境界についてよく考えることがあります。

こっち側とむこう側。

私とあなた。

あれとそれ。

何が違うの? 何故違うの? 何が違いの条件なの?

どの枠にどうすればくくられるの?

 

私はどこにいればいいの?

 

そんなことを絶えず考えていました。

たぶん今も考えてる。

なんでもカテゴライズしないといられない、名前がついて定義されてないと認識できない、そういう特性が自分にあるという自覚があります。

なんとなくそれは、役割に沿おうという意識なんだと思っています。

自己という他者が定義できないものより、他者が定義できる「○○の◇◇さん」というものに重きを置いている、ということかなと。

 

そうしている理由はおそらく、自分が不定形すぎて形を保てないから。

自分(の価値観)がゲル状なので、そのままだとそこに存在できないため、型にいれてその型を自分っぽくしてるんですね。

が、それは自分ではないので、負荷がかかっててどっか歪んでたりはみ出たりしてるんですよ。

それが限界を迎えるとぶっ壊れちゃうんですね。

そうなったときはもう(物理的な)DEAD or DEAD(精神的な)状態になるので、自殺するか人格が変革するかになると思います。

程度の差はありますが、私はそれっぽいものを4回か5回は経験してます。

その都度変わった自覚はあるのですが、なんとなく「違う型に替えただけ」な感じがあって、最近ようやくわずかに『自分というオリジナルの型』を形成する段階に来た気がしてます。

 

さてまずは表題の「自他の境界を作るコツ」について、つい最近実感したことを書き留めておきます。

私の感覚を要約すると、自他の境界を作るコツは『見捨てること』だということがわかりました。

見捨てるっていうとすごくこう、冷血でひどい感じがしますが、感覚的にはそれ。

おそらく厳密には『選択すること』だと思います。

でもそういう生ぬるい感じだとうまくいかないので、私は見捨てるくらいの気持ちでいます。

 

見捨てるくらいの気持ちの中身は「相手のリスクを見過ごすこと」です。

相手が困ってもいい、とすることですね。

これは、困らせるのとは違います。

干渉して困らせるのではなく、干渉しないことで相手が困ってもほっておく、です。

 

これのできない親がとんっっっっっでもなく多い!

ウチの親もその典型というか見本市レベルなので、私は相手に干渉することが相手への愛情だと勘違いしてました。

だから愛してることを証明するには干渉してコントロールしないといけない、私が管理して私の思う通りにさせないといけない、みたいに思っていた感じがあります。

普通の感覚の人はこれを悪意と感じるようなのですが、私は愛しているつもりだったので、悪意と言われても1ミリもわかりませんでした。だって1ミリも悪意なかったんですもん。

 

これを型の話に当てはめると、自分と同じ型に相手を詰め込んで自分と重ねて一つになろうとする、って感じですね。

アダルトチルドレン界隈ではよくある話です、母子カプセルって言うんでしたっけ。

これはもう「そうしたい」とかいう次元のものではなく、そうせずにはいられない、というか呼吸をするように相手と合一化しようとするって感じです。

これも、自分の型を捨てて相手の型に入ろうとするケースと、自分の型に嵌めようとするケースがあって、このタイプが合致した場合になんとなくうまいこと合ってる感じがしてくっつくことがよくある気がします。

 

でもそもそも互いに型が嫌なので、うまくいかなくなるんですよね。

相手の型にはまった方は、相手が型から出ようとしたら「私は自分の型を捨ててあなたの型にハマってあげたのに、今更一抜けするつもり!? 許さない!」ってなるでしょうし、相手を型にはめさせた方は「自分のエゴで相手を縛って偽りの生き方につき合わせた以上、偽り続けるしかない……でも辛い」という板挟みになる可能性もあります。

自分のオリジナルの型を作るためには、自分の偽りの型に癒着してる相手を斬り捨てる必要があるわけですね。
自分と一緒に相手もオリジナルの型を作り始めたらそれは最高で最強だと思いますけど、ぶっちゃけそれができる関係ならそもそも自分の型持ってるでしょ、と思ってます。
これが依存というやつなのでしょう。
 
見捨てるって言ってもなんかエグイことするわけじゃないです。
「今日雨の予報出てるから傘持っていきなさい! ほら!」って傘を押し付けるのではなく、
「今日雨の予報出てたから傘持ってくといいかもね」って言うだけにする、って感じですね。
傘を持っていくかどうかは相手が決める。
傘を持っていかなくて雨が降って濡れてもそれは相手の選択、こちらが背負うものは何もなし。
傘を持っていったけど雨が降らなかったとしてもそれは相手の選択、傘が荷物になって邪魔だったとしてもこちらに責は無し。
干渉する以上はうまくいかなかった場合に文句を言われる可能性が出るし、必ず総てが想定通りにいくことはありえないので、相手に文句を言われることに常に怯える必要が出てくるなーと感じました。
 
相手の行動の選択を相手にゆだねる=見捨てる、に近いのかな。
これ当たり前ですよね、自分の事は自分で決めるって。
でもこれができないんですよ、自分の事を自分で決めることが難しすぎる。
その原因はわかってます。育ちです。環境。
親とか教育者とか養育者とか支えにしてた人とか、なんかそういう自分を本来守ってくれるハズだった人達の影響が99.99%だと思ってます。
 
