死にたいについての記事は一旦お休みします。
何回か試筆してるんですが、頭にあったことを1と2で大体書いてしまったらしく、うまくまとまらないので仕切りなおします。
 
今回は自己否定について
 
いつからかわからないのですが「自己肯定感UP」という言葉をよく見かけるようになりました。
アダルトチルドレン関係のことを調べてると特によく見かけるんですが、これについて私がすごく納得のいく考察をしている記事があったので、よろしければ読んでみてください。
ざっくりまとめると、自己肯定感をUPできるのは自己肯定感がすでにある人であって、自己を肯定できない人が自己肯定感UPとか無理に決まってんだろ、という内容です。
私はすごく納得いきました。
そしてこれに近い感覚のものを探したときに、中学生の数学が思い当たりました。
 
因数分解か関数か、確かそのあたりで「これがなぜこうなるのか、理屈がわからない」となってしまい、完全に置いてけぼりになったときの感じです。
方程式や公式の使い方がわからないのに、数学の成績を上げろ、と言われているのと似てるなーと。
足場もなく手が届かない場所の高みを目指せ、と言われても無理なんですよ。
 
罪悪感の話に少し関連しますが、自己肯定できてない人にとって、自己肯定感を上げて幸せになろう的な文言は逆効果だと思います。
幸せになること=自己肯定感を上げること、なのだとしたら、自己肯定できてない自分をまず否定しなければいけないので。
「自己肯定感の低い自分はダメだ」という出発点がまず自己を肯定できてないんですよ。
 
そもそも自己肯定感ってなんなんだろう、ちょっとよくわかんないんですよね。
自己肯定はわかりやすいです。今の自分でOK! とすることなので。
それは「自己を否定していない」ということで、つまり「自己否定してない=自己肯定してる」なのでは、と思いました。
自己を肯定するっていうのは、自己を肯定するのに慣れてないorしてきてない人にとっては、よくわからない概念だと思います。
でも、自己否定ならわかりやすいですよね。
自分を否定することに長けているために、自己肯定から遠ざかってるのだとしたら、ある意味自己否定のプロフェッショナルなので、自己否定を否定する方向の方がしっくりくるのでは、と思いました。
 
自分OK! 自分にYES! 的なのはちょっと……と私はなるので、だったら「自分NO! いやいや、それがNOだから、自分NOがNOだから、ダメ、それやめ」って感じの方がちょっと楽。
マイナスをプラスに変換するのがしんどいなら、マイナスをマイナスして打ち消して0にするところからやってみたらどうだろう、という試みですね。
結果的には同じところに向かうわけなんですが、気分的にだいぶ違うと思います。
 
NOがNO、ダメがダメ、よくないがよくない。
となると、
じゃぁ何がYESなの? 何ならいいの?
となるんですが、たぶん「なんでもいい」んだと思います。
それが自己肯定、ということなんだと思います。
 
 
さて、表題の「自己否定の裏には誰かがいる」ということについてですが、私はこれはほぼ自分の理想を体現している他人」だと思っています。
SNSで他人の生活や功績やなんやかんやを見て、焦ったり凹んだりしてる場合は大体「あの人みたいになりたいのになれない自分はダメだ」と感じてるのではないかと思います。
同じステージのセンターで輝く人と、端っこで埋もれている自分、のような構図なのかもしれません。
いずれにしろ、相手と自分を同じステージに置いているわけです。
これが違うステージの他人なら、自己を否定するまではいかないと思います。
 
例えば、私はギターが弾けないので、ものすごく上手いギタリストを見ても「かっけー!」で終わるんですが、ドラムが叩けるので、アマチュアで上手いドラマーを見ると「あんな風に叩けない、あんな風に叩けるにはどうしたらいいかわからない、グギギ」となります。
プロのドラマーにはそうは思いません。そりゃープロはうまいよな、程度です。
これが自分と他人を乗せるステージの違いかなと。
 
 
余談ですが、そんな感じで私はドラマーを見るたびに悔しかったり惨めだったりしたんですが、ある時「世界一上手くはなれないが、世界一楽しそうにはできるのでは?」と思い、技術や手数ではなく、どれだけ笑顔で楽しそうに叩けるか、を意識するようになった結果、上手くない自分をダメだと思わなくなりました。
上手さを競うステージから降りたんです。
私のドラムを聞いた周りの人が私を褒めてくれる時、私のことを「上手いドラマー」とは言いません。
良いドラマー、と言ってくれます。私はそれがとても嬉しい。
音楽の世界は上手さしか評価基準がないと思っていたのですが、そうではないということを知れた貴重な経験でした。
 
