体調がなかなか復調しなくてげんなり。
子供のころに比べて風邪をひく頻度は激減したのですが、一回体調崩すと長いんですよね……
今回ももう二週間近く調子悪いです。
しかも一回治りかけたのにもう一回症状がループして、コンティニューすんな!と思いました。
ウォーキングができてないから体力ががっつり落ちた感があります。
これを戻すのに無茶してまた体調崩すとかならないように気を付けます……取り戻すのに時間がかかるから、崩さないのが一番いいんだなーと痛感。
体調崩すたびに痛感してる気もしますが。
それはそうと今日は出社して久しぶりにいつもの川沿いを歩いてきました。
連休→欠勤→在宅勤務→雨、と歩けない状況が続いたので、実に2週間ぶりですね。
暖かいというか、日差しがすごく熱い。
そしていつの間にやら堤防にめちゃめちゃ草が生い茂ってて、川側を歩くともわっとしました。
匂いや感覚がもう夏ですね。
嫌いじゃない。
自然の感覚を心地いいと感じるときいつも私の頭に浮かぶのはおばあちゃんちです。
このブログでも何度も書いてますが、心地いいとか安心と結びつくのはいつもあの団地の10階なんですよねぇ。
それはとても嬉しいことで、今は無くても過去にそんな経験をしたことが私を生きさせてくれてるのかもしれないと考えています。
祖父母が生きてて元気だったころのあの家に一週間だけ戻りたい。
同じように、安心と自由、楽しさを感じたときに浮かぶのがカナダで暮らしていた時の家です。
妹と、当時はまだ妹の同居人だった妹の夫と私の三人で一ヶ月半暮らしただけの家なのに、記憶に鮮明に刻まれています。
使えるお金があまり無くて、ほとんど観光もせずに過ごしていたのですが、そのただの暮らしが本当に楽しくて、英語の勉強をしながら週末は義理の弟の友人や家族が来たり、語学学校のクラスメイトが来たり、暖炉に火が入らなくて試行錯誤したり、スーパーのチラシを見るのが毎週の楽しみだったり、とても不思議で暖かな時間でした。
そのどちらの環境も、私が誰も何も警戒していない、深刻な不安がない、ということが共通しているように感じています。
加えて、抑圧されていない、抑圧していない、誰の顔色も窺っていない、脅威が無い、といった要素もありますね。
あとはもしかしたら、自分を偽らなくていい、別の何かになろうとしなくていい、というのも大きいかもしれません。
そして実家や今の家で過ごした記憶が、心地よさや安心を感じたときに浮かぶことがありません。
ということは、そこが私にとって安全で安心な警戒しなくていい場所ではない、ということなのだと思います。
もう少しつっこんで考えてみると、おばあちゃんちやカナダの家では、私が否定されることがなかった、というのがありました。
否定されないので否定されることを恐れなくていい=自分に嘘をつかなくていい、なのかなと。
ミスを指摘されたりアドバイスをもらったりは全然いいのですが、自分が悪いと思ってやってないことについて「なぜそんなことをするのか?」と問われるのが本当に困るんです。
何か意図をもって意識的にやってるわけじゃないので、説明できないんですよ。
説明しようとすると急遽「それっぽい、近いっぽい何かを引っ張ってきて当てはめる」みたいな感じになるので、そのときの私の状態や状況によって内容が変わります。
そうすると「以前はこう言っていたのに嘘をついたのか」と言われるので、そこでもまた返答に困るのです。
嘘でごまかそうとか、騙してやろうとかではないのです。
質問の回答を無理やり自分の中から引っ張り出しただけなんですよ。
詰問されたら正解がなくても正解っぽいことを提示しなきゃいけないと感じるので、結局都度都度回答が変わっちゃうんですよね。
厳密には正解は「意図して意識的にやってないからなぜやったかはわからないしそれの何が問題なのかもわからない」なんですが、詰問されたときにそれを言える状態に私はなれないわけです。
相手を脅威と感じている場合は。
それは本当に脅威なのか? と考えると客観的にはまったく脅威ではないのですが、その瞬間はそういう理屈じゃないんですよね。
過干渉な環境や自分で選択するという経験が少ない人は、こんな感じで洗脳とかDVとかで自縄自縛の状態になってしまうのかなーと思いました。
そうなることを自分で選んでる……正確には、選ばないことでそうなることがわかっていても他の選択をしない、という能動的被害者のようになってるのかなーとかも思います。
人はやられたことをやる性質があるので、加害者は同時に被害者であることも多いし、被害者は別の場所で加害者であることも多いんですよね。
とまぁ心理学の勉強してればわかることはわかるんですが、「わかる」と「できる」の間にはものすごい距離があるんです。
もしかしたら本当にたくましいのは「わからなくてもやる」人なのかもしれないですね。
私はわかってないとやりたくない、なので、まぁそういう生き方でちまちまやっていこうと思います。
すごい人になる必要も無い、表舞台に立つ必要も無い、スポットライトを浴びる必要も無い。
立派な人になる必要も無いし、模範的である必要も無いし、善人である必要も無い。
厄介でめんどくさいけどいてくれると助かるのよねー、っていう存在でもいいかなーと。
わざわざこんなことを書くくらいなので、おそらくまだ↑のような「大人が子供に求める理想像」が私にへばりついているのでしょう。
悪になりたいわけじゃないですが、善でもいたくないんですよね。
私のありのままがきっと「そこそこ社会性があるフリをしつつも本質がすごく自己中心的」なのでしょう、きっと。
それを認めることができる環境が今のところないので、心地よかったり安心できてるときの自然な私には、過去しか紐づいてないんでしょうね。
とはいえ今の境遇は昔に比べればずっと素敵です。
あの頃もよかった、と思うことはよくありますが、あの頃の方がよかった……と思うことはありません。
私がそう思えるのは周りの人たちのおかげなので、結果的に幸運なんだろうなと思います。
少なくともそれを確定的に否定できる人はいませんからね!