なので、そういう人達を見捨てることがいいかもしれませんね。
おまえらがどうなってもしらん、と。
これが大人になると、パートナーとか配偶者とか子供とか親友とかになると思うんですが、それでも見捨てることです。
君がどうなっても私は干渉しない、と。
助けを求められない限りは助けない、と。
そして、自分の負うリスクが自分を脅かす大きさなら助けない、と。
こう書くと「見捨てる」って感じですが、見方が変わると「尊重する」になるんですよ。「信頼する」にも似てるかもですね。
 
相手を尊重する、という言葉の意味がずっとわからなかったんですが、大げさに言えば相手を見捨てることが相手を尊重することにつながるのかと。
そこで関わってくるのが「優しさという概念」なのかなと思ってます。
さっきの傘の話だと、雨の予報が出てることを伝えるのは優しさかなーと私は考えています。
家族に伝えるなら優しさで、傘を持っていこうか悩んでる見知らぬ人に伝えるなら親切、になるのかな。
やってることは一緒なんですけどね。
 
優しくするっていうのは、意識的にできるものじゃないと思うんですよ。
意識的にする優しいことはなんか恣意的というか、嘘っぽいというか、欺瞞? 偽善? そんな感じがします。
やらなきゃいけないから優しくする、は優しさではないですよね。
自然にできるから優しさなんだと思うんです。
その尺度は万人が違うハズです。
だから相手を優しくないと断罪する人のその行為がすでに優しくない。
そして、優しくない人は優しくされないものです。
 
優しいことをするときの気持ちは嘘でもいいと思うんですよ。
それは「見返りのために、私が自発的に、私が思う優しいことをしている」という独善的なものです。
でもいい、それで何の問題もない。
見返りのためにやりたくてやってるなら、見返りがなかったとしても「これじゃダメか、この人には別のアプローチが必要だな」となるだけなので。
ここで言う見返りは、金銭に限りません。というかほぼ金銭ではない。
単純に「ありがとう」が欲しいとか、「すげぇ!」って言ってほしいとか、「代わりにこれをするね」ってなってほしいとかありますし、私は「あのときあの人が助けてくれた」ことを覚えていてほしい、とかもありますね。
そういうのが積み重なると相手が自分の味方になってくれるので。
だから私は私の好きなように優しくしますし、したくなければしません。
私を優しくないと感じる人もたくさんいるでしょう。
それが正しい。私の優しさを感じる人も感じない人もいていい。
じゃないと、私も相手の優しさを必ず感じ取らなきゃいけないことになる。
そんなのはしんどい。
 
ウチの親はよく私の事を優しくないと評してましたが、私の優しさの尺度は親の尺度とは違うし、私に優しくされるような接し方を私にしたのあなたは? と思っています。
私は今の職場でけっこういろんな人の雑用を担ったり、手助けしたりしてて、そうすると頼まれる仕事は多くなるんですが、喜んでくれるんですよね。
私ができることをやって喜んでくれるって、それはもう私からしたらむしろ「私がもらってる」レベルのことなんですよ。
だから全然苦じゃない。
もちろんこれは相手によりますよ、自分を利用しようとだけ思ってる相手には、明確な見返りを要求した方がいいです。
私は現状、私を利用しようとする人、つまり私から搾取しようとする人(私をマイナスにして相手だけプラスにしようとする人)に手助けしてるつもりはありません。
私が気づいてないだけでしてるかもしれませんけどね。
 
まーでもそれでもいいんですよ、それもどうでもいい。
だって「私が優しくしたことであの人はきっとこの恩を覚えていてくれるに違いない」と私は満足できればいいんですもん。
相手が覚えてるか忘れてるかはどうでもいい。
私がやったことを私が忘れてもいい、どうせ引っ張り出して売れるほどの助けもしてないですし。
そのとき私は「優しくしてあげて自分が満足した」と感じたらもうペイされたようなもんです。
そう感じられないことはちゃんと「恩として売る」必要があるかなーと。
それもみんな基準が違うから、恩を感じるかどうかを優しい優しくないではかるのもめんどくさい。
私は鈍いので恩感じにくいし。
その分自己満足できるからそれでいいって感じですね。
 
優しくされない人は、相手にとって優しくされる価値がないんだろうなと思います。
それは優しくされない人そのものに価値がない、という意味ではありません。
優しくされたい側と、優しくする側の基準が合ってないだけです。
人は優しくしたい人にしか優しくしないのが自然だと思います。
だから私はいつか優しくしてもらえたらいいなと思って優しくします。
そういう見込みがない相手には優しくしないでしょう。それがつまり優しくする価値がない、ということかと。
 
でも他人軸の優しさを自分が行うのは難しいので、結局自分の思う優しいことしかできない。
じゃぁ、合わないなら、自分の思う優しさが自然に変わっていったらいいな、と思います。
負荷をかけて変えてくのは歪むからよくないです、誰かのせいにして誰かを責めたくなる。
だから自分がやりたくて変わっていった、ができたら素敵だなと。
なりたいようにしか自分はなりませんからね。それは相手もそう。
だから合う人もいれば合わない人もいる。
合わなければ合わせなくていいんだろうなーと。
自分をfixしていくウチになんかカチっとハマることがあるかもしれませんし、そんなの意図してできませんし。
 
要するに、自分以外の何かになろうとしなくてもいいんだなってことですね。
 
まとめると、自他境界を意識するコツは「見捨てること」。
優しさは「自己満足」を目的にする方がいい。
あと、他人に優しくできない人はまず自分に優しくした方がいいです。
優しさを求めてる人が他人に分けるリソースは無い。
無理して分けると不満になる。
そこはまず相手を「見捨てる」こと。
優しさっていうのは『自分の余りをおすそ分けすること』だと思います。