ティト・プエンテ(Tito Puente/本名:Ernest Anthony Puente Jr./1923年4月20日~2000年5月31日)は、アメリカ合衆国のラテン音楽ミュージシャン、作曲家、編曲家、バンドリーダー。

 



 

1923年4月20日、エルネスト・アントニオ・プエンテ・ジュニアは、プエルトリカンの両親に生まれ、ニューヨーク市マンハッタン北東部のヒスパニック居住区(スパニッシュ・ハーレム)で少年時代を過ごした。

スペイン語では息子のことを「-ito」(―ィート)と呼び、プエンテは「エルネスティート」の「ティート」から「ティト」の愛称で呼ばれるようになった。

人種的アイデンティティはプエンテにとって非常に重要であり、彼は米国で生まれたにもかかわらず、アクセントを直すことは終生なかった。

 

 

13歳の時、プエンテはラモン・オリベーロの楽団に加入しデビューする。

また、その後マチート(Machito/1912年2月16日~1984年4月15日)、ホセ・クルベーロ、ノロ・モラレスの楽団に参加している。

 

 

1942年にプエンテは徴兵され、第二次世界大戦中に3年間、海軍に従軍。護衛空母USSサンティー(CVE-29)で9回の戦闘を経験した後、Presidential Unit Citationの栄誉を受けて退役した。

除隊後、退役軍人に様々な手当てを提供する制度(GIビル)により、プエンテはジュリアード音楽学校で音楽を学び、指揮、オーケストレーション、理論の正式な教育を修了した。

 

その後、音楽界での活動を開始。

 

1948年に自己のグループ「ピカデリー・ボーイズ」(Piccadilly Boys)を結成。これは後に「プエンテ楽団」となった。

 

デビューから1950年代初めのプエンテ楽団には、エディ・パルミエリの兄、チャーリー・パルミエリや、マニー・オケンドが参加している。このように、自らの楽団などで多くの後進を育てたこともプエンテの功績として挙げられる。

 

1950年代、プエンテは人気の絶頂期にあり、アフロキューバとカリブ海のサウンドをマンボやチャチャチャのようにメインストリームの聴衆に届けるのに寄与した。

人気のあるアフロキューバのリズムを演奏することに成功した点や、マンボ・ブームをともに牽引したペレス・プラード(Pérez Prado/1916年12月11日~1989年9月14日)がキューバ出身であることから、多くの人がプエンテをキューバ人だと勘違いしたが、実際にはニューヨーク市で生まれた生粋のニューヨーカーである。

また、プエンテは、元々リズムを支える地味な打楽器だったティンバレス(Timbales) を前面に出すことで、ラテン音楽の主役楽器に押し上げた。この功績をもって、「ティンバレスの王様」(El Rey Del Timbal )とも称される。

 

 

1956年、アルバム『Cuban Carnival』をリリース。

 

 

 

 

1958年、アルバム『ダンスマニア』(Dance Mania)をリリース、おそらくプエンテの最も有名なアルバムとなった。

 

 

 

 

 

1959年、アルバム『Mamborama』をリリース。

 

 

 

1962年、アルバム『Vaya Puente』をリリース。

 

 


1963年、プエンテの代表曲“僕のリズムを聞いとくれ”(Oye Como Va)をリリース。

同曲は1970年、ラテン・ロック・バンド「サンタナ」(Santana)がカヴァーし、全米13位のヒットとなった。これによりラテン世界以外にも広く知られるようになり、さらに後にはフリオ・イグレシアス、イラケレ、セリア・クルースなどによってもカヴァーされた。

プエンテは“僕のリズムを聞いとくれ”について、ライヴで「サンタナの曲をやってくれと言われるんだ」とジョークを飛ばし、観客を笑わせていたという。

 

 

1965年、 La Lupeとの共作アルバム『Tito Puente Swings, The Exciting Lupe Sings』をリリース。

 

 

 

1971年、アルバム『Pa'lante! Straight!』をリリース。

 

 

 

1978年、アルバム『Homenaje A Benny More』をリリース。

 


1983年、アルバム『On Broadway』をリリース。

 

 


1992年、ライヴアルバム『Live At The Village Gate』をリリース。

同年、国会議事録に登録される。

 

 

1993年、彼はスミソニアンからジェームズ・スミソン・バイセンテニアル・メダルを受け取った。

 

 

1995年、米誌『ビルボード』の「ラテンミュージック生涯功労賞」を受賞。

 

 

2000年5月31日、プエルトリコでショーを行った後、プエンテは大規模な心臓発作を起こし、心臓弁を修復する手術のためにニューヨーク市の病院に緊急搬送された。

 

6月1日午前2時27分、ティト・プエンテこと、エルネスト・アントニオ・プエンテ・ジュニアは、合併症により、ニューヨーク州ニューヨーク市で死去。77歳没。

 

ティト・プエンテは生涯現役として精力的な演奏活動を続け、死の直前まで音楽活動を行い、100枚を超えるリーダーアルバムを残した。

同年、アルバム『Obra Maestra (Masterpiece)』をリリース。

 

 

 

同年8月20日、ティトの生まれ育ったスパニッシュハーレムのイースト110thストリートは「ティト・プエンテ・ウェイ」と名付けられた。

 

 

2003年、ティト・プエンテはグラミー賞を受賞した。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ティト・プエンテ」「Tito Puente」

 

 

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