萩原 健一(はぎわら けんいち/本名:萩原敬三[はぎわら けいぞう]/1950年7月26日~2019年3月26日)は、日本の俳優、歌手。ニックネームは「ショーケン」。

 

 

 

1950年7月26日、埼玉県北足立郡与野町 (現:同県さいたま市中央区)の鮮魚店に非嫡出子として萩原敬三は生まれる。

本名は敬三だが、少年の頃からなぜか「ケンちゃん」と呼ばれていた。

 

 

1965年、東京都荒川区の聖橋中学校・高等学校(現在は廃校)在学中、埼玉県大宮市のダンスホールでバイトしていた時、バンドにスカウトされる。

テンプターズはショーケン自身が述懐しているところによれば、デビュー前はブルーズ・バンドだったという。中川三郎ディスコティークの出演バンドだったこともある。

 

 

1967年春、萩原健一(かぎわらけんいち/ショーケン/Vo,Herp)、松崎由治(まつざき よしはる/ヨッチン/1946年4月16日~/リーダー、G,Vo)、田中俊夫(たなか としお/ブル/1946年11月1日~1997年1月21日/G,Key)、高久昇(たかく のぼる/ノボル/1946年5月5日~/B)、大口広司(おおぐち ひろし/ヒロシ/1950年11月28日~2009年1月25日/Ds)とデビューメンバーが揃う。

10月25日、ショーケンが16歳の時、ザ・スパイダースの弟分バンド「ザ・テンプターズ」のヴォーカリストとして、メンバー自作のシングル“忘れ得ぬ君”(作詞・曲:松崎由治)でデビュー。リードヴォーカルは松崎が担当し、オリコン26位を記録した。ショーケンがリードヴォーカルを取ったB面の“今日を生きよう”は、グラス・ルーツがイタリアのミュージシャンの曲をカヴァー。

 

なお、高校は2年生の時に中退している。

 

 

1968年3月5日、ショーケンがリードヴォーカルを取った2ndシングル“神様お願い!”も松崎が作詞・作曲し、オリコンで2位を獲得した。

 

6月15日、3rdシングル“エメラルドの伝説”(作詞:なかにし礼/作曲:村井邦彦)もショーケンがリードヴォーカルを担当した。

 

9月25日、4thシングルは一般から歌詞を公募し松崎が補作詞と作曲、リード・ヴォーカルも担当した“おかあさん”(作詞:松岡弘子/補作詞・作曲:松崎由治/編曲:川口真)をリリース、ショーケンはコーラス・ハーモニカ担当し、オリコン4位。

 

1968年12月、ショーケンがリードヴォーカルを担当したシングル“純愛”(作詞:なかにし礼/作曲:村井邦彦)もオリコン8位とヒット。

 

 

 

1969年2月25日、全曲オリジナル曲で固められた2ndアルバム『5-1=0 ザ・テンプターズの世界』が発売。

 

3月、初の主演映画『涙のあとに微笑みを』が公開された。

3月、シングル“雨よふらないで”(作詞:萩原健一/作曲:松崎由治/編曲:松崎由治・川口真)ではショーケン(萩原健一)が初めて松崎以外のメンバーとしてクレジットされた。オリコン21位。

 

7月、ショーケンがリードを取ったシングル“帰らなかったケーン”(作詞:なかにし礼/作曲:かまやつひろし/編曲:川口真)発売、オリコン31位。

 

7月には、同年4月20日に東京厚生年金会館大ホールで行われたコンサートを収録したアルバム『ザ・テンプターズ・オン・ステージ』を発売。

11月25日、メンフィス録音の先行シングル“エブリバディ・ニーズ・サムバディ”(作詞:Bob Mcdill/訳詞:松崎由治/作曲:Bob Mcdill)を発売、オリコン83位。

 

12月20日、日本人アーティスト初のメンフィス録音となったアルバム『ザ・テンプターズ・イン・メンフィス』が発表されたが、これはショーケンのみ渡米しメンバーは録音にほとんど参加していない、実質的には萩原のソロ・アルバムだった。

