テレサ・テン(中華圏名:鄧麗君〈デン・リージュン〉/出生名:鄧麗筠/1953年1月29日~1995年5月8日)は、台湾出身の歌手。
1953年1月29日、鄧麗筠が誕生。
父親は中国河北省邯鄲市、母親は中国山東省出身で、両親はともに1949年に中国本土での内戦に敗れた蔣介石とともに中華民国(台湾)に移った外省人である。
三人の兄と弟一人という男兄弟に囲まれて育った。
また、父親は元国民党軍の職業軍人であり、テレサ自身、後に軍隊への慰問活動を熱心に行っていたこともあり、「軍人の恋人」(中国語:軍中情人)というニックネームでも有名となる。
10歳の時、ラジオ局主催の歌唱コンテストで優勝。天才少女として注目を集め、14歳の時にプロ歌手としてデビューする。
16歳の時、主演映画が製作され、女優デビューを果たす。
その後、シンガポールやタイ、マレーシアでも人気に火が付き、18歳で香港でもレコードをリリース、アジアのトップスターとなる。
1973年、香港で舟木稔(後の彼女の所属レコード会社トーラスレコード社長)が、アジアでのテレサ・テンの人気に目を付け、足繁く台湾や香港に通ってテレサと両親を説得。当時勤めていた「日本ポリドール」(現ユニバーサルミュージック)との契約を実現させる。舟木は「日本の父さん」と呼ばれる。
1974年、21歳の時に日本での歌手活動を開始する。
3月1日、すでにアジアのスターだった彼女は、アイドル歌謡曲路線の“今夜かしら明日かしら”(作詞:山上路夫/作曲:筒美京平/編曲:高田弘)により鳴り物入りで日本デビューを果たす。だが売れ行きは思わしくなく、オリコン84位と不発に終わった。
7月1日、演歌歌謡曲路線に転向し、日本でのデビュー2作目となる“空港”(作詞:山上路夫/作曲:猪俣公章/編曲:森岡賢一郎)を発売すると、オリコン最高位29位ながらロングセラーとなり、累計80万枚を売り上げる大ヒット。第16回日本レコード大賞新人賞を獲得して日本でもトップ・スターの仲間入りを果たし、歌手活動も軌道に乗った。
10月21日、1stアルバム『空港/雪化粧』を発売、シングル“雪化粧”も同時発売した。
その後も香港を拠点に、台湾や日本などアジア各地を行き来する多忙な日々を送る。
1975年3月21日、4thシングル“女の生きがい”(作詞:山上路夫/作曲:平尾昌晃/編曲:森岡賢一郎)を発売、オリコン59位。
7月1日、5thシングル“夜の乗客”(作詞:山上路夫/作曲:井上忠夫/編曲:森岡賢一郎)を発売、オリコン72位。
1976年4月1日、自身初のカヴァー・アルバム(LP)『愛の世界』を発売。
6月1日、7thシングル“夜のフェリーボート”(作詞:山上路夫/作曲:井上忠夫/編曲:森岡賢一郎)を発売、オリコン85位。
1977年2月1日、8thシングル“ふるさとはどこですか”(作詞:中山大三郎/作曲:うすいよしのり/編曲:竜崎孝路)を発売、オリコン42位。
1979年2月、本来の中華民国のパスポートではなくインドネシアのパスポートで来日しようとしたため、旅券法違反で国外退去処分を受ける。当時、1972年の日中国交正常化の影響で、日本は中華人民共和国と国家の承認をし、中華民国とは国交断絶していたため、台湾のパスポートでは入国の際に非常に煩雑な手続きが必要だった。そこで彼女は、インドネシアのパスポートで「エリー・テン」という名前で入国していた。舟木稔によると、「当時の台湾の著名人(歌手や芸能人を含む)は、皆インドネシアのパスポートを所有していた」という。パスポート自体はインドネシア政府筋による正式なもので、決して偽造パスポートではなかった。そのため、事件としては白黒はっきりしないグレー決着となり、彼女は1年間の国外退去処分となった。
この事件で、日本だけでなく台湾からも非難の声が上がり、台湾当局は彼女の身柄の引き渡しを強く要求した。しかし舟木は、その要求に従えば数年間は歌手活動が出来なくなるだろうと考え、彼女をアメリカ合衆国に渡らせることにした。
1980年、事件から一年後、台湾政府への協力を条件に帰国を許された彼女は、中華民国国軍の広告塔として活動し、「愛國藝人」と呼ばれた。
そして、台湾での歌手活動も再開した。その後、再来日を果たすまで香港を活動の拠点にしていた。この頃『酔拳』を大ヒットさせていたジャッキー・チェンと米国で再会し、互いに思いを寄せるが、ジャッキーが人気に溺れ取り巻きの前で侮辱行為を働いたため、失望し彼から離れてしまう。ジャッキーは激しいショックを受けて目を覚ました。その後は親友となった。
1981年2月28日、12thシングル“ジェルソミーナの歩いた道”(作詞:門谷憲二/作曲:丹羽応樹/編曲:羽田健太郎)を発売。ポリドール・レコード(現ユニバーサルミュージック)発売の最後のシングルである。後の1985年、NHKホールにて開催された生前最後の単独公演では、テレサは真っ白なウェディングドレスに着替えてアンコールのステージに現れ、この曲を歌った。
