クリフ・バートン(Clifford Lee "Cliff" Burton/1962年2月10日~1986年9月27日)は、
アメリカ合衆国カルフォルニア州出身のベーシスト。メタリカの初期メンバーとして知られる。
クリフォード・リー・バートンは、カリフォルニア州カストロバレー(Castro Valley, California)で、父レイ(Ra Burton/1925〜2020))と母ヤン(Jan Burton)の間に生まれた。彼には2人の兄、スコット(Scott Burton)とコニー(Connie Burton)がいた。
クリフは、父親の影響でクラシック音楽に触れ、ピアノのレッスンを受け始めた。
幼い頃に死別した兄から手ほどきを受けたのが音楽を志す契機となった。クリフは兄の死後、13歳でベースを弾き始め、1日6時間も練習に取り組んだ。それは後にメタリカに加入した以降も同じように続けられた。
10代の頃、クリフはクラシックやジャズに加えて、サザンロックやカントリーからブルーズまで様々なジャンルの音楽から影響を受け、そして最終的にはヘビーメタルに興味を持った。
クリフは自身のベース演奏のスタイルに影響を与えたものとして、ゲディー・リー、ギーザー・バトラー、スタンリー・クラーク、レミー・キルミスター、フィル・ライノットの名前を挙げている。
カストロバレー高校に通っていた頃、後にフェイス・ノー・モアに加入するジム・マーティン(G)やフェイス・ノー・モア、オジー・オズボーンでキャリアを重ねることになるマイク・ボルディン(Ds)等と「EZストリート」(EZ-Street)というバンドを結成し活動した。その後、2番目のバンド「Agentsof Misfortune」で、地元のバンドコンテストに参加するなどしていた。
1982年、クリフは自身にとって最初のメジャーバンド「トラウマ」(Trauma)に参加。バンドは2回目のメタルマサカーコンピレーションでバンドと一緒にトラック“Such a Shame”を録音した。
1982年12月、クリフはメタリカ(Metallica) に加入。
メタリカは1981年10月にラーズ・ウルリッヒ(Ds)がジェイムズ・ヘットフィールド(Vo,G)を誘う形でロサンゼルスにて結成された。だが、ベーシストのロン・マクガヴニーが脱退し、その穴を埋める形でクリフが加入した。クリフとメタリカのメンバーと接点を持っタケきっかけについてジェイムズ・ヘットフィールドは「ある時、ラーズと酒を飲んでいたらとんでもないソロが聞こえてきたんだ。見たらベーシストが一人で弾きまくっていてね。ベースの音だとは信じられなかった。俺はすぐに変人ベーシスト・クリフをバンドに誘ったよ」と語っており、バンドはクリフを加入させるためにロンを追い出したと見ることも出来る。なお、当時のメタリカの活動拠点はロサンゼルスであったが、バンドに誘われたクリフは直ぐには承諾せず、最終的に「君達がフリスコ(サンフランシスコ)へ来てくれるならいいよ」という趣旨を告げる。
1983年2月、バンドは当時、ロサンゼルスよりもスラッシュ・メタルが勃興しつつあったサンフランシスコのシーンでより好意的に受け入れられていたこともあり、クリフの要求を呑む形で活動拠点を移した。バンドはそれ以降、現在に到るまでサンフランシスコを拠点としている。
4月、リード・ギタリストでメイン・ソングライターであったデイヴ・ムステインが解雇され、エクソダスのギタリストであったカーク・ハメットが加入する。これと前後して既に日本でデビューしていたLOUDNESSの高崎晃へ、メタリカ側のスタッフから加入のオファーがあったことが後に明らかになった。
7月25日、インディーズ・レーベル「メガフォース」よりアルバム『血染めの鉄槌[キル・エム・オール]』( Kill 'em All )でデビュー。本作収録曲の大半は、既にデモ・レコーディングされていた楽曲の再録なので、直前に解雇されたデイヴが作曲に関与した楽曲が4曲ある。一方、クリフはベース・ソロによるインストゥルメンタル曲“(Anesthesia)Pulling Teeth”を作った。
1984年初頭、ヴェノムのサポートとしてヨーロッパツアーを行う。
7月30日、2ndアルバム『ライド・ザ・ライトニング』(Ride the Lightning)を発表、“ファイト・ファイヤー・ウィズ・ファイヤー”(Fight Fire with Fire)、“クリーピング・デス”(Creeping Death)といった人気のナンバーを収め、タイトルナンバー"ライド・ザ・ライトニング"(Ride the Lightning)や、"For Whom the Bell Tolls"、"Fade to Black"など、クリフが曲作りに積極的に関わった楽曲も収録している。