 

 

1970年3月25日、シングル“復活”(作詞:なかにし礼/作・編曲:川口真)発売、オリコン61位。

 

6月25日、シングル“出来るかい?出来るかい?”(作詞:なかにし礼/作・編曲:川口真)発売、オリコン79位。

 

10月25日、シングル“若者よ愛を忘れるな”(作詞・曲:松崎由治)発売。

12月、テンプターズが解散。

 

 

1971年1月11日、テンプターズが解散したショーケンと大口広司は、解散を直前に控えたタイガースの沢田研二と岸部修三(後の岸部一徳)、元スパイダ―スの井上堯之と大野克夫とともに会合を持った。

2月1日、こうして結成されたバンド「PYG」(ピッグ)が正式に始動。沢田とのツインヴォーカルが話題になり、各種ロックフェスティバルやテレビ出演などもこなしたが、音楽活動よりも映画監督を志すようになる。

4月10日、1stシングル“花・太陽・雨”(作詞:岸部修三/作曲:井上堯之)をリリース。

 

8月10日、1stアルバム『PYG!』を発売、オリコンアルバムチャートで10位となった。

9月、ドラマーが大口から元「ミッキーカーチス&サムライ」の原田祐臣へ交替。萩原も活動の舞台をテレビや映画に移すようになり、GS時代からのファンは徐々に姿を消し始める。

11月1日、「萩原健一+PYG」のクレジットで1stアルバムからカットした3rdシングル“もどらない日々”(作詞:岸部修三/作曲:井上堯之)の発売日に、沢田も初のソロ・シングル“君をのせて”(作詞:岩谷時子/作曲:宮川泰)を発売。

12月、2ndアルバム『JULIE II IN LONDON』を発売する。

 

1972年、松竹映画『約束』(斎藤耕一監督)の製作現場に、サード助監督として参加。だが、主演俳優・中山仁が降板したため、代役に抜擢される。何人もの女優に出演を断られたが、最終的に岸惠子が共演を承諾した。本作品での演技が高く評価され、俳優へと本格的に転身。

7月1日、ソロ名義として初めてのシングル“ブルージンの子守唄”(作詞:阿久悠/作曲:加藤和彦/編曲:瀬尾一三)を発売、同曲は『太陽にほえろ!』第1話に使用された。オリコン92位。

 

7月21日、ショーケンが初代新人刑事「マカロニ」役で出演したテレビドラマ『太陽にほえろ!』が放送開始、俳優としての評価が徐々に高まると、ショーケンが参加できる時はPYGとして、参加できない時には「沢田研二と井上堯之バンド」(または井上堯之グループ)として活動するようになってゆく。また、後に井上堯之バンドの代表曲と言えるほど有名になった“太陽にほえろ!メインテーマ”や同ドラマのサウンドトラックも、レコーディング時は「PYG」としてレコーディングされ、マスターテープのラベルやトラックシートには「PYG」と明記されている。

3月11日、沢田の2ndソロシングル“許されない愛”(作詞:山上路夫/作曲:加瀬邦彦)がヒットし、第14回日本レコード大賞歌唱賞、第5回日本有線大賞優秀賞を受賞すると、PYGの存在感も希薄になっていく。

11月21日、PYGのラスト・シングル“初めての涙”(作詞:大橋一枝/作曲:大野克夫)を発売。

12月をもって音楽活動を停止、これによりPYGは事実上解散となった。

 

 

1974年、神代辰巳 とのコンビによる映画『青春の蹉跌』でキネマ旬報の最優秀主演男優賞を受賞。これは現在のアカデミー賞最優秀主演男優賞に値する。

続いて日本テレビ系のテレビドラマ『傷だらけの天使』(1974-75年)に出演。

 

 

1975年、初のソロアルバム『惚れた』をリリース。ソロアルバムの発表を契機として音楽活動を再開し、8月10日、“お前に惚れた”(作詞:阿久悠/作・編曲:井上堯之)をリリース。