私は最初「私より上手いドラマーと比較して自分は劣っているので、自分にダメ出ししていた」のですが、楽しそうを基準にしたとき、比較対象が「前回の自分」になったような気がします。
他人がどうやって上手くなったのかはわかりませんが、自分が前回どうだったかはよくわかります。
前回意識しなかったことをやってみよう、前回よりもうちょっと曲を聴き込もう、などなど、前回の自分を参考にすればやれることは意外とわかりやすいです。
そしてなにより、劣っているかを評価しなくて済むんです。
なんせ、楽しそうに演奏するってことは、楽しいから楽しそうに見えるわけで、つまり楽しかったんです。
楽しかったならそれはもうその時点で満点です
もちろん、楽しいに重きを置かない人もいます。
そういう人からすれば私は「意識の低いダメなヤツ」かもしれませんが、何を満点とするかは私が勝手に決めていいことなので、私はいつも満点でもいいのです。
 
過去も今も未来も、自分のことであれば「何を良しとするか」は自分だけで完結できます。
しかし他人を入れ込むとそうはいかず、劣っていると感じれば勝手に傷つき、優れていると感じれば追い付かれないよう焦り、自己を否定したくないあまりに周りを蔑んで自尊心を守ろうとしている自分に気づいて凹み、最終的に「人と関わると自分が傷つくだけ」と定め、孤独を深める可能性もあります。
自分が勝手に、他人と自分を比較しただけなのに、まるで他人に攻撃されているかのように感じるわけですね。
他人というアバターを利用して裏から自分で自分を攻撃してるわけです。
これは相当にしんどいです。
 
 
自己否定……自分にダメ出ししているときは、自分の理想を体現している誰かが裏にいるか、探ってみてもいいかもしれません。
もしいたら、自分はその人の何かが羨ましいのです。
その羨ましい部分の表面を剥いで剥いで、シンプルになったところが、本当に自分の求めているものです。
大金持ちになりたいとか、有名な作家になりたいとか、美しくなりたいとか、いいねがたくさん欲しいとか、そういったものは一番表層の部分でしかありません。
なぜ大金持ちになりたいのか? 欲しいものがなんでも買えるから……では何が欲しいのか? といった風に、なぜが出なくなるまで突き詰めていくと、大体答えはとてもシンプルで、その表層部分を手に入れなくてもできることがほとんどです。
 
安心したい、充足したい、楽しいを感じたい、何かを好きになりたい、何かに没頭したい、何もしない時間がほしい、誰かに褒めて欲しい、誰かに必要としてほしい、誰かとわかり合いたい、誰かとつながりたい、などなど、こんな風に余計なものを削って自分の願いをシンプルにすれば、それを叶える方法は実はいっぱいあることに気が付くでしょう。
そういう意味では、自己否定はとても貴重なシグナルです。
私はダメだ……と感じているときは、自分が求めている願いが見えやすくなってるわけです。
見えやすくなってるといっても探さないと見えないのですが、昼間に星を探して見つからないけど夜に星を探せば見つかる可能性がある、みたいな感じかなと。
 
 
自分はダメだと感じたときは、とりあえず「ダメはダメだ、ダメでもとりあえずイイ」として「しかし何がダメなんだ? ダメじゃない状態ってどんなだ?」と考えてみるのがいいかも、と思います。
その結果、ダメじゃない状態がわかれば、それが自分の理想の一つの形態ということなので、それの表面を削いで削いでシンプルにしましょう
そのシンプルな願いと叶えるために、今の自分で手が届きそうなものを探してみましょう。
手が届きそうなものがない、と感じた場合は、削ぎが足りません。
同じステージにいる以上は手が届きます。
違うステージのものであれば、そもそもそれと比較して自己否定しないので、自分がそれを願っている可能性は低いです。
削いで削いで、それでもどうしても手が届かない、願いを叶えられる気がしない、となったら、一度ステージを降りましょう。
もしまた上がりたければ、ステージはいつでも上がれます、だって一回そこにいたんですから。
でも、降りたステージには未練を感じないことも多いと思います。
一体何を求めてあそこにいたんだろう、と思うと思います。
 
問いかけて、探して、削ぐ。
願いをよく見て、手段を探して、試してみる。
ダメなら移動して、またやる。
それを繰り返せば、怖いものも辛い時間も減っていくでしょう。
 
 
ちなみに他者からの否定は受け入れなくていいです。
感情的な否定は基本的に役に立たないので「ふーん、左様でございますか」でいいと思ってます。
気分や機嫌で変わるモノサシで殴り合いをしても辛いだけですからね。
 
感情的でない否定は、否定という形をおそらくしていません。
問題提起とか、疑問とか、アドバイスとか、ただの主張、になるかなと思います。
それは利用できそうなら受け止めて利用してもいいと思います。
攻撃的でなく、感情的でない異論はけっこう一理あることが多いので。
受け止めて吟味した結果、なんか違うと思ったら、ぽいっとしていいと思います。
納得いかないことを持ち続けても結局納得しない限りただの荷物なので。