ミニー・リパートン(Minnie Riperton/本名:Minnie Julia Riperton Rudolph/出生名:Minnie Julia Riperton/1947年11月8日~1979年7月12日)は、アメリカ合衆国のシンガーソングライター。

 


 

1947年11月8日、ミニー・ジュリア・リパートンは、テルマ・イネス (旧姓:マシューズ/1911–2005) とプルマンのポーターであるダニエル ウェブスター リパートン (1898–1991) の娘として、アメリカ合衆国のシカゴで生まれた。

8人兄弟の末っ子である彼女は、音楽一家で育ち、早くから芸術に親しんだ。

彼女はバレエとモダンダンスから始めたが、両親は末娘の声と音楽の能力を認め、音楽と声を追求するように彼女を励ました。

シカゴのエイブラハム・リンカーン・センターで、彼女はマリオン・ジェフリーからオペラのヴォーカル・トレーニングを受けた。彼女は口述に特に重点を置いて、呼吸とフレージングを練習した。

ジェフリーはまた、リパートンが彼女の全範囲を使用するように訓練した。ジェフリーの下で勉強している間、彼女はオペラでのキャリアの準備として、オペレッタとショーの曲を歌った。ジェフリーは生徒の能力を確信していたので、シカゴのジュニア・リリック・オペラでクラシックをさらに勉強するよう強く勧めた。しかし、若きリパートンはソウル、リズム・アンド・ブルース、そしてロックに興味を持つようになった。

 

 

15歳の時、リパートンはガールズ・グループ「ジェムス」(The Gems)でプロとしての初仕事を行った。グループへの加入時は14歳の時だったとの説もある。


ハイドパーク高校(現:ハイドパークアカデミー高校)を卒業後、リパートンはループカレッジに進学し、ゼータ・ファイ・ベータ女子学生クラブの会員となった。だが彼女は音楽のキャリアを追求するために、大学を中退した。


 

1964 年、ジェムスは地元でヒットした“I Can't Help Myself”をリリースした。

 

 

1965年、ジェムスはクラシックなフォンテラ・ベース(Fontella Bass)のヒット曲“レスキュー・ミー”(Rescue Me)にバック・ヴォーカルで参加した。

 

同年、ジェムスとしては最後となるシングル“He Makes Me Feel So Good”をリリースした。

 

 

1966年、リパートンは彼女のメンターでありプロデューサーのビリー・デイヴィス(Billy Davis)に出会った。この時リパートンはまだジェムスの後身であるスタジオ・スリーの一員であったが、デイヴィスは彼女の最初のローカル・ヒット曲“ロンリー・ガール”(Lonely Girl)と“ユー・ガブ・ミー・ソウル”(You Gave Me Soul)を書いた。リパートンはこれら2つのシングルのリリースに際してデイヴィスに敬意を表し、「アンドレア・デイビス」(Andrea Davis)という芸名を使用、ソロデビューを果たした。

 

 

同年、チェス・レコード創設者「レナード・チェス」の息子「マーシャル・チェス」と知り合い、彼が創設したファンキーなロック・ソウル・グループ「ロータリー・コネクション」(Rotary Connection)に参加、リードヴォーカルを担当した。リパートン以下、マーシャル・チェス、ジュディ・ハウフ、シドニー・バーンズ、チャールズ・ステップニーというラインナップだった。

ジェムスはその後、幾度か名前を変え、1966年に「ガールズ・スリー」(the Girls Three)名義で“Baby I Want You”、1967年に「スターレッツ」(the Starlets)名義で“マイ・ベイビーズ・リアル”(My Baby's Real)をリリースした。後者はタミー・テレルを彷彿とさせるモータウン風の楽曲で、ノーザン・ソウル・ファンの間でカルト・ステータスを獲得し、今でも人気がある。

 

 

 

1967年、ロータリー・コネクションはセルフタイトルのデビュー・アルバム『ロータリー・コネクション』(Rotary Connection)を発表、カヴァーナンバー中心の楽曲で、全米37位になった。

 

 

 

1968年、ロータリー・コネクションは2ndアルバム『Aladdin』をリリースし全米176位、 同年に3rdアルバム『Peace』をリリースし全米24位になった。これ以降もリリースを続けたロータリー・コネクションは計5枚のアルバムを発表したが、シングルヒットには恵まれなかった。