 

 

 

1975~1976年、、倉本聰脚本の『前略おふくろ様』(1975-76年)に主演し、続編も制作された。倉本聰は、演技力と器用さで、ショーケンはある種の天才だった、と述懐している。倉本は依頼が日本テレビではなく、萩原健一から直接持ち込まれたと証言した。

 

 

1977年4月、シングル“前略おふくろ”(作詞:藤公之介/作曲:森田公一/編曲:井上堯之)発売、B面は“酒と泪と男と女”(作詞・曲:河島英五/編曲:井上堯之)。

 

 

 

1978年7月1日、シングル“時は流れて”(作詞:柳ジョージ/作・編曲:井上堯之)発売。

 

 

1979年5月1日、カヴァーシングル“大阪で生まれた女”(作詞・曲:BORO/編曲:鈴木明男)を「発売。

10月、柳ジョージ&レイニーウッドがバックを担当したライヴ盤『熱狂雷舞』を発表。

また同年モデルの小泉一十三と結婚し女児をもうけたが3年で離婚している。

 

 

俳優としても脚本家・橋本忍の指名を受けての松竹映画『八つ墓村』(1977年)や黒澤明の『影武者』(1980年)などに出演。誘拐犯を演じた『誘拐報道』(1982年/モントリオール世界映画祭審査員賞)『もどり川』(1983年カンヌ国際映画祭受賞作品)、作家・連城三紀彦が萩原をモデルにしたという直木賞作品を自身で演じた『恋文』(1985年/日本アカデミー賞優秀男優賞)などに出演した。

 

 

1980年9月、シングル“ぐでんぐでん”(作詞:康珍化/作曲:鈴木キサブロー/編曲:ドンファン)を発売。

 

同年、いしだあゆみと結婚、1984年に離婚発表。

 

 

1981年2月25日、シングル“ラストダンスは私に”(作詞:Doc Pomus/訳詞:岩谷時子/作曲:Mort Shuman/編曲:ドンファン)発売。

 

 

1982年3月、シングル“ハロー・マイ・ジェラシー”(作詞・曲:速水清司/編曲;ドンファン)リリース、B面は“シャララ”(作詞:大津あきら/作曲:篠原信彦/編曲:ドンファン)。

 

 

同月、アルバム『D'erlanger』リリース。

 

同年、シングル“Ah!Ha!”(作詞:大津あきら/作曲:篠原信彦/編曲:ドンファン)発売。

 

 

1983年には映画『竜二』の主題歌“ララバイ”(作詞・曲:速水清司)を歌った。

 

1月インドはカルカッタでチャリティコンサートを行う。

4月20日、大麻不法所持にて逮捕され、懲役1年、執行猶予3年の有罪判決となり、1年間に渡って全ての活動停止を余儀なくされた。

 

 

1984年3月、アルバム『Thank You My Dear Friends』リリース。

 

同年、飲酒運転で人身事故を起こし、業務上過失傷害罪で逮捕された。

 

 

1985年11月には、女優・倍賞美津子との2ショット写真を週刊誌に撮られて激昂。カメラマンと編集者に暴行し、書類送検された。この時期、バイオリニスト・前橋汀子と交際した。

同年、1度「ラスト・ライヴ」を行った。


 

1987年1月21日、ムーン・レコード(現:ワーナーミュージック・ジャパン)移籍第一弾として、16thシングル“愚か者よ”(作詞:伊達歩/作・編曲:井上堯之)をリリース。同年1月1日発売の近藤真彦(オリコン最高位2位)と競作ながら萩原ヴァージョンもオリコン19位とヒットした。

 

7月、シングル“桜子”(作詞:伊達歩/作・編曲:長沢ヒロ)リリース。

 

 

1990年にもコンサートを開き、俳優業と歌手を併行して活動。

 

 

1992年9月10日、シングル“Gambler”(作詞:萩原健一/作・編曲:井上堯之)発売。

 

 

