みなさんはご飯を食べるとき何を基準に決めていますか。
そのとき食べたいもの、手に入りやすさ、カロリーの量、栄養素、ちょうどいい量、金額、などなど要素はいろいろあるかと思います。
どれか一つで決めるのではなく、おそらく優先順位ごとに考えてベストなものを選択しているでしょう。
それに脳のリソースをものすごく消耗する人もいるし、難なくできる人もいるでしょう。
私は、ものすごく消耗する人です。
なので、毎日同じもの、毎週同じものを食べても平気です。
食べたいものや食べるべきものを都度考えるのに比べたら全然いいです。
 
基本的に私が何かを選ぶときに規準にするのは「価格だけの価値が本当にあるかどうか」です。
そして「その価値を今自分が必要としているか」もあります。
なぜなら自分がそれを必要としているかどうかは、状況は気分や調子で変わるからです。
なので、自分のことがわからないと選択がとても難しいです。
私は自分のことがよくわかってる時間の方が少ないので、とても難しいことの方が多いです。
そうなると、とりあえず無難な選択をし続けることになります。
楽で、なにより知っているものは安心なので。
 
今これ書いてて思ったんですが「楽しい」と「気張らなくていいの楽」って、感じは一緒なのにまったく方向性が違うのおもしろいですね。
動の楽しいと、静の楽。なんか不思議。
 
そんなわけで、自分とつながっていて自分の求めてるものがわかる状態でないと、選択肢が多いほど私は食事の選択がとても難しいです。
「自分と繋がってない感覚」はわかるようになってきたんですが、意識的に繋げるのは難しいです。
そしてもし繋がっていても、自分に対して自分から許可がなかなか降りません。
「価格だけの価値があるか」という基準を満たせるかどうか、自分で自分にプレゼンして予算を勝ち取らなきゃいけないんです。
 
コンペかな?
 
毎回そんなことやってらんないので「じゃぁいつも通りでいいっす」ってなるわけですね。
ちなみに私は衣類もそんな感じです。
服の数が多くても、選択肢の中にいれられる数が少ないので、結局同じものばかりローテーションしてます。
安くて丈夫で冬寒くなく、夏乾きやすい服が好きです。
昔はいろいろ着てみたこともあるんですが、デザイン的に好きな服が大体「着心地が悪い」「ポケットがなくて不便」「寒い」「似合わない」等の理由で着なくなってしまったので、デザインで服を選ぶのをやめました。お金がもったいない。
そういう理由ではないですが、スティーブ・ジョブスもいつも同じ服着てましたね。
服を選ぶというタスクを無くすためだったそうです。合理的。
ファッションに娯楽要素を見出していないか、娯楽としてのファッションを必要としてない人にとって、衣類は「快適に過ごすための装備品」にすぎないんですよね。
 
食事もそういう側面は大いにあると思います。
娯楽として食事をしない人は、必要な栄養をできるだけ体に負担がかからないように安価で短時間で摂取する、というのが合理的です。
ご褒美として自分に「食」を与える人は、食べることに娯楽としての魅力を感じるのでしょう。
多かれ少なかれ食というご褒美はみんなあるとは思います。
ただ、そのご褒美を自分に与えるハードルの高さがかなりまちまちだと感じました。
私はかなりハードルが高いと感じています。
 
 
娯楽としての要素を強く感じるほど、そこにコストをかけるのが悪いことのように感じます。
自分に何かを与えることに罪悪感を覚えるってことです。
その根底には「もったいない」という意識があるなと、私は感じています。
このもったいないは「お金がもったいない」なんですが、私は食による喜びを感じにくいと認識しているのか、お金のかかるいいものを食べて自分を喜ばすことは「コスパが悪い」と思ってるようです。
 
例えば1500円でリンツのチョコを買うとしたら、スーパーで1500円分の神戸ショコラとカレドショコラを買った方がいい、と考えます。
リンツのチョコも神戸ショコラもカレドショコラも私にとってはおいしいチョコです。
それぞれにおいしさが違うのはわかります、リンツが一番おいしいです。
私の中ではリンツのおいしさを5としたら、神戸ショコラやカレドショコラのおいしさは3です。
そして私は5を少ない機会で食べるより、3をいっぱい食べれる方がいいんです。
おいしくてもいっぱい食べれないリンツはコスパが悪く、買おうという意識が出てきません。
ギフトであげるのはいいし、ギフトでもらうと嬉しいけど、自分で自分へのギフトにするという選択肢はないです。
 
