ニール・ショーン(Neal Schon/出生名:Neal Joseph Schon/1954年2月27日~)は、アメリカ合衆国のギタリスト。同国のロックバンド「ジャーニー」の中心人物として知られる。

 

 

 

オクラホマ州オクラホマシティ近郊のティンカー空軍基地で生まれ、幼い頃に家族でカリフォルニア州サンフランシスコに移る。
10歳でギターを始め、ジミ・ヘンドリックスやエリック・クラプトン等に影響を受ける。

 

その後、カルロス・サンタナ率いる「サンタナ」のセカンド・ギタリストに抜擢。

1971年、17歳の時にプロ・デビュー作となる『サンタナIII』が発表される。サンタナにとって2作目の全米1位となり、第一弾シングル“新しい世界”(Everybody's Everything)は全米12位になった。

 

 

 

1972年、アルバム『キャラバンサライ』(Caravanserai)発表。全米8位。“Eternal Caravan of Reincarnation”など本作からショーンも作曲に名を連ねた。

 

その後、サンタナの音楽性の変革やカルロス・サンタナの宗教問題からメンバーが離散、当時サンタナのロード・マネージャーだったハービー・ハーバートがショーンをサポートしようと試み、若手のグレッグ・エリコ(Ds)、ピート・シアーズ(B)とのトリオ「ハッピー・バースデー」を結成したが、実質的活動がほぼないまま空中分解してしまう。

 

 

1973年、「ゴールデン・ゲート・リズム・セクション」などと名乗り、サンフランシスコのクラブでセッション、ジャズ・ロック的なライヴ活動をしていたところ、サンタナ時代の同僚であったグレッグ・ローリー(Key,Vo)が加わった頃からメンバーが固定化。他のメンバーは、ジョージ・ティックナー(G)、ロス・ヴァロリー(B)、プレイリー・プリンス(Ds)である。

間もなくドラマーがジェフ・ベック・グループやフランク・ザッパ&マザーズ等でキャリアを積んだエインズレー・ダンバーに替わり、1974年に当時のCBSコロムビア(後のソニー・ミュージック)と契約。デビューに当たりコンサートのフリーパスを懸賞に地元ラジオ局によりバンド名が公募されたが、ここでは決まらず、結果的にスタッフの提案で「ジャーニー」(Journey)をバンド名とした。

 

 

1975年4月、デビュー作『宇宙への旅立ち』(Journey)を発表。

 

 

1976年1月に2ndアルバム『未来への招待状』(Look into the Future)をリリースしたが、その前にティックナーが脱退。これにより、2ndアルバムと1977年2月の3rdアルバム『果てしなき挑戦』(Next)ではショーン、ローリー、ヴァロリー、そしてダンバーの4人編成となる。

 


1977年6月、「インストゥルメンタル曲主体のプログレッシヴ系ロックバンド」という位置付けだった当時のジャーニーが、商業的不振の打開のため、バンド初の専任ボーカリストとしてロバート・フライシュマンを補強。新作アルバムのための曲作りに参加しつつツアーに臨むも約3か月後のツアー中に解雇、程なく二代目専任ヴォーカリストとしてエイリアン・プロジェクトというバンドでデビュー直前までいったスティーヴ・ペリーが加入。フライシュマンの解雇とペリーの加入は、当時のマネージャーのハービー・ハーバートの戦略的判断によるものだったと言われている。
ペリーの加入により、バンドの方向性は従来にない劇的変化を遂げることとなる。

 


1978年1月、4thアルバム『インフィニティ』(Infinity)では従来のプログレッシヴ系ロックバンド的作風も維持しつつ、ヴォーカル・パートを活かした躍動感ある楽曲も加わり、その後のバンドの方向性を明確に示す。本アルバムは全米21位のヒットとなるとともにプラチナ・ディスクを初獲得、“ホィール・イン・ザ・スカイ”(Wheel in the Sky)が全米57位と初のシングル・ヒット曲となった。

 

