをシカゴに連れて行き、ウォーカーは長年クラブで演奏をした。

同年、キャピトルから発表した“ミーン・オールド・ワールド”(Mean Old World)でエレクトリック・ギター奏法の魅力を全開させ、ブルーズ界に衝撃を与えた。ジャズのスウィング感をもちつつ、より高度な奏法テクニック、洗練された味わい、さらには優れたリズム感による曲展開を見せるウォーカーの演奏は、ギターをブルーズの中心的楽器へと導くものだった。

 

 

1944・1945年、ウォーカーは、マール・ヤングのオーケストラ(Marl Young and His Orchestra)によるバックアップで、クラブ関連のRhumboogieレーベルのために録音した。

 

 

1946年10月12日、T-ボーンウォーカーは、レオン・ヘフリンシニアのプロデュースにより、ロサンゼルスのリグレー・フィールドで開催された有名な「第2回カヴァルケード・オブ・ジャズ・コンサート」に参加した。

 

 

1947年9月7日、同じ場所で開催された「第3回カヴァルケード・オブ・ジャズ・コンサート」にも参加、ウディ・ハーマンや、エムシー、ヴァルデス・オーケストラ、ブレンダー、ハニー・ドリッパーズ、スリム・ゲイラード、ジョニー・オーティスと彼のオーケストラ、トニ・ハーバー、 3ブレイザーズとサラボーン等と共演した。

 

 

1946年から1948年にかけて、彼の作品の多くが、Black&White Recordsのためにレコーディングされた。この時期に彼が録音した他の注目すべき曲は、彼の最も有名な曲である1947年の“コール・イット・ストーミー・マンデー”(Call It Stormy Monday)である。本曲は元々“Call It Stormy Monday (But Tuesday Is Just as Bad)”(コール・イット・ストーミー・マンデイ、バット・チューズデイ・イズ・ジャスト・アズ・バッド)というタイトルが短縮されたものだった。単に“ストーミー・マンデー”(Stormy Monday)または時に“Stormy Monday Blues”とも呼ばれ、その後自身でも何度か録音を行ったが、B.B.キングをはじめとするブルーズマンはもとより、オールマン・ブラザーズ・バンドやジョン・メイオールなど数多くのミュージシャンによるカヴァーバージョンを生んだことでも知られる。

 

この他に、1947年に3位のR&Bヒットとなった“ボビー・ソックス・ブルース”(Bobby Sox Blues)と、1948年のR&Bシングルチャートで8位になった“ウェストサイド・ベイビー”(West Side Baby)がこの頃の特筆すべきナンバーである。

 

 

ウォーカーはそのキャリアを通じて、トランペッターのテディ・バックナー(例:“Call It Stormy Monday”)、ピアニストのロイド・グレン、ベーシストのビリー・ハドノット(LPの『Hot Leftovers』と『Good-Bye Blues』)、テナーサックス奏者のJack McVea(“Don't Leave Me Baby”と“No Worry Blues”)などの一流ミュージシャンと共演した。

 

 

 

1950年以降、デイブ・バーソロミューのインペリアル・レコード(Imperial Records)に移り、1954年頃までレコーディングを実施。その後インペリアルを離れても精力的にレコーディングに取り組んだ

よりリズム・アンド・ブルース的側面を強くした1952年“コールド・コールド・フィーリング”(Cold, Cold Feeling)、妻に捧げた“バイダ・リー”(Vida Lee)の他、“ストローリン・ウィズ・ボーン”(Strollin' With Bones)、1961年“アイ・ゲット・ソー・ウィーリー”(I Get So Weary)など数えきれない名作を発表した。

 

 

 

 

これらの曲によりクラレンス・‘ゲートマウス’・ブラウン(Clarence ‘Gatemouth’ Brown/1924-2005)、ピー・ウィー・クレイトン(Pee Wee Crayton/1914-1985)、ジョニー・ギター・ワトソン(Johnny Guitar Watson/1935-1996)といったテキサス出身のブルーズマンがウォーカーに強烈に感化されたことは無論だが、第二次世界大戦後最大のブルーズ界のスター、B・B・キング(B.B. King/1925年9月16日-2015年5月14日)がウォーカーのスタイルを下敷きにしたことから殊更ウォーカーの歴史的評価が固まった。