ゲームなんかは娯楽の最たるものかもしれませんが、これも同様で、STEAMで気になるゲームを見つけたときに、皆が定価でそれを買うのが理解できません。
クリエイターにしてみれば私みたいなのはまったく歓迎されない存在だとは思いますが、私は「おーこのゲームよさそう、50%オフまで待とう」と自動的に思います。
50%オフにならないと買えない=やれないゲーム、という認識をするので、全然そのゲームが自分とつながってません。
いつまでも50%オフにならなければ、一生やらないでしょう。
たぶんですが、そのゲームをやって自分が喜ぶ保証がないので、買うのがギャンブルなんでしょうね。
なので、ハズレることを前提に、ハズレても大丈夫なコストにならないと「手に入らないもの」として分類します。
この「手に入らないもの」に分類するのが重要です。
手に入らないと思えば、さほど欲しくなくなるのです。
 
私は我慢が大嫌いです。
大嫌いなんですが、子供のころからとてつもなく我慢しまくって生きてきました。
我慢する要素が普通の人より多いのは、若干の発達障害要素があるからかな、と思います。
我慢するストレスが尋常じゃないので、ならばできるだけ我慢しなければいけない要素を減らそう、としたわけですね。
そこで編み出したのが「欲しくない戦略」だったのでしょう。
欲しい、やりたいは、手に入らない、やれないとなると我慢しなければなりません。
なので、欲しくない、やりたくない、に変更すれば我慢しなくてすむのです。
おそらくどうすれば変更できるのかを模索した結果、「手に入らない」「自分には不可能」と認定し、地続きの世界ではなく、自分とつながってない遠い世界としたのでしょう。
 
定価8,000円のゲームは私にとって遠い世界ですが、これがセールで1,980円になったとき、ようやく地続きになる、みたいな感じですね。
食事に関してもそうです。
お惣菜を探しに行くとき私は無意識に、値引きシールの貼ってないものは除外しています。目にも入ってません。
定価のお惣菜を買う権利を自分にもたせてないんですね。
じゃぁ値引きのものがなかったらどうするのか? というと、何も買いません。
家にある何かを食べます。
奥さんがけっこうシェアしてくれるので、そのおかげで「自分の選択肢にないもの」を食べる機会に恵まれています。
一緒に買い物してるときはお金払うのは大体私なので、お金の出どころは一緒なのに、奥さんがカゴにいれるのはOKでも自分でカゴにいれるという行為が私はできないんですね。
 
 
楽器などは食事よりはるかに金額がでかいので、なぜそれが買えるのに定価の惣菜が買えないんだ、と奥さんは疑問に思うようです。
わからんでもないですが、これには自分なりにちゃんと理由があります。
楽器も基本的に私は「高い物の良さがよくわからない」なので、必要な条件を満たして可能な限り安いものをセールを待ちながら可能な限り安く買える場所を探して買う、ということをしています。
とはいえ生活に必須じゃないので、娯楽っちゃ娯楽です。
娯楽の楽器にお金を使えるのに食べ物買えないとかちょっとおかしいですね、確かに。
欲しいものを欲しいときに自分に与える、ということ自体が私にとっては遠い世界です。
 
なのでおそらくお金持ちになっても私はこの枷がなくならない限りお金を使えないでしょう。
意図せずすっごいお金持ちになった主人公の小説とか書いてみたんですが、お金の使い道が浮かばなくて書くのをやめてしまいました(笑)
その小説の中で書いた精いっぱいの贅沢が「スタバのホワイトモカのベンティにトッピングする」でしたもん(笑)
こんな贅沢は実際の私にはできません。
支払ったコスト分の喜びを得られる自信がないです。
こう書くとまるで喜ぶのが義務みたいですね。
対価を支払った分喜ばなければならない、となったら、何かを手に入れるのも何かをするのも苦痛になりますわな。
 
こういう枷が自分にはまだまだいっぱいあるので、喜べるというのはすごいことなんだなと思いました。
誰かを喜ばせてその喜びのおこぼれで満足してないで、ダイレクトに自分を喜ばせられるようになりたいものです。