 

 

この年、ザ・スターレッツ名義で“ウォータード・ダウン”(Watered Down)がリリースされた。これが、リパートンが在籍したガール・グループとしての最後のリリースとなった。

同年、ソングライターで音楽プロデューサーのリチャード・ルドルフとの間に一児をもうける。この子どもマークは後にエンジニアになる。

 

 

1969年5月、ロータリー・コネクションのアルバム『Songs』がリリース。

 

 

リパートンはロータリー・コネクションとともに、ウィスコンシン州ミルウォーキーのミルウォーキー・アリーナで開催された典礼会議全国大会で、ジェームズ F. コライアニがプロデュースした最初のカトリック・ロック・ミサに出演した。

 

 

1970年8月、リチャード・ルドルフと結婚。2年後に二人目の子どもである女児マーヤ・ルドルフを出産、彼女は後に女優およびコメディエンヌとなる。プライベートでは恵まれた生活を送っていた。

9月23日、リパートンのデビュー・ソロ・アルバム『Come to My Garden』をリリース、本作はロータリー・コネクションのバンドメイトであるチャールズ・ステップニーによってプロデュース、アレンジされ、GRTレコードからリリースされた。曲のいくつかは、リパートンと結婚したリチャード・ルドルフと、ステップニーとによって共作された。

 

 

12月26日の土曜日、シカゴの有名なロンドン・ハウスでラムジー・ルイスからソロ アーティストとして紹介された。

リパートンはステップニーを伴って、アルバムからいくつかの曲を演奏し続けた。

全米140位と商業的には成功しなかったものの、『Come to My Garden』は現在、音楽評論家や音楽業界の多くの人々から再評価を受け、傑作と見なされている。



1971年、スティーヴィー・ワンダーのバックコーラスに抜擢される。

曲がヒットしていない時期からスティーヴィーはミニー・リパートンの歌を聴いていて彼女に注目していた。ある時スティーヴィーのコンサート会場にてリパートンがスティーヴィーの音楽に対する思いをスティーヴィー本人に語る機会を得たが、彼はリパートンを一般のファンの一人としか思っていなかった。ところが名前を一応尋ねると、この女性こそ自分が注目しているミニー・リパートンだと知ってスティーヴィーは大いに驚いたという。この出会いを切っ掛けに交流が始まり、後に『パーフェクト・エンジェル』のプロデュースと演奏サポートをスティーヴィー自身が手がけることになった。

 

 

1973年、エピック・レコードにインターンで来ていたある学生が、リパートンが半引退状態にあることを知った。彼女はフロリダ州ゲインズビルで専業主婦になり、2人の子どもの母親になっていた。彼が“Seeing You This Way”という曲のデモを聴いた後、エピックの担当者はテープをA&R担当副社長であるDon Ellisに持って行った。その結果、リパートンはエピック・レコードと契約し、彼女は家族とともにカリフォルニア州ロサンゼルスに引っ越した。

 

 

1974年8月9日、スティーヴィーがプロデュースしたアルバム『パーフェクト・エンジェル』(Perfect Angel)をエピックからリリース。このアルバムには、ロック・ソウル・アンセム“Reasons”、アルバムの共同プロデューサーでもあるスティービー・ワンダー作の2ndシングル“テイク・ア・リトル・トリップ”(Take a Little Trip)、そして3枚目のシングルとして“Seeing You This Way”が含まれていた。アルバムのセールス動向はゆっくりとしたものだった。

 

 

 

 

エピックは次のレコードに移る準備ができていたが、リパートンの夫ルドルフは、彼らに別のシングルをリリースするよう説得した。こうしてアルバムから4枚目のシングルとしてカットされたのが、“Lovin' You”だった。


この曲は1975年4月に米国およびその他24か国でチャートのトップになり、全英シングルチャートで2位、全米R&Bチャートでも3位に入った。デニース・ウィリアムズがバックグラウンド・ヴォーカルを歌った“Every Time He Comes Around”という曲も含まれていた本アルバムは“Lovin' You”の影響もあり100万部以上を売り上げ、1975年4月に全米レコード協会(RIAA)からゴールド・ディスクを授与され、リパートンはついに「高い声と髪に花を咲かせた女性」として尊敬を集めることとなった。

