自分と違う常識があることを理解できるのは、普通ではない優れた人、という意味ではありません。
自分の常識が周りの常識と違うことで苦しんだことがある人は、周りが自分と違う常識の上にいることを実感しやすい、という意味です。
 
私が関わっていることではないのですが、先日こんなことがありました。
 
Aさん
・ネットゲームの中のグループで、ログインした瞬間にパーティー招待を送ってくる
・誰かと一緒にプレイしているときに、平気で長時間周囲を待たせることがある
・何かを決めるとき意見を出したり決定したりせず、他人に任せることが多い
 
この人の振る舞いが気に入らない、という人たちがいて、その中にウチの奥さんがおり、話を聞いてみました。
ウチの奥さん(たち)の言い分的にはこういう感じでした。
 
不満サイド
-パーティー招待は断りづらいのに、ログインした瞬間に招待を送るのは常識的じゃない
-みんなで何かをやるとなってから用事を済ませに離席するのは常識的ではない、事前にやっておけばいい
-ゲーム内のグループで上位の権限(グループ全体の便利機能の補充や使用)をもっているのにまったくやらない、すべきことをしてない
 
ちなみに私も同じゲームをしているので、今はほぼ関わりないですがAさんも不満サイドもどっちもどんな人か多少わかっています。
 
 
私はこのAさんの気持ちがよくわかります。
そして不満サイドが不満に思うのもわかります。
そのうえで、これは不満サイドに問題があると思いました。
私が感じた不満サイドの問題はこれです。
 
常識なんだから言わなくてもわかるハズなのに、平気で常識はずれなことをするのは悪意だ、と感じている
 
話を聞くと、不満サイドはAさんに不満を伝えていないのです。
伝えてないのに「わかるハズなのに嫌なことをしてくる」と言っているのです。
 
その言い分もわからんでもないです、自分にとって考えなくてもできることは、常識として意識することもありません。
できて当たり前、知ってて当たり前なのです。
これが「世間一般の常識」を土台にしているか、それに近い形をしているほど、仲間が多いので齟齬がうまれにくいです。
 
この常識というのは、要は『大多数の意見が一致してる事柄』です。
 
正しいこと、ではありません。
正しくなくても「大多数がヨシとすれば」それが常識となります。
そしてなぜか「大多数がヨシとするものは正しいので、それを知らない・それに沿わないのはおかしい」と思うようになります。
 
近い言葉に『普通』というのがありますね。
私は子供のころからよく「普通じゃない」と言われてきた経験があるのですが、何が普通なのかよくわかりませんでした。
なぜなら私にとっては私が普通なので。
おそらくAさんもそうなんだろうなと思いました。
そして不満サイドを客観的に見ることで、常識や普通を利用している人の心理が見えました。
 
 
常識や普通を利用している人は、コミュニケーションを限りなく省略したい人なのではないか、ということです。
 
 
この人たちが共有する「常識・普通」に沿えば「そんなこといちいち言わなくて済む」んですよ。
この「そんなことをいちいち言う」ことをしたくないし、する必要もない、と思っているわけです。
する必要がないと思っていることが問題なんですが、なぜする必要がないと思っているかというと「自分が大多数が共有している暗黙のルールという最強の武器を持っているから」かと思います。
常識の呼吸・壱ノ型 正論斬、みたいな。
 
私はこの常識を武器と盾にして言わなきゃわからないのはおかしいし、言ってもわからないから言わない」というのが大嫌いです。
 
言わなきゃわからない人がこの世にはいます。
言ってもわからない人がこの世にはいます。
一度言っただけではわからない人がこの世にはいます。
自分と違う常識の上に住んでる人はこの世にいっぱいいます。
 