1980年代初めには、中華人民共和国でもコピーされた彼女のカセットテープが出回るようになり、人々の心をつかんでいた。中でも特に人気だったのは、1930年代に中国で流行した“何日君再来”(ホーリーチュンツァイライ)(作詞:貝林/作曲:劉雪庵)のカヴァー。やがて彼女は、冗談交じりに「昼は鄧小平、夜は鄧麗君(テレサの中国語の芸名)が支配する」とまで言われるようになった。
1983年には、香港でデビュー15周年を記念したツアーを行い、10万人を動員。しかしその影響力を嫌がった中国共産党政府は、1983年頃にテレサの歌を放送禁止にした。それでも人々は、ダビングしたカセットテープを回したり台湾の放送をキャッチしたりして、その後も彼女の歌を密かに聴いていたという。中華圏のCDショップでは、現在でも1982-1984年頃の香港や台湾での公演の様子を収めたDVDがよく売られている。
10月21日、13thシングル“ふたたびの”(作詞:来生えつこ/作曲:TAI/編曲:杉村俊博)を発売、同年1月に小林幸子が発売したシングルのカヴァー。レコード会社もポリドールからトーラスレコード移籍、日本再デビュー第一弾シングル。
1984年、日本の音楽ファンの強い要望もあって、再来日が許可される。
1月21日、10thアルバム『つぐない』と、荒木とよひさ作詞・三木たかし作曲の同名シングル“つぐない”を同時発売すると、有線放送を通じてじわじわと人気に火が付いて、オリコン6位と大ヒット、日本で150万枚を売り上げ、日本有線大賞など数々の賞を受賞する。
1985年2月21日、シングル“愛人”も再び荒木・三木コンビが手掛け、“愛人”は有線放送のリクエストチャートで14週連続1位、オリコン10位と大ヒット。本作も日本で150万枚を売り上げた。
3月1日、アルバム『愛人』を発売。
12月、彼女のソロコンサートとしては最後となるが、最大規模の演出をこらしたNHKホールコンサートが開催される。この時の歌唱は彼女のライヴ公演の中でも最高の水準のものとして高い評価を得ている。
12月31日、『第36回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たし、“愛人”を歌唱した。
1986年2月21日、荒木・三木コンビによる三曲目となる“時の流れに身をまかせ”をリリース。これもオリコン6位と大ヒットとなり、200万枚を売る大ヒットとなる。テレサは1984年から1986年にかけ、「日本有線大賞」および「全日本有線放送大賞」の東西有線大賞で史上初の3年連続大賞・グランプリを受賞する快挙を達成した。
7月31日、12thアルバム『時の流れに身をまかせ』を発売。
同年、改革開放路線を進める中華人民共和国においてテレサの歌が事実上解禁されたことで人気が再燃。コンサートのオファーも届くようになり、同時期に米『タイム』誌によって世界7大女性歌手の1人に選ばれた。
11月21日、17thシングル“スキャンダル”(作詞:荒木とよひさ/作曲:三木たかし/編曲:佐孝康夫)を発売、オリコン69位。
12月31日、『第37回NHK紅白歌合戦』に2年連続出場を果たし、“時の流れに身をまかせ”を披露した。
1987年、住居を香港に移すのと同時に、日本以外での歌手活動をほとんど休止するようになった。
6月21日、18thシングル“別れの予感”(作詞:荒木とよひさ/作曲:三木たかし/編曲:林有三/ストリングス・アレンジ:服部克久)を発売、オリコン16位。日本有線大賞・有線音楽賞の2年連続受賞などまずまずの賞を受賞。後に国内外の歌手に数多くカヴァーされるなど、テレサの代表曲のひとつとなった。
7月5日、アルバム『別れの予感』を発売。
1988年1月25日、19thシングル“恋人たちの神話”(作詞:荒木とよひさ/作曲:三木たかし/編曲:平野孝幸)を発売、オリコン44位。
1989年5月27日には、かねてから中華人民共和国内で起きていた民主化要求デモを支援する目的で行われた、香港のハッピーヴァレー競馬場での中華人民共和国の民主化支援コンサートに参加。約30万人の前で、平和を願う“我的家在山的那一邊”(私の家は山の向こう)を歌い、亡命した民主化活動家とも交流を持った。
しかし彼女の願いはかなわず、北京で天安門事件が起きてしまった。翌1990年に予定されていた、彼女の夢であった両親の生まれた中国本土での初のコンサートも中止になった。当時、その心境を「夢は殺され 夢は見ることさえできなくなってしまった」と語っている。
7月26日、21stシングル“悲しい自由 (ニュー・ミックス・バージョン)”(作詞:荒木とよひさ/作曲:三木たかし/編曲:平野孝幸)を発売、オリコン99位。
