ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms/1833年5月7日~1897年4月3日)は、

ドイツの作曲家、ピアニスト、指揮者。

 

 

 

1833年5月7日、ヨハネス・ブラームスはハンブルクで誕生。彼に最初の音楽教育を行った父は、市民劇場のコントラバス奏者だった。後年ブラームスが語った話によると、家の表札には「Brahmst」(ブラームスト)と書かれていたというが、子どもの頃から「ブラームス」と頭に刷り込まれていたヨハネスは最後の「t」が嫌で、表札をしょっちゅう指でこすり、しまいには消してしまった。そのせいで父に届いた親方献呈合格証は「ブラームス」と書かれたものになった。彼曰く「親父がtを取るように、少しずつ慣れさせたんだよ」この話が冗談なのか実話なのかは不明だが、実際に「Brahmst」と書かれた1849年4月14日の「音楽の夕べ」のプログラムが残っている。

7歳の時、オットー・フリードリヒ・ヴィリバルト・コッセルにピアノを学ぶようになる。10歳の時、ブラームスはピアノの早熟な才能を見せ、初めてステージに立った。この時彼の演奏を聴いた米国の興行師がアメリカ演奏旅行を提案した。両親は賛成したが、コッセルはこれに反対し、より高度な音楽教育が受けられるよう、コッセルの師である作曲家でピアニストのエドゥアルト・マルクスゼンに師事させた。だがブラームスの生家は貧しかったため、13歳頃からレストランや居酒屋でピアノを演奏して家計を支えた。ブラームス自身はピアニストとして確かな腕を持っていたが同時代の名手と比べると地味な存在であり、後に作曲に専念するとほぼ演奏活動からは手を引く。ただし1859年と1881年、例外的に『ピアノ協奏曲第1番』と『ピアノ協奏曲第2番』の初演を自ら行っている。

マルクスゼンに師事し始めた頃からブラームスは作曲を始めたものの、この時期の作品は厳しい自己批判のため破棄されており現存しない。

 

1853年、ハンガリーのヴァイオリニスト、エドゥアルト・レメーニ(Eduard Remenyi / 1830年1月17日~1898年5月15日)とドイツ各地に演奏旅行へ行き、彼からジプシー音楽(ロマの民族音楽)を教えてもらったことが創作活動に大きな影響を及ぼした。この旅行で2人はハンガリー出身のバイオリン奏者で指揮者、作曲家のヨーゼフ・ヨアヒム(Joseph Joachim/1831年6月28日-1907年8月15日)に会いに行き、ヨアヒムはブラームスの才能を称賛した。ブラームスもヨアヒムに敬意を抱き、2人の親交は以後も長年にわたり続いた。

次いでヨアヒムの勧めで2人はハンガリー出身のフランツ・リスト(Franz Liszt/1811年10月22日~1886年7月31日)に会いにヴァイマールへ行ったが、後にワグナーと接近するリストとはそれほどうまくいかなかった。ここでブラームスとレメーニは仲たがいを起こし、ブラームスはヨアヒムの元に戻った。

ヨアヒムら友人たちは、ベートーヴェンやシューベルトらのロマン的後継者として位置づけられるロベルト・シューマン(Robert Schumann/1810年6月8日-1856年7月29日)に会うことを強く勧める。

同年9月30日、二十歳のブラームスはヨアヒムの紹介状を携えて、デュッセルドルフのシューマン邸を訪ねた。
この出会いは両者にとって幸福なものだった。シューマンはブラームスの演奏と音楽に感銘を受け、『新しい道』と題する評論を『新音楽時報』に発表してブラームスを熱烈に賞賛し、「若き鷲」と呼んだ彼の作品を広める重要な役割を果たす。ブラームスもまたシューマンを終生尊敬した。またこの時、ブラームスは14歳年上のピアニストでシューマンの妻クララ・シューマン(Clara Josephine Wieck-Schumann/1819年9月13日-1896年5月20日)と知り合い、生涯に渡って親しく交流を続けることになった。