年末より大規模な欧米ツアーを敢行。
メジャー・レーベルエレクトラとの契約を獲得し、Qプライムとマネージメント契約を締結。
1985年8月、イギリス・ドニントンパークで開催されたモンスターズ・オブ・ロックに出演。
1986年3月3日、メジャーデビュー作品となった3rdアルバム『メタル・マスター』(Master of Puppets)を発表。全米29位・全英41位にランクイン、現在までに600万枚以上の売り上げを記録し、メタリカ初のゴールド・ディスクを獲得した作品である。クリフが作曲に参加したタイトルナンバー“マスター・オブ・パペッツ”(Master of Puppets)や、クリフのベースを押し出したインストゥルメンタルナンバー“オライオン”(Orion)、クリフも作曲者に連名でクレジットされている“ダメージ・インク”(Damage, Inc.)などを収録。
「ダメージ・インク・ツアー」でヨーロッパ巡業中の9月27日早朝、就寝中のメンバーとスタッフを乗せてスウェーデンを走っていたツアー用バスが路面凍結でスリップ事故により横転、その際に窓から車外に投げ出されたクリフがバスの下敷きになり死亡。まだ24歳の若さで、余りに早い旅立ちであった。
9月27日以降のツアーを急遽キャンセルしたメンバーは翌28日、アメリカに帰国、
10月7日、クリフの葬儀に参列。
クリフを失ったバンドメンバーは落ち込むが、その後、彼の為にも活動を存続することを決意、新しいベーシスト探しを始める。だが、クリフのプレイは他人にはコピーできない程、特徴的かつアグレッシヴであったため、何人もの候補者をあたる必要があった。結局、後任ベーシストのオーディションを行い、元フロットサム・アンド・ジェットサムのジェイソン・ニューステッドがメタリカに迎えられた。だが、ジェイソンの演奏スタイルはピック奏法のみであり、2フィンガー(3フィンガー説も有力)で高速リフを弾き倒し、ベースギターを自由自在に操るプレイスタイルから「ベースのジミ・ヘンドリックス」と称されたクリフとは正反対とも言えるタイプであった。
クリフ・バートンは初期メタリカの音楽性に多大な影響を与えたコンポーザーであり、その影響はクリフの加入以前に収録曲の大半が作曲された1stアルバムと、加入後の2nd~3rdアルバムを聴き比べれば瞭然である。クリフの功績として真っ先に挙げられるのが、勢い重視でともすれば一本調子だったサウンドに叙情的なニュアンスやプログレッシブな構成美を導入したこと。そのため、この2nd~3rdアルバムをメタリカの最高傑作とするファンは多い。その背景には、クリフが少年時代、音楽スクールでクラシック音楽、特にバロック音楽を学んだことなどが関係していると思われる。 それを裏付けるように、ラーズ・ウルリッヒはクリフ在籍時のエピソードとして「彼はメロディに関して、非常に熱心に語っていた」「クリフは3rdアルバムで、少々クラシカルな作曲をしたんだ」と振り返っていた。
1987年、メタリカは『Cliff'Em All』と題した映像作品をリリース。クリフのプライヴェート・フッテージやライヴでのベースソロなどが多数収録されている。
2009年、メタリカがロックの殿堂入りを果たした際、クリフも含めた形での受賞となり、父親のレイ・バートンがスピーチを行った。
2009年4月4日、オハイオ州クリーブランドでの授賞式にてロックの殿堂入りを果たした。スピーチは、ライヴにゲスト出演するなどの親交を持つレッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーが務めた。ライヴでは、ジェイソンも参加して“Master of Puppets”、“Enter Sandman”の2曲が演奏された。クリフの両親も授賞式に出向いた。
2016年3月23日、クリフが最後に参加した1986年の3rdスタジオアルバム『メタル・マスター』(Master of Puppets)が、アメリカ議会図書館が「文化的、歴史的、芸術的に重要な録音物を保存すること」を目的に2000年から毎年行っている『国家保存重要録音登録制度』の2016年度作品に登録された。ヘヴィメタルの作品としては初の登録となる。
(関連ページ)
(参照)
Wikipedia「クリフ・バートン」「Cliff Burton」(英語版)「メタリカ」「Metallica」(英語版)
メタリカ公式サイト