しかしドラマーのダンバーはポップ化を図る一方のバンドとそりが合わなくなり脱退、ジェファーソン・スターシップに移籍した。後任ドラマーにはジャズの流れを汲むスティーヴ・スミスが加入、彼の演奏はバンドの志向と合致し、バンドはポップ化を加速させてゆく。

 

 

1979年4月5日、アルバム『エヴォリューション』(Evolution)を発売、全米20位を記録した。リカットした"Lovin', Touchin', Squeezin'"が全米16位になり、RIAAゴールド認定を受けた。

 

 

1980年3月、アルバム『ディパーチャー』(Departure)は全米8位と更に勢いを増し、その中で全米16位になった“ラヴィン・タッチン・スクィーズィン”(Lovin', Touchin', Squeezin')や全米23位の“お気に召すまま”(Any Way You Want It)などのシングル・ヒットも記録。バンドはライヴ・ツアー主体の活動を続け、より広範な聴衆と人気を獲得してゆく。

 

 

同年、高田賢三が監督を務めた映画『夢、夢のあと』のサウンドトラックも手がけた。
その後、結成メンバーの一人グレッグ・ローリーが心労などの理由から脱退し、オリジナルメンバーはショーンとヴァロリーの2人だけとなる。ローリーは後任に当時ジャーニーの前座を務めていた「ベイビーズ」のジョナサン・ケイン(Key)を推薦した。こうして加入したケインはシンセサイザー世代であり、メロディックな曲を書くソングライターとしての素質も持っており、また演奏面でも爽快なサウンドをジャーニーの楽曲にもたらした。さらにギターも演奏できたケインはショーンの手ほどきでギタリストとしても才能を開花、ライヴにおいては時としてショーンをサポートする「もうひとりのギタリスト」として演奏するなど斬新な印象をバンドの作風に盛り込んだ。

 

 

1981年8月、ニール・ショーン(G)、スティーヴ・ペリー(Vo)、ロス・ヴァロリー(B)、スティーヴ・スミス(Ds)、ジョナサン・ケイン(Key)の5人体制となって最初のアルバム『エスケイプ』(Escape)を発表、初の全米1位を獲得した。ライヴ・ステージの音響担当からレコーディング・エンジニアに昇格したケヴィン・エルソンとマイク・ストーンの2人による「生で演奏している音の雰囲気を殺さず音盤にする」力量が、ジャーニーのライヴ・バンドとしての魅力を最大限レコードに収めることに成功したのも、彼らの出世を大きく後押しした。アルバムからのシングルは“クライング・ナウ”(Who's Crying Now)が全米4位、“ドント・ストップ・ビリーヴィン”(Don't Stop Believin')が全米9位になった。

 

 

 

なお、バンドの代表的バラードの一つで本アルバム収録の“オープン・アームズ”(Open Arms)は、ジョナサンがベイビーズ時代に書き起こしたものの当時バンドのヴォーカリストだったジョン・ウェイトに反対され陽の目を見ることのなかった楽曲。シングルでジャーニー最高位のBillboard Hot 100で全米2位、キャッシュボックス、レコードワールド、ラジオ&レコーズでは全米1位、そして後にマライア・キャリーのカヴァーでリバイバル・ヒットと、記録的な一曲になった。

 

11月、ジェフ・ベックとの共演で知られるヤン・ハマーとの共同プロジェクト「ニール・ショーン & ヤン・ハマー」名義でアルバム『閃光』(Untold Passion)を発表。

 

 

 

1982年12月、「ニール・ショーン & ヤン・ハマー」名義の第二弾アルバム『Here to Stay』をリリース。

 


1983年2月22日、アルバム『フロンティアーズ』(Frontiers)も全米9週連続2位のメガヒットに輝く。『フロンティアーズ』は前作の幻想的な作風からバラードのヒット曲路線を継承しつつも、よりハードロック志向の強い楽曲も収録し、バンドの強い個性が出ている1枚となった。因みに当時の1位は前後37週にわたって居座ったマイケル・ジャクソンの『スリラー』である。日本ではオリコン3位になっている。アルバムからのシングルは、“セパレイト・ウェイズ”(Separate Ways [Worlds Apart])が全米8位、 "Faithfully"が全米12位、"After the Fall"と"Send Her My Love"がともに全米23位に達した。

