レッドベリー(Leadbelly または Lead Belly/本名:Huddie William Ledbetter /1888年1月23日~1949年12月6日)は、アメリカ合衆国のフォークとブルーズのシンガーソングライター、ギタリスト。

 

 

 

1888年1月23日にハディ・ウィリアム・レッドベターは生まれたとされている。だが、彼の誕生年はずっと議論の的になっており、最も早い説では1885年生まれと言われ、他のソースでは1888年か1889年のどちらかとも言われる。1900年の人口調査によると、ハディはテキサス州ハリソン郡第2判事管区の、ウェスとサリー(ブラウン)・レドベリー夫婦の、二人の子どものうちの一人となっている。ウェズリーとサリーは1888年2月26日に法律上結婚し、すぐ後にレッドベリーが誕生し、さらに数年間彼らは夫婦としてともに暮らした。1900年の人口調査は、通常の国勢調査に記載されている誕生の年月どころか年齢とも異なっており、「Hudy」・レッドベターの誕生年を1888年、誕生月を1月としている。ハディの年齢は12歳と記されている。1910年と1930年の人口調査も誕生年として1888年としている。本稿ではこれに準じた。
彼の誕生の日付けもまた議論されている。最も一般的な日付けは1月20日とされているが、他のソースは1月21日または29日に生まれたと示唆している。レッドベター彼自身に関する唯一の書類は彼の第二次世界大戦の徴兵登録で、そこには1889年1月23日と記述されている。

そんなハディ・ウィリアム・レッドベターは、アメリカ合衆国ルイジアナ州ムアリングズポート(Mooringsport)近くのプランテーションで生まれた。

5歳の時、家族とともにテキサス州リーへ引っ越した。

 

 

1903年の時点で、レッドベターは既に多少名の知れたシンガー兼ギタリストであった。彼はルイジアナ州シュリーブポート近郊にある、街の悪名高い「赤線地区」セントポールズ・ボトムの聴衆の前で演奏した。

彼はボトムのサロンの列、売春宿、ダンスホールのあるシュリーブポートのファニン通りで、様々な音楽を人前で演奏し、やがて独自のスタイルを追求し始めた。

 

1908年、レッドベターは最初の妻のアレサ・"レテ"・ヘンダーソンと結婚。人口調査時点の年齢から計算すると、アレサは結婚時15歳であった。

1910年に行われた人口調査の時点で公式にはまだ「Hudy」と記録されていたレッドベリーは、彼の両親の家の隣に、17歳の妻アレサ・"レテ"・ヘンダーソンとともに住んでいた。彼の叔父から受け取ったレッドベターの最初の楽器アコーディオンもそこにあった。

 

20代前半までに、彼は少なくとも二人の子どもの父となった。

その後、ギタリストを主に、時折労務者として生きるために家を出た。

 

1917年にはブラインド・レモン・ジェファーソン (Blind Lemon Jefferson/1893年9月24日-1929年12月19日) と出会うなど、ブルーズの薫陶を受けながら楽曲制作を続けた。

だが、レッドベターは高慢な気質を持ち、また時々もめ事を好むところがあったため、しばしば法に触れる問題に巻き込まれた。

 

1918年1月、レッドベターは親戚のウィル・スタフォードを喧嘩で殺害した後、刑務所での服役を受けた。彼はテキサス州シュガーランドで投獄され、そこで彼の代表曲のひとつ“Midnight Special”のインスピレーションを受けた。

 

 

1925年、自身の釈放を懇願するために書いた曲が、パット・モリス・ネフ(Pat Morris Neff)知事の好みに合ったため、35年の刑罰から2年で釈放されたと言われている。レッドベターは彼の強い宗教的な価値観をアピールする事でネフ知事を揺るがし、刑務所内での模範的な振る舞いと組み合わせて釈放された。もっとも州知事の側は曲の影響を否定し、あくまでレッドベリーの刑務期間中の振る舞いが早期出所の理由だと主張しているという。


1930年、レッドベターは殺人未遂罪で刑務所に戻って来て、この時はルイジアナに収監された。

レッドベターは刑務所にいる時に、初めて彼の有名なあだ名である、「レッドベリー」(Leadbelly または Lead Belly)を、彼のラストネームと、彼の身体のタフさをもじって仲間の囚人からつけられた。

彼の2回目の刑期の間、囚人のひとりが彼の首を突き刺そうとした時(彼に傷跡を残した)、彼はナイフを奪い返して順番に襲った者を殺そうとした。彼はこのあだ名をレコーディングの時に匿名として用いて、それ以降この名前が定着した。

 

 

