レスリー・マッコーエン (Leslie Richard McKeown/1955年11月12日~)は、スコットランドの

ポップシンガー。ベイ・シティ・ローラーズ全盛期のリード・ヴォーカルとして知られる。

 

 

レスリーは、スコットランドのエジンバラにあるシンプソンメモリアルマタニティパビリオン(he Simpson Memorial Maternity Pavilion)で、アイルランド人の両親に生まれた。

 

1965年、アラン(B)とデレク(Ds)のロングミュアー兄弟と4人の友人により「サクソンズ」(The Saxons)が結成。地元のパブ等で演奏するようになる。

 

1968年、タム・ペイトン(Tam Paton)がマネージャーになり、ロングミュアー兄弟はグループ名を「ベイ・シティ・ローラーズ」(Bay City Rollers、以下「BCR」)に改称。

「ベイ・シティ」の名前はメンバーによると、米国の地図を開きダーツの矢を投げたところ、矢が刺さった「ミシガン州」に「Bay City」(ベイシティ)という名前をみつけ、これをグループ名につけた。この話は日本で放映されたテレビ番組でも取り上げられたことがある。

 

1971年夏、シングル“朝まで踊ろう”(Keep on Dancing)をリリースし、デビュー。当時のリードヴォーカルはノビー・クラークであった。この曲は全英9位になるヒットとなった。

後にギタリスト、エリック・フォークナーが加入した。

 

1973年、ノビー・クラークが脱退。後任のヴォーカリストとしてレスリーが加入。

 

1974年、レスリー・マッコーエン(Vo)、エリック・フォークナー(G)、スチュアート・ウッディ・ウッド(G)、アラン・ロングミュアー(B)、デレク・ロングミュアー(Ds)という5人編成になる。

同年10月、ファーストアルバム『エジンバラの騎士』(Rollin')をリリース。このアルバムには、全英シングルチャート(以下「全英」)でヒットした3曲、“想い出に口づけ” (Remember)、“ベイ・シティ・ローラーズのテーマ” (Shang-a-Lang)、“太陽の中の恋” (Summerlove Sensation)を収録、また、英国ではヒットしなかったものの、後に全米ナンバーワンヒットになる “サタデー・ナイト” (Saturday Night)も収録されている。

 

 

 

 

 

 

 

1975年5月、セカンドアルバム『噂のベイ・シティ・ローラーズ』(Once Upon A Star)をリリース。

フォー・シーズンズ1965年のヒット曲をカヴァーし全英で6週連続首位に立った大ヒットシングル“バイ・バイ・ベイビー”(Bye Bye Baby [Baby Goodbye])を収録した本作は、セッション・ミュージシャンに頼ることなくメンバー自身が自分たちの音楽を演奏した初めてのアルバムであった。ノビー・クラークが在籍していた1971年にシングル発売され、これまでアルバム未収録だったヒット曲“朝まで踊ろう”も、レスリーのヴォーカルで改めて録音、収録された。アルバム自体も全英1位を記録した。

 

 

 

9月、北米向けアルバム『ベイ・シティ・ローラーズ』(Bay City Rollers)をリリース。

同年11月、シングル“マネー・ハニー” (Money Honey) をリリース、英国では全英3位となり、グループ8作目のトップ10入りシングルとなった。

 

 

12月、サードアルバム『青春のアイドル』(Wouldn't You Like It?)をリリース。1曲を除いてすべての楽曲がバンド自身によって作曲されていた。唯一、グループ外から提供された曲である“恋をちょっぴり” (Give a Little Love)は、英国でスマッシュ・ヒットとなった。

 

 

同年末、“サタデー・ナイト”がアメリカ合衆国でリリースされてヒットし、翌1976年1月3日には、Billboard Hot 100 チャートの首位に立った。この曲は、バンドにとって唯一の全米ナンバー・ワンとなったヒット曲である。

 

 

結成メンバーで最年長のアラン・ロングミュアーが次のアルバムのレコーディング・セッション前にバンドを辞め、代わりに若いイアン・ミッチェルが加入。このメンバー交代に伴い、イアンがリズムギターとなり、スチュアート・ウッドがリズムギターからベースに転向。