12月17日、『ピアノソナタ第1番 ハ長調』(作品1)を、ライプツィヒのゲヴァントハウスでブラームス自ら演奏し初演。この際ベルリオーズがこの曲の演奏を聴き、高く評価している。出版はそれに合わせて、シューマンの紹介でブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から。友人のヨーゼフ・ヨアヒムに献呈された。シューマンは当初別の作品を作品1として出版することを提案していたが、ブラームスは自信作である本作を作品1に選んだ。

 

同年、『ピアノソナタ第2番 嬰ヘ短調』(作品2)を発表。前述の通り実際は本曲が最初に完成した曲で、『ピアノソナタ第1番 ハ長調』同様、初演で自らピアノを演奏した。

 

 

1854年2月、既に精神疾患に悩まされていたシューマンは投身自殺未遂を起こし、ボン近郊の療養施設に収容された。ブラームスはこれを聞くとデュッセルドルフに駆けつけ、シューマン家の家政を手伝い一家を助けた。こうした中、ブラームスとクララの距離は近づき、1855年ごろのクララへの手紙の中では彼女のことを「君」と表現するなど、恋愛に近い関係になったと思しき時期もあった。

 

 

1856年7月29日、シューマンが死去。彼を強く尊敬するブラームスは、親しくなったクララと結婚することはなかったが、シューマン一家とは生涯にわたり親交を続けた。

 

 

1857年にはリッペ=デトモルト侯国に音楽家として招かれ、1859年まで3年間にわたり秋から年末にかけてデトモルトの侯国宮廷で勤務した。

 

 

1858年、アガーテ・フォン・ジーボルト(Agathe von Siebold/いわゆる「シーボルト事件」で著名なフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの従弟の子に当たる)と婚約したが、翌1859年には「結婚には踏み切れない」との理由で一方的に破談にしている。

 

 

1859年1月22日、『ピアノ協奏曲第1番 ニ短調』(作品15)がハノーファーにて、ブラームス自身の独奏ピアノ、ヨーゼフ・ヨアヒムの指揮により初演。完成は1957年。

 

 


1862年にウィーンを初めて訪れた後、ブラームスはウィーン・ジングアカデミーの指揮者としての招聘を受けウィーンに居住。

作品が人気を博して財政的成功を手に入れた後も質素な生活を好み、3部屋のアパートに家政婦と住んでいた。朝はプラーター公園を散歩し、昼には「赤いはりねずみ」(Zum roten Igel)というレストランに出かけるのが彼の習慣だった。

 

 

1865年、ピアノ五重奏曲(作品34)が出版された。

 

同年には母が死去、1872年には父が死去している。

 

 

1868年7月、ボンにて友人のベルタ・ファーバー(Bertha Faber)に次男が生まれたことを記念して『子守歌』(Wiegenlied/作品49-4)を作曲。本曲は日本では『ブラームスの子守歌』として親しまれる。ファーバーはハンブルクでブラームスが指導していた女声合唱団の一員で、特に親しかったと伝えられる。同年中に『5つの歌曲』(作品49)のうちの一曲として出版され、初演は翌1869年12月22日にウィーンで、ルイーズ・ドゥストマン(Louise Dustmann)とクララ・シューマンによって行われた。

※本作は歌曲だが、映像はメロディの美しさが際立つインストゥルメンタルを選択した。

 

同年、『4つの歌曲』(作品43)を出版。第1曲“永遠の愛について”(Von ewiger Liebe / 43a)、第2曲“5月の歌”(Die Mainacht / 43b)を含む。

 

 

 


1869年、『ハンガリー舞曲集』第1集・第2集を発表。1980年には第3集・第4集を発表。ブラームスがハンガリーのジプシー(ロマ)音楽に基づいて編曲した舞曲集で、自作ではなく伝統音楽の編曲にすぎないとして、作品番号は付けていない。全部で21曲ある中で、管弦楽用に他者によって再編曲された第5番(曲自体はケーレル・ベーラのチャールダーシュ "Bártfai emlék" による)が特に有名である。