この土台にしている常識が自分と違う場合、相手の感覚が理解できません。
自分が嫌だと感じないことは、他人が嫌だと感じることが理解できないんです。
私はシソが大嫌いで、シソが大好きという人の感覚は理解できません。
同様に、シソが大好きな人は、シソが大嫌いという感覚が理解できません。
これは理解できなくて当然だと私は思います。
ただ私は「とんでもないことだと思うが、シソが好きな人がいるらしい」という認識はあります。
周りの人も「こんなおいしい物を嫌いだなんてありえないと思うけど、どうも嫌いな人がいるらしい」という認識があると思います。
これはあくまでも認識なので、とても浅いところにある概念だと私は感じています。
対して「実感」というのはとても深いところにある、根のところの概念だと思うので、実感と認識では実感の方が無意識に近く、優位です。
無意識はとても深いところにあるので、基本的に人は実感で行動すると思います。
これを制御するのが上手い人をいわゆる「大人」と表現するのだと私は感じています。
 
例えば、飲み会や食事会でシソの入った料理が出て、幹事の方がそれを取り分けるときに、全員にシソの料理を取り分けたとします。
この幹事の方は私がシソが大嫌いなことを知っています。
 
ここで、これを悪意と感じる人もいるし、感じない人もいます。
 
騒がしい店の中で初対面の人がいる状況で必死に立ち回ってるっぽいなと思ったら、私は悪意だとは感じません。
なぜなら、同じ状況で自分だったら他人の好き嫌いに配慮する余裕なんてないと思うので、そりゃ「不公平感が出ないように全体に行き渡らす」を優先するのは当然、と思うからです。
が、こういう状況でも慌てず情報を処理して行動できる人は、この幹事の人に余裕がないことが理解できず、自分が嫌いなものを知っているハズなのに寄越した、と悪意として認識するかもしれません。
 
実感できてない表層の「認識や知識」を都度都度取り込んで行動できる人は、脳の処理能力が高いのだと思います。
そして、脳の処理能力が高い人は、脳の処理能力が低い人を「実感として」理解できません。
私は脳の処理能力が低いので、脳の処理能力が高いと思われる人の発言には度々途方に暮れています。
 
「何度も言っているのになぜできないのか」
「わかってるのになぜやるのか、わかってるのになぜやらないのか」
「伝えていて知っているのにわからないとはどういうことか」
 
これらを言われることが度々ありますが、言われてもこちらは「よくわかんない」んです。
やれるならやってるし、やれないことはやる能力が無いんだよ、しか言えませんし、詰問されたり責められたりしてるときにそれを言えるほどの脳の余裕がありません。
 
「嫌だと言っていることをなぜやるのか」
 
ということもよく言われるのですが、これを言う人に正直な回答をすると大体怒ります。
 
「嫌だということが理解できないから」
 
でも本当にこうなんですよ。
この人がこれを嫌なのは「知って」るけど、その認識を行動に反映する脳のリソースが無いんです。
そして「嫌だと言っていることをなぜやるのか」と言う人は大体「嫌だということが理解できないことが理解できない」んです。
 
端的に言うと、「できて当たり前」の人の方が強者で「できないのが当たり前」の人の方が弱者になります。
 
冒頭の話に戻りますが、私はこのAさんは私と同じ「できないのが当たり前」の人だと感じました。
不満サイドは「できて当たり前」の人たちで、そういう人の方が数が多いので、意識するまでもなく強者なのです。
そして数の多い強者が常識を剣と盾にして「わかるハズなのだからあいつの行動は悪意だ」と『本人には言わずに仲間に愚痴る』んです。
発達障害や障碍者がいじめられる原理はこのあたりにもあるかなーと思いました。いじめられた経験があるので。
 
 
Aさんはその後、不満サイドの誰かがログイン後にすぐPT招待は不快だからやめろと伝えたようで、ログイン後にすぐPT招待をしないという配慮を常に行うにはどうしたらいいのだろうか、といったことを言っていたようで、奥さんはこの「配慮」という言葉が気に入らないと言っていました。
これは配慮ではなく常識、マナーである、と。
 
ここでも私はAさんの気持ちの方がわかるなと思いました。
たぶんAさんはログイン後すぐにPT招待をされても嫌ではないのでしょう。
おそらくゲーム内で待たされるのも苦ではないのでしょう。
なので『自分がされて嫌ではない』『実感できない認識』を『無意識の領域に落とし込む』にはどうしたらいいのか、と言っているのだと思いました。
一方不満サイドは、『ログイン後すぐにPT招待されるのは不快という実感』があるので『ログイン後すぐにPT招待しないというルールが無意識にある』状態です。
 