 

1976年、ダスティ・スプリングフィールド1963年のデビュー曲にして代表曲“二人だけのデート”(I Only Want To Be With You)をカヴァー、英国と日本で大ヒットとなる。

 

 

9月、4枚目のオリジナル・スタジオ・アルバム『青春に捧げるメロディー』(Dedication)をリリース。1976年初頭にバンドが世界的な人気の絶頂に達して以降、最初に出された新しいアルバムであった。先行リリースされたシングル“マネー・ハニー”の他、“ロックン・ロール・ラブレター” (Rock and Roll Love Letter) は同年カナダで6位、米国では28位となったが、英国ではシングル化されなかった。“イエスタデイズ・ヒーロー”(Yesterday's Hero)も英国でシングル発売されなかったが、米国やドイツ、日本を含め各国でシングル盤がリリースされた。新加入のイアンは、アルバムのタイトル曲“青春に棒げるメロディー” (Dedication)のヴォーカルも担当したが、彼は同年のうちにバンドを脱退したため、それ以降にプレスされたアルバムではレスリーがヴォーカルをとったバージョンに差し替えられ、また、その後にリリースされたシングルもレスリーのバージョンがリリースされた。

 

 

 

 

イアンの後任ギタリストにはパット・マッグリンが加入。バンドとともにツアーに帯同した。

 

1977年7月、5枚目のアルバム『恋のゲーム』(It's a Game)をリリース。デヴィッド・ボウイを手掛けて成功していたハリー・マスリン(Harry Maslin)がプロデュース。本アルバムは米国でゴールド・ディスクを獲得したが、彼らの人気は当初の爆発的な成功から大きく揺らぎはじめており、本作以降のアルバムは売り上げが縮小していった。日本では人気絶頂期の1977年7月13日に発売、2週にわたりオリコン・アルバムチャートで首位となった。

 

 

米国では、“夢の中の恋” (You Made Me Believe in Magic)が先行シングルとしてリリースされ、8月には Billboard Hot 100 で10位まで上昇。米国以外では、表題曲“恋のゲーム ”(It's a Game)がアルバムからの最初のシングルとなり、各国のチャートでトップ10入り、英国では16位となった。英国のグループ、ストリング・ドリヴン・シング(String Driven Thing)の1973年のシングルをカヴァーした“恋のゲーム ”はBCRにとって、12曲目の全英シングルチャート入りのヒットとなったが、トップ10入りを逃した最初の曲でもあった。

 

 

 

「恋のゲーム」がヒットした地域では、2枚目のシングルとして“夢の中の恋”(You Made Me Believe in Magic)がリリースされるも前作ほどヒットせず、英国では34位どまりで、BCR最後の全英シングルチャート入りとなった。米国では、“愛をささやくとき” (The Way I Feel Tonight)もシングルカットされ、グループにとって最後の Billboard Hot 100 入りの曲となり、最高24位まで浮上した。

 

 

『青春に捧げるメロディー』完成後に脱退したイアンの後任パット・マッグリンは『恋のゲーム』の録音セッションに当初から参加していたが、程なくしてバンドから追われたため、完成したアルバムは4人編成のBCR作品とされ、パットが参加した痕跡は見出せない。

 

1978年初頭、創設メンバーのアラン・ロングミュアーが2年ぶりに復帰、5人組に戻ったが、アランは脱退前に担当していたベースから、復帰後はリズムギターに転向した。

同年、6枚目のアルバム『風のストレンジャー』(Strangers in the Wind)をリリース。

エア・サプライのヒット曲を手掛けたハリー・マスリンがプロデュースを担当した。日本ではオリコン5位と健闘するが、全米では129位。新しいアルバムのソフトロックはファンに受け入れられることはなく、3つのシングルのそれぞれが米国のチャートに入らず、かろうじて“Where Will I Be Now”がドイツで48位となった程度だった。

 

 

 

 

同年秋、3度目の来日公演を最後に、レスリーが脱退。新たにラビットから、ダンカン・フォールが加入し、グループ名を「ザ・ローラーズ」に改称して活動を継続、1979年『エレベーター』(Elevator)、1980年『ザ・ヒーロー』(Voxx)、『リコシェ』(Ricochet)をリリースした。