1993年に四国八十八箇所をお遍路し、1400-1600キロメートルを37日という驚異的な早さで踏破した。90年代のドラマ、映画では東芝日曜劇場『課長サンの厄年』、山口智子、室井滋と共演した『居酒屋ゆうれい』(1994年/報知映画賞・高崎映画祭主演男優賞)、ドラマ『外科医柊又三郎』(1995年)などに出演した。

 

 

1996年、ヘアメイク・アーティストの由紀と3度目の結婚をしたが、十年後の2006年に離婚している。萩原によればこの結婚には、親族から猛反対があったという。

 

 

2004年10月、再び交通事故を起こし業務上過失致傷罪で現行犯逮捕された。

また、監督・スタッフ・共演者への暴言・暴行を繰り返したため途中降板となった主演映画『透光の樹』の前払いの出演料半額分(750万円)の返還をプロデューサーから求められた際に、「一方的に降板させられた」として拒否。さらにプロデューサーに電話をかけ、国税庁・警視庁・実在する暴力団の名を挙げて「必ずやっつけますから」と脅迫する言葉を留守電に残し、出演料全額分(1500万円)の支払いを要求したことで、同年11月に製作側から恐喝未遂容疑で告訴され、翌年の2月に再び逮捕された。当初脅迫電話をしたことは否定していたが、証拠として録音された音声が出されると、これを認めた。 この恐喝事件で2005年6月に東京地裁で懲役1年6か月、執行猶予3年の有罪判決を受け、しばらく活動休止。しかし2005年7月にテレビ番組内で、「大麻解禁にしましょうか」と発言し、その後、厚生労働省から注意されたため、「ジョークのつもりだった」と釈明した。

 

 

2008年、自叙伝『ショーケン』(講談社刊)を上梓。

同年、ヴォーカリストとしてゲスト参加した宇川直宏による音楽ユニット「UKAWANIMATION」のデビューシングル“惑星のポートレイト 5億万画素”(作曲・プロデュース:石野卓球)で本格復帰を果たす。

 

 

2009年、5年ぶりの映画出演となった『TAJOMARU』(小栗旬主演)の将軍足利義政役で日本映画批評家大賞の審査員特別男優賞を受賞。

11月4日、河島英五の代表曲をカヴァーしたシングル“時代おくれ”(作詞:阿久悠/作曲:森田公一/編曲:井上堯之)発売。

 

 

2010年、東京・大阪で7年ぶりのライヴ(トーク&ミニライヴ)ツアーを行なった。 

 

 

2011年2月7日、モデルの冨田リカと結婚。「ジェットコースターのような人生だったけども、今後は2人でメリーゴーラウンドのようなゆっくりした人生を歩みたい」と語った。

 

 

晩年は芸能活動の傍ら、東洋思想や仏教研究に取り組んだ。

 

 

2017年10月25日、デビュー50周年を記念するスタジオライヴ形式のニューアルバム『LAST DANCE』をリリース。

 

 

 

2018年、自身のレコードレーベル「Shoken Records」を設立。

5月9日、22年ぶりとなるシングル“Time Flies”(作詞・作曲・編曲:萩原健一)をリリース。

 

 

2019年3月26日午前10時30分、都内の病院にてGIST(消化管間質腫瘍)のため死去。68歳だった。2011年から闘病していたが、本人の強い希望で病名の公表を控えていた。

葬儀は27日に家族のみで営まれ、本人が以前住んでいた神奈川県の鶴見近辺の斎場で荼毘に付された。共演の多かった女優、高橋恵子、桃井かおりは萩原健一の死後、追悼コメントを出している。

高橋是清役で出演したNHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』が没後に放送されているが、『いだてん』に於ける萩原の主な出演場面は生前にほぼ収録を終えており、予定されていた残りの出演場面については放送に支障が生じないように対応がとられた。

11月16日、「第61回 輝く!日本レコード大賞」の「特別功労賞」を受賞した。

 

 

 

 

 

 

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(参照)

Wikipedia「萩原健一」「ザ・テンプターズ」「PYG」