同年、失意の中アジアを離れて、フランスのパリに単身移り住む。遠い欧州の地で彼女は中国への思いをさらに深めるようになる。
1990年以降は表舞台からも距離を置き、日本を訪れることも稀になった。
1991年12月31日、『第42回NHK紅白歌合戦』に、3度目、そして最後の出場を果たす。披露したのは、2度目の歌唱と
なる“時の流れに身をまかせ”であった。
1992年、中国で広く愛されている“夜来香”(イェライシャン)を新たにレコーディングする。
この頃、喘息を悪化させ、次第に体調を崩していく。
1993年5月12日、27thシングル“あなたと共に生きてゆく”(作詞:坂井泉水/作曲:織田哲郎)を発売、オリコン97位。メナード化粧品のイメージソングおよび企業CMソングにも起用された。プロデュースは吉江一男とともに長戸大幸が担当、さらに作詞はZARDの坂井泉水、作曲は織田哲郎が手掛けるなど、ビーイングが制作に携わり、テレサが生前最後にレコーディングに臨んだ作品となった。
1994年11月に放送されたNHK『歌謡チャリティーコンサート』(仙台市にて公開録画)が、日本での最後のテレビ出演となった。
1995年5月8日、静養のため度々訪れていたタイ王国チェンマイのメイピンホテルで気管支喘息による発作を起こし死去。42歳の若さだった。
部屋から出てきたテレサが倒れていたところをホテルの従業員が発見し、救急搬送されたが、普段は10分で着くところが道路事情の悪さで30分かかってしまい、搬送先のラム病院到着時には既に死亡していたという。
同月12日未明、テレサの遺体は、同国チェンマイ国際空港からタイ国際航空機(TG636便)で台北の中正(現:桃園)国際空港に搬送された。この時、空港には200人を超える報道陣と、陸海空三軍の儀仗兵らが出迎えた。そしてこの日、テレサの葬儀を行うための台湾政府葬儀委員会が発足した。
翌13日に中華テレビ局内に設置された霊堂に安置され、棺にはテレサの好んだ色である紫の布がかけられていた。そこにはテレサの肖像が掲げられ、堂内には彼女の歌声が途切れることなく流されていた。この礼拝所にはその日だけで2000人を超える人が足を運んだ。
同月28日に台北で国葬が執り行われ、世界各国から3万人ものファンが詰め掛けた。遺体には実弟が持っていたチャイナドレスが着せられ、また、彼女の棺は中華民国の国旗と国民党党旗で覆われ、台湾での国民的英雄ぶりがうかがえた。
墓所は台北市の北東に位置する新北市金山区の金宝山にあり、小さな公園のように整備され、本名の一字を取って「筠園」と呼ばれている。墓前には銅像があり、彼女の歌声が絶えず流されている。
1996年、テレサが1995年春にレコーディングする予定で作られた新曲“泣かないで”が、新人歌手によって歌われ、彼女を追悼した。
2001年、彼女の七回忌に当たるこの年、“泣かないで”が“忘れないで - time to say good-bye -”とタイトルを変え、アグネス・チャンと北原ミレイによって同時にレコーディングされ、追悼の意が表された。日本における発売元であるユニバーサルミュージックは、テレサの死後もCDやDVDを発表し、2008年5月時点で計200万枚を売り上げている。
2005年5月8日、没後10年目に当たるこの日には、日本をはじめとするアジア各国からファン300人ほどが墓所に詰めかけ、追悼集会を開いて生前のテレサ・テンを偲んだ。台湾での彼女はあまりにも偉大なので、遺体は火葬されず、エンバーミングなどを施されて土葬された。没後50年は生前の姿であり続ける。なお、台湾でこのような形で眠っているのは、蔣介石、蔣経国、テレサ・テンの3人である。
2009年8月、中華人民共和国政府系の総合インターネットサイト「中国網」が新中国建国60周年を前に行ったアンケート調査で、彼女は新中国で最も影響力のあった文化人に選出された。
2013年5月、中国・北京でテレサ・テン生誕60周年記念コンサート「追夢」が行われ、中国や台湾から集まった人気歌手たちが彼女の歌を歌った。
2015年5月23日「テレサ・テン(鄧麗君)メモリアルコンサート〜 没20年追悼チャリティ音楽会〜」が渋谷公会堂で行われた。3Dホログラム映像でテレサ・テンの中国語版「時の流れに身をまかせ」「月はわが心」の2曲が再現された。
同年9月15日に台湾の郵政当局が没20周年を記念とした切手冊子を発売。
2020年5月13日、ユニバーサルミュージックから発売された『永遠の歌姫 テレサ・テン ベスト&カラオケ』が最新のベストアルバム。因みに、オリジナルアルバムやライヴ盤などを除いたベストアルバムだけで数えて185枚目である。
(参照)
Wikipedia「テレサ・テン」
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