 

 

 

同年、ブラームスの作曲家としての評価を確立させたとも言える『ドイツ・レクイエム』(Ein deutsches Requiem/作品45)が初演。この曲が構想されたきっかけは、1856年に恩人ロベルト・シューマンが死去したことだったという。1857-59年には早くも現在の第2楽章を完成させるが、そこからは進まなかった。転機となったのが1865年の実母の死で、これがブラームスに曲の制作を急がせることとなった。初演1年前の1868年4月10日、ブレーメンで第5曲を除く全曲を自らの指揮で演奏し、成功を収めた。同1968年に全7曲構成で完成するが、一般的なレクイエムの祈祷文ではなく、ルターによる『旧約聖書』および『新約聖書』のドイツ語訳から編集された。

 

 

同年までにブラームスは活動の本拠地をウィーンに移すことを決める。

 

 

1870年、『アルト・ラプソディ』(Alt-Rhapsodie/作品53)が初演、クララ・シューマンの親友ポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルドが独唱を担当した。アルト独唱と男声合唱および管弦楽のためにブラームスが1869年に作曲した作品で、ゲーテの詩『冬のハルツ紀行』(Harzreise im Winter)に曲付けされており、本来の題名は『ゲーテの「冬のハルツの旅」からの断章』(Fragment aus «Harzreise im Winter»)であるが、アルト独唱に焦点が置かれているため通称『アルト・ラプソディ』が広く認知されている。

 

 

1871年、カールスガッセ4番地へと移り住んだ。

 

 

1873年、『ハイドン変奏曲』との呼称で広く知られている『ハイドンの主題による変奏曲』(Variationen über ein Thema von Haydn)を作曲。先に2台ピアノ版(作品56b)、次に管弦楽版(作品56a)が完成した。

 

 

1876年、ウィーン移住からおよそ10年後、19年の歳月をかけた『交響曲第1番』を完成させた。この作品は後に指揮者のビューローをして「ベートーヴェンの10番目の交響曲のようだ」と語らしめた。

 

 

 

1877年、完成まで時間がかかった『交響曲第1番』に比べ、それ以降の交響曲は比較的短い間隔で書き上げられ、第1番から間もないこの年、『交響曲第2番』を発表。

 

同年、奨学金審査のためにアントニン・ドヴォルザーク(Antonín Dvořák/1841年9月8日-1904年5月1日)が提出した『モラヴィア二重唱曲集』を、審査員を務めていたブラームスが目をとめ、懇意にしていた出版社ジムロックに紹介した。これ以降、ブラームスとドヴォルザークは互いを訪問し合うなど交流を深めた。

 

無愛想で皮肉屋だったことで知られるブラームスだが、同時代の作曲家でウィーン出身のヨハン・シュトラウス2世(Johann Strauss II / 1825年10月25日-1899年6月3日)と親交があり、互いに作曲家として敬い合うとともに、作品の良き理解者だった。

その一方で、当時ベートーヴェンの正統な後継者と称えられたブラームスを筆頭に、音楽的に保守的であり、バッハ、ベートーヴェンなどのドイツ伝統音楽を模範とするブラームス派は、「未来の音楽」を標榜する進歩派であったリヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner / 1813年5月22日-1883年2月13日)やアントン・ブルックナー(Anton Bruckner / 1824年9月4日-1896年10月11日)、フランツ・リスト等とはそりが合わなかった。しかも、ブラームス派は自由主義者で親ユダヤ的であったが、他方でブルックナー派はドイツ民族主義と反ユダヤ主義と結びついていた。

 


1878~1893年、ブラームスは8回イタリアを訪問し、気持ちの良い地方を探して夏の間に作曲した。

 

 

1879年1月1日、『ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 』(Violinkonzert D-Dur/作品77)が、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスにて、ヨーゼフ・ヨアヒムの独奏、ブラームス指揮のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団により初演を迎えた。