 

 

 

 

 

バンドが商業的成功を遂げて、メンバーが各々ソロ活動を活発化させ、不仲説が囁かれるようになる中、再びジャーニーとしての活動に戻って次のアルバム『Raised On Radio〜時を駆けて』の制作が始まった。だがこの時、ロス・ヴァロリーは参加せず、スティーヴ・スミスも一部の楽曲のみの参加となった。

 

 

1984年3月、ニール・ショーンはサミー・ヘイガー、ケニー・アーロンソン、サンタナ時代の盟友マイケル・シュリーヴとのユニット「HSAS」(ヘイガー、ショーン、アーロンソン、シュリーヴ)として、アルバム『炎の饗宴』(Through the Fire)を発表。

 

 

 

1985年、ショーンはヘヴィメタル・ミュージシャンによるチャリティ・プロジェクト「ヒア・アンド・エイド」に参加。

同年、映画のサウンドトラック『Vision Quest』に参加、"Only the Young"が全英9位に入った。

 


1986年にリリースされたニュー・アルバム『Raised On Radio〜時を駆けて』(Raised on Radio)ではスティーヴ・ペリー、ニール・ショーン、ジョナサン・ケインの3人だけが正式メンバーとしてクレジットされ、アルバム制作およびライヴ・ツアーにおいてはオーディション等を経て起用された臨時メンバーが参加していた。アルバムは全米4位、日本ではオリコン洋楽アルバムチャートで1986年6月9日付から4週連続1位を獲得した。

 

本アルバムは過去最多となる5曲のヒット・シングルを生んだ。後年のライヴでも代表曲の一つとして演奏されることが多い全米9位“トゥ・ユアセルフ”(Be good to yourself)は本アルバムが初出である。その他、"Suzanne"と"Girl Can't Help It"が全米17位、"I'll Be Alright Without You"が全米14位になった。また、ラジオによって育まれたというメンバーそれぞれの音楽心をアルバムのテーマとしていたことから、従来にない試みとしてサックスを導入した楽曲(2曲目の『ポジティヴ・タッチ』)なども含まれていた。本アルバムは最終的には全米4位まで浮上するが、同年のライヴ・ツアーはスティーヴ・ペリーが心労を理由にリタイアを申し出たことにより約4か月で終了し、バンドとしての活動もまた休止状態に陥ってしまう。

 

 

 

 

 

1989年、元ベイビーズのジョン・ウェイト等と共にバッド・イングリッシュを結成し、デビュー・アルバムを発表。

同年、ニール・ショーンが初ソロ・アルバム『レイト・ナイト』(Late Nite)発表。

 

 

1991年にバッド・イングリッシュが解散すると、ニール・ショーンはジョニー・ジョエリが結成した「ハードライン」に加入するが、翌1992年のデビュー・アルバム『ダブル・エクリプス』リリースに伴うツアーを最後に脱退する。

 


1993年、ショーンはポール・ロジャースのツアーに帯同し、7月4日のマイアミ公演ではジミ・ヘンドリックスのカヴァーを多数披露。その時の音源は、ポール・ロジャースのライヴ・ミニ・アルバム『シングズ・ジミ・ヘンドリックス・ライヴ』(1993年)として発表された。

 

 

1996年10月22日、前作から10年後、スティーヴ・ペリー、ニール・ショーン、ジョナサン・ケインの3人にロス・ヴァロリーとスティーヴ・スミスの2人を再び迎えた1983年当時のラインナップにより、ジャーニーは新たなアルバム『トライアル・バイ・ファイアー』(Trial by Fire)を発表。オリジナル・アルバム10作目に当たる本作品は、全米3位の実績を残した。シングルは"When You Love a Woman"が全英12位に入るヒットとなった。だが、スティーヴ・ペリーの体調の不備を理由に再結成メンバーによるツアーは行われなかった。