インペリアルでの5年間でリリースされた中で最も知られたLPレコードは、1955・1956・1959年の3つの大きく離れたセッションで録音され、1959年にAtlantic Recordsからリリースされた『T-Bone Blues』だろう。また、1960年の『Singing the Blues』も佳曲ぞろいの一枚である。

 

 

 

1962年、「アメリカン・フォーク・ブルース・フェスティバル」(the American Folk Blues Festival)でピアニストのメンフィス・スリム(Memphis Slim)や、多作の作家兼ミュージシャンのウィリー・ディクソン(Willie Dixon)などと共演し、エネルギッシュなパフォーマンスを見せた。

 

 

1965年、“Hey Hey Baby”(特に“Hey Baby”)を発表。

 

 

一方、『I Want a Little Girl』(1968年にDelmark Recordsで録音された)など、非常に高い評価を得ているアルバムがいくつか続いた。

 

 

 

1968~1975年の間、ウォーカーは、ロビン・ヘミングウェイの音楽出版会社であるジトニー・ジェーン・ソングスのために録音した。

1968年、アルバム『ファンキー・タウン』(Funky Town)を発表。

 

 

1969年、アルバム『Everyday I Have the Blues』をリリース。

 

同年、アルバム『Super Black Blues』をリリース、ビッグ・ジョー・ターナー(Big Joe Turner)やオーティス・スパン(Otis Spann)と共演した。

 

 

 

1970年、ヘミングウェイがプロデュースしたポリドールレコードと契約し、アルバム『グッド・フィーリン』(Good Feelin')をポリドールからリリース。

 

 

 


1971年、『グッド・フィーリン』でグラミー賞の最優秀エスニックまたはトラディショナルフォークレコーディングを受賞。

 

 

1973年、ヘミングウェイがプロデュースした別のアルバム『フライ・ウォーカー・エアライン』(Fly Walker Airlines)をリリースした。

 

 

1974年、ウォーカーは脳卒中を起こし、その後のキャリアは、衰退し始めた。

同年、1940年代後半の作品を集めたアルバム『モダン・ブルース・ギターの父』が発売、モダン・ブルーズを代表するアルバムとして不動の評価を得る。

なお、メディシン・ショウを経た経験からか、ステージにおいてウォーカーは、時にはダンサー、コメディアンもこなし、しばしばギターを背中にまわして弾いたりするなど、エンターテインメント性に富んだパフォーマンスを見せたものだった。この『モダン・ブルース・ギターの父』のジャケット・イラストで描かれた、股割をしながらギターを頭の後ろに回して演奏する姿は、ウォーカーのトレードマーク的な、シンボリックな姿として、彼を紹介する際にしばしば用いられる。

 

 

1975年3月、彼はロサンゼルスの自宅で気管支肺炎で別の脳卒中を起こして亡くなった。64歳没。

彼の葬儀は、同市のブラック・コミュニティでは、10年前に亡くなったサム・クック(Sam Cooke/1931年1月22日-1964年12月11日)以来の規模だったという。

 

 

ブルースにおける歴史的な革新に対する評価の割には、いま一つ深く聴かれていないきらいがあるTボーン・ウォーカー。B・B・キングやマディ・ウォーターズ(Muddy Waters/1913年4月4日-1983年4月30日)のように、ロック・ミュージシャンと直接的接点をもたなかったから、ということも一因であろうか。だが、カントリー・ブルーズからジャズまでの統合を具体化し、真のモダン・ブルーズを見事開花させた偉大なミュージシャンである事実はまったくもって揺るぎない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

コトバンク「ウォーカー(T-Bone Walker)」[日暮泰文]

 

Wikipedia「T-ボーン・ウォーカー」「T-Bone Walker」

 

 

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