 

 

1883年、『交響曲第3番』を発表。

 

 

1885年、『交響曲第4番』を発表。これがブラームス最後の交響曲となった。

 

 

1888年2月、ブラームスはウィーン国立音楽院で、個人秘書で音楽学者のオイゼビウス・マンディチェフスキとともに、グスタフ・イェナー(Gustav Jenner/1865年12月3日-1920年8月29日)を1895年まで指導。ブラームスは唯一の弟子イェナーの習作に対して容赦ない批判を浴びせたものの、彼の懐具合を大変心配し、ウィーン楽友協会の秘書に任命したり、1895年にはマールブルク大学の音楽監督兼指揮者に就任できるように掛け合った。イェナーはその後、ブレスラウやベルリンなどからもっと名誉のある地位が提供されたものの、それらを断ってマールブルク大学に留任し続けた。

 

 

1889年12月2日、トーマス・エジソンの代理人の依頼で『ハンガリー舞曲第1番』とヨーゼフ・シュトラウスのポルカ・マズルカ『とんぼ』を蓄音機に録音した。これは史上初の録音(レコーディング)とされている。ブラームスはこの時のピアノ演奏で、初めて自身の老いを自覚したと言われる。

 

 

1890年、57歳になり意欲の衰えを感じたブラームスは作曲を断念しようと決心して遺書を書き、手稿を整理し始めた。

この頃、琴の演奏も聴いており、当時出版された日本の民謡集の楽譜に書き込みが残されている。

 

 

1891年、クラリネット奏者リヒャルト・ミュールフェルトの演奏に触発されてブラームスは創作意欲を取り戻し、『クラリネット三重奏曲』(作品114)、『クラリネット五重奏曲』(作品115)を書き上げ、さらに1994年には2つの『クラリネット・ソナタ(ヴィオラ・ソナタ)』(作品120)を書き上げた。

 

 

 

 

1992年、『7つの幻想曲』(作品116)、『3つの間奏曲』(作品117)を作曲。これらに続く『6つの小品』と『4つの小品』までの4つのピアノ小品集、さらに『4つの厳粛な歌』等の作品は、晩年の寂寥と宗教的境地に満ちている傑作として評価が高い。

 

 

 

1893年、『6つの小品』(作品118)が完成。

12月、ピアノ独奏のための小品集として作曲した『4つの小品』(Vier Klavierstücke / 作品119)を出版。ブラームスが作曲した最後のピアノ独奏作品であり、また生前に出版された最後の曲集となった。

 

 

 

1896年5月7日、バスとピアノのための連作歌曲集『4つの厳粛な歌』(Vier ernste Gesänge/作品121)を、自身が迎えることのできた最後の誕生日に書き上げた。初演は同年9月9日にウィーンで行われ、列席していたブラームスは「完璧に(自分の)意図を理解していた」と称賛したと伝えられる。同年中に出版され、友人マックス・クリンガーに献呈された。

 

 

5月20日、生涯親交を保ち続けたクララ・シューマンが脳出血のため死去。

その後、ブラームスの体調も急速に悪化してゆく。

10月11日、アントン・ブルックナーが死去。ワグナーの影響を受けたブルックナーとは反目することも多かったが、同じウィーンに住む音楽家同士、交流があった。

 

 

1897年4月3日、ヨハネス・ブラームスは肝臓癌によりウィーンで逝去した。63歳没。

4月6日、ウィーン市の中心部ドロテーア通りにある、ルター派のオーストリア福音主義教会アウクスブルク信仰告白派のルター派シュタット教会で葬儀が行われた。遺体はウィーン中央墓地に埋葬された。ハンブルクの生家は長く残っていたが、1943年7月のハンブルク空襲で焼失し、現在は記念碑がある。

 

 

 

 

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(参照)

Wikipedia「ヨハネス・ブラームス」「Johannes Brahms」

 

 

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