出勤の日の昼休みに、お昼寝するのをやめて歩くのを継続しています。

気が付いたら歩くのを始めて2か月くらい経ちました。

調子のいい日は往復で約3キロ。

調子の悪い日は往復で約2キロ。

川沿いで、水門が二個あるのでそれを基準に歩いています。

 

最近は風が強くてものすごく寒いです。

なんか防風の上着を買わなきゃなーと思ってます。

夏も夏できっと暑さがやばいと思うので、日焼け止めと帽子と上着を用意しないとですね。

いやー暑い中歩くとどんだけしんどいのか、ちょっと楽しみです。

あまりにも危険な暑さだったら日傘差しながら歩くかな。

私はどうしても歩きたいようです。

 

一人で歩いてると、ものすごく解放されるので、歩くのは好きです。

物理的なしがらみではなく、精神的な抑圧の扉が開く感じがします。

そうなると、そのとき自分の中で強い要素が出てきます。

なので、気分良く歩けるときもあれば気分が悪いときもあります。

自分の中にある要素というのは、ポジティブなものよりネガティブなものの方が強いのでしょう、何かしら未解決のものやモヤモヤしてるものがあると、それがずっと頭の中で喋ってます。

音楽を流してても聞こえてないし、音楽を聴かないときもある。

そういうときは空を見ることも川を見ることもなく、気が付くと3キロ歩き終わってますし、そういうのが何日か続きます。

こういうときは正直あまり楽しくはありません。

が、楽しくなくてもいいので歩いてます。

むしろ歩いてるときくらいしか今はこの気持ちが出てこれないので、貴重な自分の中のキッズとの対話時間なんですよね。

 

私にとって絶大なストレスは、言いたいことが言えないということ。

私の大嫌いな感覚が、罪悪感。

それらと自分を切り離せない状況をどう切り抜けるか、その答えを探して自分と話しています。

とはいうものの、答えは実はわかっているのです。

必要なのはきっと、覚悟と勇気。

それがまだ自分にないということもわかっているのです。

 

 

現状というのは、自分が選択してきた結果でしかないのですよね。

総ての人に全ての選択肢があるわけではないですが、選択肢の数に差があるということは誰もが一緒ですし、選択肢そのものに優劣はないので、その点においては平等と言ってもいいのかなーと。

環境については平等とは言えません。

とはいえ『恵まれた環境』が総ての人にとって100%恵まれていると解釈するのも難しいですけどね。

 

よく、生まれてくる親は選べない、と言いますよね。

これはその通りだと思います。

でもそれって、生まれてくる親以外は選べるってことなのでは? と思ったんですよ。

産みの親は、自分が生まれるための素材と器でしかないのでは?

お手本としての親、慕う対象としての親、育ててくれた親、愛してくれた親、これは実は全部別々に存在しててもいいのではなかろうか。

 

私の場合は、産みの親と養育してくれた親は一緒ですが、愛してくれた親は祖父母でした。

お手本はこれまで出会った人の中で私が「すげぇ!」と思った人や、数々の作品の中のキャラクター、私が好きなものを作った人たち、そういう「私が受け入れたいと思った人達全部」です。

育ての親は今は「自分」かなぁと思ってます。

誰も守ってくれない、誰もわかってくれない、誰も助けてくれない、誰も認めてくれない、そんな中でもずっとそばにいたのは自分だったので。

素直に生きられる人はわからない感覚もしれませんが、本当の自分と外向けの偽りの自分を分けて生きているので、自分というのは自分の中に一つじゃない、みたいな感じになるんですよ。

複合体みたいな。

実際は単に出てくる側面が違うとかそういうことなんだろうけど、解釈は別に何でもいいですわ。

 

おそらく親という言葉に縛られたくないと思ってこういう解釈を私が生み出したのかもですね。

しかしまぁ親とは似るもんです。

見た目に関してはそりゃ素材が同系統ですから似ます。

価値観はもろ親に似ます、最初に塗られた色が土台になって後から色を重ねてくのが生きてくってことでしょうから、全面に塗られた土台の色はなかなか塗りつぶせないし削れないもんですよね。

 

