しばらくぶりのブログ更新になりました。
11月から仕事がすごく忙しくて、12月も忙しいままだいぶ心身ともにやられてまして、まったく何もアウトプットする気になりませんでした。
正月休みをへて、最近ようやく頭が余計なことを考える隙間ができてきました。
とはいえ元気いっぱいというわけでもないのですが、とりあえず今日ふと思ったことを書きます。
以前も書いたような気がするんですが、人が最も苦しむ感情、というか気持ちというのは、罪悪感らしいです。
それを念頭に置いてこれまでの辛かった時期やこれまでの辛いことを考えてみると、確かにそうかも、と思えました。
周囲のメンヘラを見てもそう思いましたし、相手をメンヘラにする側の人達を見てもそう思いました。
そこで、罪とはそもそもなんぞや? と考えてみたところ、誰かが作った規則、ということがわかりました。
何かを罪だと認識するというのは、その規則に沿っている、ということですね。
ここでいう規則は、価値観と置き換えてもかまいません。
ルールとは、要は価値観です。
宗教がわかりやすいかもしれませんね。
私は豚肉は汚れているから食べてはいけない、という規則が理解できません。
なぜなら、豚肉は汚れていないからです。
私の考える「汚れ」というのは「細菌や化学物質など人体に悪影響を及ぼす要素が付着している、含有している状態」だからです。
スーパーで売っている腐敗していない豚小間を「汚れているから食べてはいけない」と考えることができません。
が、この豚肉を食べることを「罪だ」と認識している人がいます。
その人は豚肉を食すことが「罪である」という価値観を「誰かや何か」から知り、それに従っているわけです。
この罪とは、昔どっかの誰かが作った取り決めになにがしかの有無を言わさぬパワーのある架空の存在を後ろ盾として周囲に共有、もしくは強要したのがなんか流行って定着した、というものかなと思ってます。
罪という言葉にはものすごく強い力を感じますが、分解していけばこういうことです。
罪なんて所詮そんなもんです。
例えば豚肉を食べることを罪だと思っている人が豚肉を食べて、自分は罪深いと罪悪感を抱えながら生きているとしたらどうでしょうか。
私たちから見ればひどく滑稽です。
罪でもなんでもないことを罪だと思い込んで自分を責めて勝手に苦しんでるわけですから。
つまり、罪悪感は自分が作り出しているということです。
私は豚肉を食べても罪悪感を覚えることはありません。
でも、豚肉を食べて罪悪感を覚える人がいます。
私は毎日決まった時間にどこかの方角へ向けて、状況も場所も選ばずにお祈りをしていたら罪悪感を覚えるでしょう。
でも、それを何よりも優先すべき正しいことと思っている人もいます。そういう人はお祈りに罪悪感は覚えないでしょう。
「○○を罪と認定し、○○をしたら罪悪感を生み出して自分を責めるムーブ」ということですね。