立っている土台がまったく違います。
互いに知らない言語で話してるようなものです。
土台にしている常識が違うというのは使用言語が違うくらいの齟齬があると思うのですが、どうもそういう認識をしている人は少ないようです。
 
私も何度もこの「認識レベルのものを無意識に落とし込む」努力をしました。
が、無理でした。
無意識レベルにもってくには「相手と同じくらい嫌い(好き)になる」必要があるのでは、と思っています。
相手にとって重大事でも、実感としてわからなければそれは自分にとっては取るに足らない些事にすぎません。
それは悪意や蔑ろなのではなく、わからない、のです。
ここで「わかって当たり前なのに」という甘えがあると、相手が自分を大事にしていない、どうでもいいと扱っている、と拡大解釈しがちになります。
加害者がいないのに被害者が生まれます。
被害者が先に生まれて、相手を加害者にするのです。
メンヘラやモラハラ、毒親なんかにはこういう構造がよくあると思います。
 
自分がどんな悪いことをしているのかわからないのに自分に非があると言われる状況です。
 
そして「なぜかわからないけど自分が間違っているらしい」と自己を否定し、なぜなのかもわからないので改善の仕方もわからず永遠に自分を責める以外できない、という状況になります。
最初の方で少し触れましたが、よくこの加害側になる「常識的な人」はコミュニケーションを面倒だと思う人が多いです。
他人とコミュニケーションをとりたくないから「多くの人が利用している常識を使ってやりとりを省略しよう」としてるのかな、と思いました。
なので「どうしてそれが嫌なの?」と聞いても教えてくれません。
話すのが面倒、言っても理解できない、という回答が多いです。
この「なぜ?」というのを繰り返すことで、表層の認識を少しずつ実感に近づけることができるのですが、「わかって当たり前のことをなぜ細かく話さなければいけないのか」と思うのか、話すことを嫌がります。
伝えることはしないのに、わかって当たり前というスタンスは崩しません。
「伝えないならわからなくて当たり前」という常識が無いのです。
 
 
コミュニケーションを省くのは確かに楽です。
わかってることが共通しているのはとても楽です。
しかし、自分のいる土台を共有している人が多いとしても、全ての人がその土台の上にいるわけではありません。
自分のいる土台以外の土台があるということは、その土台には書いてありません。
 
それを知り、理解するには「自分と違う常識で生きている人がいるということを実感する」必要があります。
 
諦めや妥協の繰り返しになると思います。
期待を折られたり失望したりがっかりしたりの繰り返しです。
しかしおそらく、人は失望した分くらい誰かも失望させてます
期待を裏切られたと感じるほどに、誰かの期待を裏切っているでしょう。
「そういうもんだからしょうがないか」と思えるようになったら大したものです。
どうしてもそう思えない場合は、関わらないようにするのがいいです。
関わらないことを相手に期待するのではなく、自分が関りを断つのです。
被害者になるのは簡単ですが、被害者でいる限りは「加害者が責任をとって自分の損失を補填すべき」という状態になり、相手がどうにかしてくれるまで自分は頑としてそこから一歩も動かない場合、相手が「何が加害なのかわかっていない」としたら、延々と不満をまき散らすだけで何も解決しません。
アダルトチルドレンが「自分をこんなに苦しい境遇に置いた親を許せず、加害したのは親なのだから親がどうにかすべきと考えている」状態に似てます。昔の私がそうでした。
 
違う常識を土台にしてる人が「どうしたらいいのか、なぜなのだろうか」と思っていたら、面倒でも相手が実感を得るまで何度でも同じことでも話してあげたらいいです。
それが嫌なら自分から離れるのがいいです。相手から離れてくれるのを期待するのはやめましょう、無駄です。
どうにかしようとしていて、かつ言語が通じるだけだいぶマシです。
この世界の9割以上の人には「言葉が通じない」のですから。