まぁでもそれはただの要素です。

親の遺伝子を元に自分を作った(それしか素材がなかった)から親に似た容姿になった。

親の色しか塗る色がなかったから親と似た価値観になった。

この事象に、良い悪い、好き嫌いの判定を加えるのは私たちの自由です。

好きなものは誰に何を言われようと好きでいれば良し。

嫌いなものが変えられる要素ならお金や時間をかけて変えれば良し

 

今は性別も変えられる時代ですからね、金で解決できるものは金稼いで解決すればいいんです。

これは私の経験ですが、ホルモン剤を使えばその性に体は近づきますし、男声→女声は誰でも時間をかければできます。

高身長が気になるなら、極端な話ですが海外行っちゃえばいいんですよ。

脱毛も整形もやりたければやったらいい。私はやりたいからやった。

今はちょっと豊胸に興味ある。

 

とはいえ、変えられない部分というのもあります。

↑で性別も変えられると言いましたが、あれは便宜上の、という意味です。

男は女になれないし、女は男にはなれません。

正確に言うなら『生まれ直さないと性別は変えられないが生まれ直すことはできない』ですね。

身長、骨格、障害、病気、アレルギー、人種、レッテル、などなど。

これはもう嫌なものは嫌、いらねーものはいらねーとすればいいかな、と。

無理やり受け入れる必要もないし、死ぬまで嫌い続けてもいいし。

いつか死ねば終わるので。

でもこれらは全部ただの『構成要素』でしかないので、これをどう解釈してどう使うかは自分次第なんですよね。

 

どれもその要素を理由に自分を不幸だと認識することもできるし、いらねーけど取るに足らない要素だなとすることもできるし、嫌だ変えたいとあがき続ける人生も良しだし。

良いの反対は悪いと決める必要もないし、悪いの反対はどうあがいても「好きにはなれないがギリギリ許容範囲」とかでもいいわけで、良いの反対がどうがんばっても「悪いと思えない」でもいいし。

受け取り方は自分が決めてよくて、それはいつどう受け取ろうとも自由なわけです。

 

ただ一つだけ変えられないものがある。

 

「その選択肢を自分が選んだという事実」

 

これだけは変わらない。

その時その瞬間、その選択肢を選んだ結果、今こうしてここにいる、というのは事実です。

これは事象なので変わりません。

そしてそれを「ラッキーだ」と受け取るか「アンハッピーだ」と受け取るか「まぁ良し」と受け取るか「要改善」と受け取るか「ハードラックとダンスっちまった」と受け取るかはこれまた選択できるわけです。

 

そういうことを考えてると私はなぜか、今まで出会った人たちに「理由と理屈はよくわかんないけどなんかありがとう」みたいな気持ちになります。

そこそこ今の自分に満足してるんです、きっと。

でもそれは私が「満足いく自分になりたい」とあがいてもがいてきた結果、選択してきた結果で、私がそれを選択してこられたのは周りの人たちがいたから、と思うのです。

周りの人たちがいてくれたというラッキーを享受できたのは、自分の力だとも思っています。

だって私は周りの人たちの支援が欲しくてこれまでの選択肢を選んできたわけではないので、私が自然に選んできた生き方で、誰かが助けてくれたり誰かが喜んでくれたり誰かが関わりたいと思ってくれたりするってことなんです。

だったら余計な力を加えなくてもいいし、違う何かになろうとしなくてもいいんだ、と思ったんです。

 

これは私の中に定着していない思いなのでよく見えなくなるんですが、一度見えると見失わないもので、こうやって「歩いたり」「書いたり」して自分と対話してると自然と障害物が取り除かれて見えるようになるんです。

アニメ版エヴァの最終話で「僕はここにいていいんだ!」ってこういうことなのかな? と思いました。

だとしたらあのアニメは説明不足過ぎる。

 

そんなわけでだいぶ話がとっちらかってしまいましたが、親という言葉を要素・概念で分解してそれぞれ受け入れやすい形に認識を変えちゃえばいい、というところから、物事を要素として見ればその認識の仕方は自由、そしてどう認識したかという選択は事実、という話でした。

まぁその選択というのも、別の物を選択しなおしてもいいわけですけどね。

選択した結果をどうやって享受して、次は何を選択するか、思考停止しないようにすればきっと大丈夫、ということかと。

選択を誤ってはいけない、という選択自体がそもそも誤りである、みたいな感じですね。