カルロス・サンタナ(Carlos Santana/出生名:Carlos Augusto Santana Alves/1947年7月20日 ~)は、メキシコ出身のギタリスト。アメリカ在住。自身の名を冠したロック・バンド「サンタナ」を1960年代から率いている。

 

 

 

1947年7月20日、カルロス・アウグスト・サンタナ・アルベスは、メキシコ・ハリスコ州(Estado de Jalisco)アウトラン・デ・ナヴァロ(Autlán de Navarro)で生まれた。マリアッチのヴァイオリン奏者だった父の指導のもと、5歳でヴァイオリンを習い、8歳でギターを習った。 弟のホルヘ・サンタナ(Jorge Santana)もプロのギタリストになろうとした。米国のロックとポップ・ミュージックにメキシコ人はごく少数しかいなかった当時、カルロスはリッチー・ヴァレンス(Ritchie Valens)から大きな影響を受けた。カルロスはまた、B.B.キング, T-ボーン・ウォーカー、ジョン・リー・フッカーといったような1950年代の人気のあるアーティストから影響を受けた。ギターの演奏を始めて間もなくカルロスは、50年代のロックンロールに独特のタッチを加えることができる場となる地元のバンド「Tijuana Strip」に加わった。

カルロスの家族は、カリフォルニア州との国境沿いのティフアナへ移住し、その後サンフランシスコへ移った。カルロスはティフアナに留まったが、1962年にサンフランシスコで家族と合流した。カルロスはサンフランシスコのミッション・ディストリクトに住み、ブルーズやラテンジャズに傾倒した。学校はJames Lick Middle Schoolを卒業した。ジャズやフォークソングを含む様々な新しい音楽の影響も受け、1960年代のサンフランシスコを中心として興っていたヒッピー運動も目にした。その後の数年間は食堂での皿洗いと路上ライブで少額を稼ぎ、フルタイムのミュージシャンになることを決めた。

1965年、Mission High Schoolを卒業。カリフォルニア州立大学ノースリッジ校(California State University, Northridge)とハンボルト州立大学(Humboldt State University)に入学することができたが、大学へは進学しなかった。

同年、カルロスは米国に帰化した。

 

 

1966年、当時カルロスはビル・グラハム(Bill Graham)のフィルモア・ウエスト(Fillmore West)に観客として通っていた。ある日、フィルモア・ウエストで公演予定だったポール・バターフィールドが酔っ払ってしまったため公演できなかった。ビルは、ポールのバンドやグレイトフル・デッドやジェファーソン・エアプレインなどとのコネクションを通じて知っているミュージシャンを集めて即席のバンドを組んだが、ギタリストが足りなかった。カルロスのマネージャーのStan Marcumが、カルロスをそのバンドに加えることを直ちに提案しビルは同意した。ジャムセッションでのカルロスのギター演奏とソロは、観客とビル双方の注目を集めた。

同年、カルロスは、ストリートミュージシャン仲間のDavid Brown (B)、Marcus Malone(Per)、グレッグ・ローリー (リードVo,H.Org)とともに「サンタナ・ブルース・バンド」(Santana Blues Band)を結成した。

 

 

1968年9月、アル・クーパーのライヴに参加。この時演奏されたジャック・ブルースのカヴァー

“ソニー・ボーイ・ウィリアムスン”(Sonny Boy Williamson)は、マイク・ブルームフィールド&アル・クーパー名義のライヴ・アルバム『フィルモアの奇蹟』(The Live Adventures of Mike Bloomfield and Al Kooper)に収録、カルロスの演奏が収録された初のレコードとなった。

 

 

1969年、コロムビア・レコードと契約し、バンド名を短く「サンタナ」(Santana)に改名した。

8月16日、 ウッドストック・フェスティバルの2日目に出演、“Persuasion”、“Soul Sacrifice”を演奏し、大きな話題となった。

 

8月30日、デビュー・アルバム『サンタナ』(Santana)発表、アルバム・チャートで4位に入るヒットとなった。アルバムからは“イヴィル・ウェイズ”(Evil Ways)が全米9位になるヒットとなり、“ジンゴー”(Jingo)も話題になった。

 

 

 

 

1970年、2ndアルバム『天の守護神』(Abraxas)が米誌『ビルボード』アルバム・チャートで1位を獲得。全米4位になった“ブラック・マジック・ウーマン”(Black Magic Woman)はロック・クラシックスとなり、“僕のリズムを聞いとくれ”(Oye Como Va)も全米13位のヒットとなった。

 

 

 

 

1971年、3rdアルバム『サンタナIII』(Santana III)では、当時17歳だったニール・ショーンが加入してツイン・ギター編成で制作され、2作連続で全米1位となった。アルバムからのシングルは "Everybody's Everything"が全米12位、"No One to Depend On" が全米36位となった。

 

 

 


1972年6月7日、カルロス・サンタナはソロとして、バディー・マイルズと共同名義でライヴアルバム『カルロス・サンタナ&バディ・マイルス!ライヴ!』(Carlos Santana & Buddy Miles Live!)をコロムビアからリリース。