 

 

 

1997年、ショーンはサンタナの元メンバーを中心としたプロジェクト「アブラクサス・プール」(Abraxas Pool)名義で同名アルバム『Abraxas Pool』を発表。

 

 

1998年、ライヴ盤『グレイテスト・ヒッツ・ライヴ』を出すも、同時にスティーヴ・ペリーの正式脱退が伝えられた。その後、再びスティーヴ・スミスもバンドを脱退。

 

 

2000年、ジャーニーは新メンバーとしてスティーヴ・オージェリー(Vo)とディーン・カストロノヴォ(Ds)を加え再スタートを切る。

秋、ジャーニーは11thアルバム『アライヴァル』(Arrival)を発表。1980年代初頭の所謂「黄金時代」を彷彿させる幾多の楽曲が収められた本アルバムは当初日本で先行発売され、次いで本国アメリカで翌2001年春に発売されたが、全米56位と伸び悩んだ。売り上げが伸びなかった原因の一つにファイル共有ソフトによる楽曲流出が言われた。

 

 

2001年、ショーンは全曲カヴァーでインストゥルメントのソロ・アルバム『情熱の音色〜ヴォイス』(Voice)を発売、ロバータ・フラック“やさしく歌って”やセリーヌ・ディオン“マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン”等を含む本作で、グラミー賞ベスト・ポップ・インストゥルメンタル・アルバム部門にノミネートされた。

 

 


2002年、ショーンはサミー・ヘイガー、マイケル・アンソニー、ディーン・カストロノヴォと「プラネット・US」を結成するが、これは短命に終わり、作品もリリースされなかった。

春、ジャーニーはデビュー以来の関係だったソニー・ミュージックとの契約を解消し、80年代風ロック専門のインディーズ・レーベル「フロンティアーズ・レコード」に移籍、オンラインでの作品流通も開始。これに伴い日本でのジャーニーのアルバム発売元はキングレコードとなった。
8月、移籍後初のアルバム『レッド13』(Red 13)を発表、日本でオリコン88位になった。


2004年、日本映画『海猿』主題歌として“オープン・アームズ”が採用されたことを受け、ソニー・ミュージックは『Greatest Hits』を再販した。

同年秋、ジャーニーは3年ぶりに日本でのライヴ・ツアーを行った。この年の来日ツアーにおいて、往年のヒット曲のみならず長年ライヴ向けにプレイし続けてきたナンバーもステージ・セットに多数取り入れ、かつメンバー全員がそれぞれリード・ヴォーカルを受け持ちつつ演奏を繰り広げるという、従来の慣習にとらわれないライヴ・パフォーマンスを披露した。


2005年1月にはハリウッド・ウォーク・オブ・フェームへの殿堂入りを果たした。その際に開かれたイベントには歴代メンバーのほとんどが出席した。
同年、ソロアルバム『アイ・オン・ユー』(I on U)をリリース。

 

8月、前作『レッド13』から5年ぶりにニュー・アルバム『ジェネレーションズ』(Generations)を発表。しかしセールス的には全米170位と振るわなかった。一方、日本では「ADLIBアウォード」や「山野楽器ミュージックアワード」など各賞の洋楽ロック部門を受賞した。

同年、ショーンはジェフ・スコット・ソート、マルコ・メンドーサ、ディーン・カストロノヴォ(後にプラネット・エックスのヴァージル・ドナティに交替)と結成した「ソウル・サーカス」名義のアルバム『ワールド・プレイ』(World Play)を発表。

 


2006年のツアー中に、喉の感染症を治療するためにスティーヴ・オージェリーがバンドを離脱、代理にジェフ・スコット・ソート(Vo)が参加した。

同年末、オージェリーの後任としてソートの正式メンバーへの昇格が発表されるも、翌2007年6月に脱退。これを受けてバンドは公式ウェブサイトで年内の活動休止をアナウンスする。

