今年に入ってから、お寺に座禅をしに行っています。

まだ通算して10回弱くらいですが、続いているということは私にとって必要か、私が好きということだと思います。

昔から興味はあったのですが、思い立って調べて行ってみました。

ちょっと遠いので毎週は行けてないのですが、一か月空いても行きづらくならない感じが好きです。

 

 

今日も座禅に行ってきました。

座禅の間は特に浮かばなかったのですが、座禅のあとは茶話会という参加者とご住職とでお話をする会があり、そこで話た帰りに車の中でふと浮かんできたのが、昔の悩みが今は解消されたなーという実感でした。

今は今で別の悩みがありますが、以前抱えてた問題は今の私にとっては些末なことに思える、というのを実感したのがとても印象的でした。

 

10代の頃はとにかく必死でした。

何と戦えばいいのか、何が問題なのか、そもそも私はなんなのか。

なぜ私は集団に馴染めないのか、なぜ私は皆と違うのか、なぜ私は普通じゃないのか。

とても見苦しくもがいていたなぁと思います。

 

20代の頃はとにかく性別と戦っていました。

男であることに抗いながら、男であることを払しょくできず、しかし認めることもできず、かなり尖っていたと思います。

そしてこの頃私を苦しめていたもう一つの問題が『一門の人物にならなければ』という強迫感でした。

世間に認められる何かしらの功績を残せるようにならなければ……という強迫感は、実のところは「ちゃんと働いてお金を稼いで自分で自分の世話をできるようにならなければ」というものでした。

それがあまりにも自分には困難に思えていたのです。

それこそ「世間が認めるクリエイターになる」くらいの課題感でした。

散々自傷していた時期でもあります。

 

30代の頃の性別との戦いは後半戦でした。

成したことが自分の理想と違った、ということに気付かされ、女として生きれるようになるという地点が私の到達点ではないということを知りました。

もう一つ大きなが課題が、親との関係性でした。

自分の生き辛さの原因は親だ! ということがわかり、必死に心理学を勉強してアダルトチルドレンやアドラー心理学などで自分の苦しみを取り除こうとしていました。

思えばこの頃は、とてもいろいろなことが不安だったのだと思います。

実家を出て暮らしはじめ、仕事もいろいろと変わった時期で、未来のことも今のことも心配ばかりで、10代の頃とはまた違う形で混迷を極めていました。

 

ただ、38歳のときに今の会社に就職できたことで、いろいろなことが解決して、一つ上の段階にこれたような実感もあります。

親との関係性の問題は、解決してみればシンプルでした。

「私が親から欲しかったものを、親達も親からもらってないから、私に渡せるものがないのだ」という結論に至りまして。

そして、結局私が望んでいる「無償の愛」などというものはこの世に存在しないのだということがわかり、そもそも『無償の愛なんてなくても生きていける』ということにも気づきました。

自分は愛されていなければならない、という呪いを自分でかけていたのですね。

そこを「愛されている必要ないが、愛されていたいなら、愛される自分になればよくて、それはつまり自分にも他人にも素直でいることが前提なのかも」と気づきました。

それでいくつかの問題がふわっと解消してきた気がします。

 

 

そして去年40歳になった私は今、10代20代と悩み続け、30代になって解消したと「思い込んでいた」問題と再び向き合っています。

性の問題、要はセックスの問題ですね。

これを解決する方法が多くあり、行動を阻害する要素が少ない、要は結婚していない状態だった若いころに向き合っておけば今ここまで思い悩むこともなかったのでしょう。

性別の問題がこの性の問題に向き合うことを邪魔していたという面があるので、今向き合ってるのはある意味性別の問題がある程度は解消した(受け入れることができた)ことの証明なのでしょう。

しかしもし記憶と経験を引き継いだまま20歳に戻れるなら、違う選択肢を選んでみたいと思いますね。

あの頃に戻れたらどうするだろう、ということをここ1年くらいよく夢想するので、歳をとったなぁという感じがします。

 

 

ただ今日思ったのは、10代の頃も20代の頃も30代の頃も、あとになって問題が解決するとは思ってなかったんです。

こんな風に、当時の悩みを1行で解釈できるようになるとは思ってもいなかった。

だから、結局今の悩みも50歳になったころには「あの頃思い悩んでたことは結局こういうことだったんだなぁ」という風になっている可能性が高いです。

いろいろなことができなくなって、やりたいと思うことも減るかもしれません。

それならそれで、できなくなれば諦めもつくというものです。

選択肢が少なくなればなるほど、選ぶのが簡単になります。

 

なので、歳をとって老いていくのも、悪いばかりではないなと思いました。