10月11日、デイヴ・ブラウン、マイケル・カラベロといったオリジナル・メンバーの脱退を経て制作された4thアルバム『キャラバンサライ』(Caravanserai)発表、音楽的にはフュージョン色が強くなり、10曲中7曲がインストゥルメンタルという構成。全米8位・全英6位。

 

 

この後、大幅なメンバー・チェンジが起こる。新たにトム・コスターらが加入した。

 

 

1973年7月の大阪厚生年金会館での模様は、横尾忠則デザインのジャケットでも有名なライヴ盤『ロータスの伝説』(Lotus)に収録された。

 

 

1976年3月、7thアルバム『アミーゴ』(Amigos)を発表、全米10位。ジャケット・デザインは『ロータスの伝説』と同じく横尾が担当。“哀愁のヨーロッパ”(Europa [Earth's Cry Heaven's Smile])が日本で独自にヒット、“レット・イット・シャイン”(Let It Shine)は全米77位にチャートインした。

 

 

 

 

1977年10月、アルバム『ムーン・フラワー』(Moonflower)をリリース、全米10位。“シーズ・ノット・ゼア”(She's Not There)は全米27位・全英11位を記録し、日本でもヒットしている。 

 

 

 

1981年4月29日、アルバム『ジーバップ!』(Zebop!)をリリースし、全米9位のヒット作となる。シングル“ウィニング”(Winning)が全米17位のヒットとなった。

 

 

同年、グレッグ・ウォーカーが歌う次のアルバムからの先行シングル“ホールド・オン”(Hold On)も全米15位とヒットした。

 

 

1982年、アルバム『シャンゴ』(Shango)を発売。全米22位。

その後の作品はチャート上では低迷するが、バンドは活動を継続。

 

 

1987年2月、『フリーダム』(Freedom)では、過去にサンタナと共演したドラマー、バディ・マイルス(ジミ・ヘンドリクスとも共演)がヴォーカルを担当した。全米95位。

10月、ソロ・アルバム『サルバドールにブルースを』(Blues for Salvador)発表。タイトル曲がグラミー賞ベスト・ロック・インストゥルメンタル部門を受賞し、初のグラミー受賞となる。

 

 

1989年、ジョン・リー・フッカーのアルバム『ヒーラー』にゲスト参加。

 

 

1994年、実弟ホルヘ・サンタナ、甥のカルロス・ヘルナンデスとともに「サンタナ・ブラザーズ」(Santana Brothers)名義で同名アルバムを発表。

 

 

1998年、サンタナはロックの殿堂入りを果たした。

 

 

1999年、アリスタに移籍して発表したアルバム『スーパーナチュラル』(Supernatural)は、バンドにとって28年ぶりの全米1位を獲得し、アメリカだけで1500万枚、全世界で3000万枚以上を売り上げるという大復活となる。同作は、グラミー賞史上最多の9部門を受賞し、収録曲“スムース” (Smooth)は、ビルボードのHOT 100で12週連続1位を獲得、バンドにとって初の全米1位シングルとなり、続くシングル“マリア・マリア”(Maria Maria)も全米1位に達した。

 

 

 

 

2001年、カルロスがゲスト参加したマイケル・ジャクソンのアルバム『インヴィンシブル』発売。

 

 

2002年、アルバム『シャーマン』(Shaman)も全米1位を獲得、ミシェル・ブランチをゲストに迎えたシングル“ゲーム・オブ・ラブ”(The Game of Love)が全米5位、"Why Don't You & I"が全米8位とヒットしている。

 

 

 

 

2005年、アルバム『オール・ザット・アイ・アム』(All That I Am)をリリースし、全米2位。ミシェル・ブランチ&ザ・レッカーズが参加した“アイム・フィーリング・ユー”(I'm Feeling You)は、本作からの第1弾シングルとなり、全米55位に達した。

 

 

 

2007年10月16日、『Ultimate Santana』リリース。ヒットを続出したコロンビア時代、復活を果たしたアリスタ時代の代表曲を収録。全米8位・全英16位。同アルバムからは"Into the Night" (featuring Chad Kroeger)が全米26位となった。

 

 

2010年、カヴァーアルバム『ギター・ヘヴン〜グレイテスト・ロック・クラシックス〜』(Guitar Heaven: The Greatest Guitar Classics of All Time)、全米5位・全英15位。

 

 

2012年5月15日、アルバム『Shape Shifter』をStarfaithからリリース。全米16位。

 

 

2014年5月6日、自身初のスペイン語アルバム『コラソン』(Corazón)をRCA/Sony Latin Iberiaから発表。全米9位。

 

 

11月4日、回顧録『The Universal Tone: Bringing My Story to Light』出版(ISBN 978-0-31624-492-3)。

 

 

2016年4月15日、アルバム『サンタナIV』(Santana IV)は、RCAからリリース。『サンタナIII』に参加したメンバーのうち5人が再結集して制作された。全米5位・全英4位。

 

 

 

2019年6月7日、アルバム『Africa Speaks』をConcordからリリース、全米3位。

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「カルロス・サンタナ」「サンタナ(バンド)」「Carlos Santana」「Santana (band)」