 

1979年、レスリーがファーストソロアルバム『All Washed Up』をリリース。

 

 

 

1980年、レスリーのソロアルバム『The Face of Love』をリリース。さらに『100% Live』、『The Greatest』をリリース。

 

1981年、BCRが解散。

同年、レスリーのソロアルバム『Sweet Pain』をリリース。

 

1982年、レスリーのソロアルバム『Heart Control』をリリース。

 

同年、早くもBCRはレスリーも参加して日本公演を行い、大盛況となった。

 

1983年夏、わずか半年しか在籍していなかったイアン・ミッチェルとパット・マグリンも加えて東京で公演(パットいわく「やっぱり変な気がしたよ」。彼は前年にイギリス東芝の邦楽系レーベルから3度目のデビューをしていた)。

12月、イアンが新たに結成した「バチェラー・オブ・ハーツ」(BACHELOR OF HEARTS)がパットを加えて横浜で公演、このバンドは唯一のアルバム『青春のポートレイト』(On The Boulevard)と、ヒット・シングル“涙のジェニー”を遺して、解散した。

 

1985年、BCRは再結成し、アルバム『ブレイクアウト』(Breakout '85)を1枚発表(日本のみ)。

 

その後、レスリーがリード・ギターのエリックとグループ名を巡って争ったことがあった。後にレスリーが「Les McKeown's Legendary Bay City Rollers」、イアンが「Ian Mitchell's Bay City Rollers」という名称でツアーグループとして活動した。

 

1989年、レスリーがソロアルバム『It's a Game』をリリース。

 

1993年、レスリーがソロアルバム『Love Letter』をリリース。

 

 

2000年、北米向けにBCRのコンピレーションアルバム『The Definitive Collection』をリリース。

 

2002年、日本向けにコンピレーションアルバム『ベスト・オブ・ベイ・シティ・ローラーズ』をリリース。2000年に北米向けとしてリリースされた『The Definitive Collection』と同内容。

 

 

2007年3月20日、LAのロイターが伝えたところによると、未支払いとなっている印税数百万ドルをめぐって、メンバーは当時在籍していた米国のレコード会社を訴えた。ニューヨーク地裁に提出された訴状などによると、同グループは世界中で少なくとも7000万枚のアルバムセールスがあったにも関わらず、アリスタ・レコード社が過去25年余りの間に支払った印税は25万4000ドル(約3000万円)だったという。ソニーBMG傘下のアリスタ・レコードの広報は、この件についてノーコメントの立場をとっている。

同年8~9月、オーストラリアでCountdown Spectacular2コンサートが開催された。このコンサートは、1970年代から1980年代に現地で放映されていた『Countdown』と呼ばれるテレビ音楽番組のリバイバル・コンサートで、レスリーが元ベイ・シティ・ローラーズとして出演。“二人だけのデート”、“恋をちょっぴり”、“バイ・バイ・ベイビー”を歌った。

 

2015年、「Bay City Rollers Reunion」名義でアルバム『A Christmas Shang-A-Lang』をリリース。

 

2016年2月20~22日、レスリーとアランが来日し「Bay City Rollers JAPAN Tour」が行われた。20・21日の東京公演は「Mt Rainier Hall」(2日間4公演)、 22日の大阪公演は「Billboard Osaka」(2公演)。

同年、レスリーがソロアルバム『The Lost Songs』をリリース。

 

2018年2月、レスリーが「Bay City Rollers starring Leslie McKeown」名義で来日。

6月、ウッディが「Bay City Rollers featuring Woody」名義で来日。

7月2日、アランがスコットランドの病院で死亡。70歳没。なお3週間前に妻と一緒にメキシコに旅行に行っていたが、体調を崩し帰国していた。

 

2019年、レスリーが来日公演を行う。

 

2020年2月、レスリーが来日公演を行う。

9月1日、イアンが死去。62歳没。

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ベイ・シティ・ローラーズ」「Les McKeown」(英語版)「Bay City Rollers」(英語版)

Les McKeown公式サイト

lesmckeown.com