こうして『パーフェクト・エンジェル』は最終的に全米4位・R&B1位・カナダ8位に加え、全英でも33位にチャートインする大ヒットになった。

なお、『パーフェクト・エンジェル』のブックレットの裏には、「A VERY SPECIAL FAN」という署名とともにメッセージが書かれているが、この「A VERY SPECIAL FAN」とはスティーヴィー・ワンダーのことであり、彼がいかにミニーに注目していたかを示すものである。

 

 

1975年5月22日、アルバム『Adventures in Paradise』をリリース、全米18位・R&B5位になった。ここからのシングルは、全米76位・R&B26位に達した"Inside My Love"を筆頭に、"Simple Things"がR&B70位、"Adventures in Paradise"がR&B72位になった。

 

 

 

 


1976年8月24日、リパートンは『トゥナイト・ショー』で、年頭に乳がんと診断され、春に乳房切除術を受けたことを明らかにした。がんは手術によって治ように思われた。

 

 

1977年3月17日、アルバム『Stay in Love』をリリース。ここからは、"Stick Together (Part One)"がR&B57位・米ダンスチャート23位に入った他は、めぼしいシングルは排出されなかった。アルバム自体も、全米71位・R&B19位・カナダ80位に終わったが、リパートンはコンサートツアーに出た。

 

 

 

1978年、リパートンはこの年もツアーを続けた。

だが、一時快方に向かったがんが腕に転移していることが判明。

診断を受けた時、リパートンは自分のがんがすでにリンパ系に転移していることを知り、彼女は余命約6か月と宣告された。

1978~1979年、彼女はアメリカ癌協会のキャンペーンの全国的なスポークス・ウーマンになった。

しかし、彼女の生前最後のアルバムとなる『ミニー』のレコーディング中に、リパートンの癌は彼女が大きな痛みを感じるところまで進行した。

 

 

1979年初頭、極度のリンパ浮腫により、彼女は右腕を動かせなくなっていた。それでもテレビへの出演を続け、彼女が最後に出演した『マイク・ダグラス・ショー』では、リパートンの右腕は歌唱中に固定されたままだった。

5月9日、5thアルバム『ミニー』(Minnie)をリリース、前作を上回る全米29位・R&B5位・豪州60位に達した。アルバムからは、"Memory Lane"がR&B16位、"Lover and Friend"がR&B20位になった。

 

 

 

彼女は自分の死が近づいた頃、コンサートで“Lovin' You”を歌った際、歌詞の終わりを、「Maya、Maya、Maya」から「Maya、Maya、Ringo、Maya」に変更した。リンゴは息子マークのあだ名であった。

6月中旬、リパートンはついに寝たきりになった。

7月10日、ロサンゼルスの Cedars-Sinai Medical Center に入院した。

死の床に在るリパートンをスティーヴィー・ワンダーが見舞いに訪れた際に「私が待ってた最後の人がやって来たわね。全て良くなるわ」と彼女はつぶやいたという。

 

 

7月12日木曜日の午前10時、ミニー・ジュリア・リパートン・ルドルフは、愛する夫リチャード・ルドルフの腕の中で逝去。31歳没。余りに早い別れだった。

 

 

その週の日曜日、500人以上の会葬者が出席した葬儀の後、彼女の亡骸はロサンゼルスのウェストウッド・ビレッジ・メモリアル パーク墓地に埋葬された。その碑文には、彼女の最も有名な歌の冒頭の行が記された。

 

Lovin' you is easy 'cause you're beautiful.

 

 

 

1980年8月11日、リパートンの夫であり、作曲家、そしてプロデューサーとして公私にわたってパートナーであったリチャード・ルドルフによるプロデュースで、6枚目の、そして最後となるスタジオ・アルバム『Love Lives Forever』がリリースされた。全米35位・R&B11位になった本アルバムからは、Peabo Brysonとの共演となった“Here We Go”がR&B14位、“Give Me Time”がR&B75位になった。

 

 

 


ミニー・リパートンは5オクターヴから5オクターヴ半という実に広い声域を持ち、特に“Lovin' You”のサビで使われる超高域は天使のハイトーンと呼ばれ余りに有名である。その歌声は、後のマライア・キャリーやセリーヌ・ディオンら数多くのシンガーに広く影響を与えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ミニー・リパートン」「Minnie Riperton」

 

 

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