 

 

2007年12月5日、ジャーニーはフィリピン人シンガーのアーネル・ピネダ(Arnel Pineda)をリード・ヴォーカリストに迎えたことを公式ウェブサイトで発表、このラインナップでアルバムのレコーディングを行った。

 

 

2008年6月、新アルバム『Revelation』をリリース、新曲10曲に加えて前作『Generations』収録曲の“フェイス・イン・ザ・ハートランド”をピネダのヴォーカルで採録したテイクを含むディスク1と、スティーヴ・ペリー在籍時代のヒット曲や人気曲11曲を現メンバーで再録したディスク2との2枚組となった。なお、US盤にはさらに最新ライヴDVD1枚が付属する3枚組構成。セールス的には発売1週間で世界計10万4000枚(バンド発表)を売り上げる久々のヒットとなり、Billboard Top 200でも初登場5位、同Top Internet Album2位、同Top Independent Album1位等を獲得。12月18日には『Trial By Fire』以来となるRIAAゴールド&プラチナディスク(2枚組のため50万枚×2=100万枚)に認定された。日本でも6月にオリコン週間洋楽チャートにて輸入盤のみながら28位を記録するなど、日本盤の正式発表以前から一部外資系レコード店にて輸入盤が好調な売れ行きを示した。

 

 

バンドはハート、チープ・トリックとともに全米各都市を回ったツアーを終え、来日公演も行った。


2011年5月24日、14thアルバム『エクリプス』(Eclipse/ジャケットのロゴでは「ECL1P53」とデザイン)を発売し、全米初登場13位を記録した。

 

 

2012年、ソロアルバム『ザ・コーリング』(The Calling)をリリース。

 

 

2014年、ソロアルバム『ソー・ユー』(So U)をリリース。

 


2015年、ソロアルバム『ヴォルテックス』(Vortex)をリリース。

6月14日、ディーン・カストロノヴォがDV容疑で逮捕。その後保釈されたが、禁止されていた相手との接触を繰り返し暴行に及んだとして取り消されて収監、解雇が正式に決定した。これにより、同年8月3日までのツアーの残りの日程では、オマー・ハキムが代役を務めた。その後、同年11月26日、2016年5月から始める北米ツアーでは、1998年に脱退したスティーヴ・スミスがゲストで参加。引き続き2017年のツアーも帯同し、同年来日公演を開催した。

 

 

2016年4月15日、45年前のサンタナのアルバム『サンタナIII』(Santana III)の続編としてカルロス・サンタナとグレッグ・ローリーとともに約半世紀ぶりに共演して『サンタナIV』(Santana IV)をリリース、これと前後して、サンタナとジャーニーのジョイント・コンサートがニューヨーク、アンカスビル、アレンタウンで開催された。アルバムは全米5位の大ヒットとなった。

 

 



2020年3月、バンドのマネージメント会社の運営を巡るトラブルが原因で、ニール・ショーンとジョナサン・ケイン、ロス・ヴァロリーとスティーヴ・スミスとの間で確執が生じ、ニールとジョナサンは共同声明を通じて、ロスとスティーヴがバンドのロイヤリティを侵害しようとしたとして二人に対して損害賠償請求を行うこと、二人を今後のバンド活動から永久追放することを宣言した。

5月23日、ロスの後任として以前サポート参加したランディ・ジャクソン(B)が正規メンバーとして復帰、スティーヴの後任としてナラダ・マイケル・ウォルデン(Ds)が新たに加わった。この措置を不服としたロスとスティーヴは、バンドの商標権やパートナーシップに関する条項内容に関する異議を申し立ててニールとジョナサンに反訴、スティーヴ・ペリーや元マネージャーをも巻き込んだ訴訟騒ぎに発展する。

 

 

2021年、バンドがロスとスティーヴと和解したこと、それに伴い二人の脱退が確定したことが発表された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikiedia「ニール・ショーン」「Neal Schon」「ジャーニー」「Journey (band)」

 

 

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