1933年、収監されてから3年後、音楽活動を本格的に始めてから30年に当たるこの時、彼は民族学者のジョン・ローマックスとその息子アラン・ローマックスがアンゴラ刑務所を訪問した際に「発見」された。ローマックス親子は、米国議会図書館のために伝統音楽を保存するプロジェクトとして、南部の様々な地元音楽を録音していた。これは大恐慌時代に行われた数多くの文化プロジェクトの一つであった。この時に録音された楽曲の中に、“おやすみアイリーン”の邦題でも知られる“Goodnight Irene”がある。本楽曲は20世紀に作られたアメリカ合衆国のフォークソングのスタンダード・ナンバーで、4分の3拍子で書かれており、最初に録音したのは同年のレッドベリーであった。

8月、ロマックス親子がルイジアナ州知事のO・K・アレン(Oscar K. Allen)に早期釈放を陳情し、レッドベリーはもう一度放免された。


 

1934年後半、ロマックス親子に借りを作り、レッドベリーはアラン・ロマックスの世話になってニューヨークシティへともに移住、そこで名声を得ることはできたが、富は得られなかった。

 

 

1935年、彼はマーサ・プロミスと結婚し、ARCレコーズで録音を始めた。しかし、これらのレコードで商業上の成功はあまり得られなかった。セールスが不十分だった理由のひとつとして、ARCレコーズはレッドベリーがよく知っているフォークよりも、ブルーズを録音した方がよいと主張したことが挙げられている。

同年、シングル"All Out and Down"/"Packin' Trunk"、"Four Day Worry Blues"/ "New Black Snake Moan"、“C.C.Rider”、“When I Was a Cowboy”を発表。“C.C.Rider”は“See See Rider”のタイトルでも知られる。

 

 

 

 

 

 

 

1936年、シングル"Becky Deem, She Was a Gamblin' Girl"/"Pig Meat Papa"をリリース。

 

 

 

1939年、アルバム『Negro Sinful Songs』をMusicraftからリリース。

 

同年、彼は脅迫の罪名により再び刑務所に入り服役した。

 

1940年の釈放後、レッドベリーはブームとなっていたニューヨークのフォークシーンに戻り、ウディ・ガスリーや若いピート・シーガーたちの助けとなった。当時最大のレコード会社のひとつであったRCAをはじめ、議会図書館、そしてムー・アッシュで5年間録音した。

6月15・17日、RCAでの最初のセッションは、ゴールデン・ゲート・カルテットがいくつかの曲で伴奏を行い、カリフォルニアにて実施。レコーディングの結果、アルバム『ザ・ミッドナイト・スペシャル・アンド・アザー・サザン・プリズン・ソングス』(The Midnight Special and Other Southern Prison Songs)がビクター・レコードから発売された。アルバムには、アラン・ロマックスが作成した広範なメモと曲のテキストが記載されたシートが含まれていた。チャールズ・ウルフとキップ・ローネルによれば、「これはリードベリーの音楽を公に発表した最高の作品の一つだった。よく録音され、よく宣伝され、十分に記録された。そしてこのアルバムは、アフリカ系アメリカ人の民族音楽のランドマークとしての評判を正当化した。」という。これらのセッションの録音のいくつかは、ブルーバード・レコードからシングルとしてもリリースされた。

同年、シングル"Sail On, Little Girl, Sail On"/"Don't You Love Your Daddy No More?"、"Alberta"/"T.B. Blues"、"Easy Rider"/"Worried Blues"、“Midnight Special”、“The Gallows Pole”を発表。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1941年、リード・ベリーは共通の友人によってモーゼス・“モー”・アッシュに紹介された。アッシュはレコーディング・スタジオと小さなレコード レーベル「Asch」を所有しており、主に地元のニューヨーク・シティのマーケットに向けてフォークのレコードをリリースしていた。彼は後にフォークウェイズ・レコードを設立した。

1941~1944年、リード・ベリーはアッシュ・レコーディングス・レーベルから3枚のアルバムをリリースした。

同年、アルバム『Play Parties in Song and Dance』をAschからリリース。

同年、シングル"Roberta"/"The Red Cross Store Blues"、"New York City"/"You Can't Lose-a Me Cholly"、"Good Morning Blues"/"Leaving Blues"をリリース。

 

 

 

 

 

 

 

1940年代前半、リード・ベリーは 米国議会図書館向けにも録音された。

 

 

1942年、アルバム『Work Songs of the U.S.A.』をAschからリリース。

同年、シングル"I'm on My Last Go-Round"をリリース。

 

 

1944年、彼はカリフォルニアへ向かい、キャピトル・レコーズで力強いセッションを録音した。彼はローレル・キャニオンのメリーウッド・ドライブにあるスタジオのギタリストと下宿した。 その後、彼はニューヨーク市に戻った。

同年、アルバム『Songs by Lead Belly』をAschからリリース。

同年、シングルは、“おやすみアイリーン”の邦題でも知られる“Goodnight Irene”、“Where did you sleep last night”を発表。なお、“Where did you sleep last night”はニルヴァーナが『MTVアンプラグド』で演奏したことでも知られる。

 

 

 

1945年、シングル"Rock Island Line"/"Eagle Rock Rag"をリリース。

 

 

 

1946年、アルバム『Negro Folk Songs』をDiscからリリース。

同年、シングル"Yellow Gal"/"When the Boys Were on the Western Plain"、"Roberta"/"John Hardy"、"Where Did You Sleep Last Night?"/"In New Orleans"、"Bill Brady"/"Pretty Flowers in Your Back Yard"、"Easy Rider"/"Pigmeat"をリリース。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1947年、ウディ・ガスリー(Woody Guthrie)とシスコ・ヒューストン(Cisco Huston)をフィーシャーしたアルバム『Midnight Special』をDiscからリリース。

同年、シングル"Sweet Mary Blues"/"Grasshopers in My Pillow"、“Cotton Fields”を発表。

 

 

 

 

1948年、シングル"Irene"/"Backwater Blues"、"Digging My Potatoes"/ "Defense Blues"、“Bourgeoise Blues”、“House of the Rising Sun”を発表。“House of the Rising Sun”は後にジ・アニマルズ(The Animals)にカヴァーされ、“朝日のあたる家”の邦題で知られた。

 

 

 

 

 

 

 

1949年、レッドベリーはニューヨークのWNYC局で日曜の夜にヘンリエッタ・ユルチェンコの番組で放送されるレギュラーラジオ番組『フォーク・ソングス・オブ・アメリカ』を持っていた。

同年後半、彼はフランスへの旅行で最初のヨーロッパ・ツアーを開始、好評を博し、欧州で成功を収めた最初の米国人カントリー・ブルーズ・ミュージシャンとなった。

だが、レッドベリーはツアー終了前に病気になった。診察を受けたところ、筋萎縮性側索硬化症 (amyotrophic lateral sclerosis/略称:ALS) またはルー・ゲーリッグ病 (運動ニューロン疾患) と診断された。

彼の最後のコンサートは、前年に亡くなった元指導者ジョン・ローマックスへの追悼として、テキサス大学オースティン校で行われた。マーサもそのコンサートに出演し、レッドベリーとともに霊歌を歌った。

 

 

 

 

1949年12月6日、レッドベリーの名で知られたハディ・ウィリアム・レッドベターは、アメリカ合衆国のニューヨークシティで死去した。61歳没。

 

 

 

 

彼はルイジアナ州カドー郡ブランチャードの西8マイル (13 km)、カドー教区のルイジアナ州ムーリングスポートにあるシャイロ・バプテスト教会の墓地に埋葬された。

シュリーブポートのカドー教区裁判所の向かいには、レッドべリーの銅像が建立されている。

 

 

1976年、レッドベリーの映画がアメリカ合衆国内で公開。

 

 

1988年にロックの殿堂入り。

 

 

1989年、アルバム『Leadbelly Sings Folk Songs』をスミソニアン・フォークウェイズ(Smithsonian Folkways)からリリース。

 

 

1991年、アルバム『Midnight Special』、『Gwine Dig a Hole to Put the Devil In』、『Let It Shine on Me』をリリース。

 

 

1994年、アルバム『The Titanic』、『Nobody Knows the Trouble I've Seen』がリリース。

 

 

1994年、CD4枚組BOXセット『Lead Belly's Last Sessions』をスミソニアン・フォークウェイからリリース。ニューヨークで1948後半に、商業業目的では唯一磁気テープで録音された音源を収録。

 

 

1995年、アルバム『Go Down Old Hannah』がリリース。

 

 

1996年、モーゼズ・アッシュ(Moses Asch)のため1941~1947年に録音した音源が、1996年『Where Did You Sleep Last Night, Lead Belly Legacy, Vol. 1』、1997年『Bourgeois Blues, Lead Belly Legacy, Vol. 2』、1998年『Shout On, Lead Belly Legacy, Vol. 3』の3シリーズとして、スミソニアン・フォークウェイズからリリース。

 

 

 

1999年、アルバム『Lead Belly Sings for Children』をスミソニアン・フォークウェイズからリリース。

 

 

2008年にルイジアナ音楽の殿堂入りを果たした。

 

 

2015年、アルバム『Lead Belly: The Smithsonian Folkways Collection』をリリース。

 

 

2018年、レッドベリーに魅了されたアダム・ナスバウムがジャズ・ミュージシャンの視点から彼の音楽を再構築した『Leadberry Project』をリリース、引き続き2020年には『Lead Berry Reimagined』をリリースした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「レッドベリー」「Lead Belly」

 

 

 

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