写真は最近ずっと聞いている「月世界旅行」というボカロ曲の切り抜きです。

内容とはあまり関係ないのですが、笑顔をのせたくてしっくりくるのがこれでした。

 

少し前から、自分にポジティブな言葉をかけるようになりました。

「素敵、今日もきれい、イカしてる、美人、素晴らしい、最高」とか。

「good,nice,Great,briliant,Lovely,faburous」とか。

正直こっぱずかしいと感じるし、思えてないまま言ってることもあります。

そういう時は違和感があります。

「今日も可愛い(ようには見えないけど)」って感じです。

が、事実はどうでもいいというか、事実を言うことが目的ではないので、あまり考えずに言うことを目的にただ言うことにしました。

 

そんなことをやったりやらなかったりで2~3週間経ったんですが、なんか鏡を見たとき自分の見え方が変わったんですよ。

すっごい寝不足で肌荒れてるし、にきびすごいし、髪もだいぶ傷んでるんですが、そういう情報が見えなくて、単純に「あ、なんか今日私美人じゃん」みたいに思ったんですよね。

眼鏡かけてなかったからよく見えなかったのもあると思いますが(笑)

そのとき気づいたんですよ、自分にポジティブな言葉をかけることのロジックが。

 

「自分を褒めましょう」的なワークって、大体それを続けると自分が可愛くなる、かっこよくなる、とかいう感じのことが書いてあって、私はそれは信じていませんでした。

そんなことだけで変わるわけないし、それで行動をするようになって変化があっても自分であることに変わりはないのだから限界があるでしょ、机上の空論だ、みたいに思ってたんですね。

それは今でも思ってます、自分以外のモノになれるわけでもなし、肌の色が変わるわけでもなし、骨格が変わるわけでもなし、シワが消えるわけでも若返るわけでもなし。

実際に自分が変わるのは時間がかかりますし、行動が伴わなければ変化はしません。

でも、自分へかける魔法の言葉は、自分を変えるための魔法ではなかった

 

 

自分の見方を変える魔法だった。

 

 

変わったのは自分の表層ではなく、自分を見るフィルターだったんだ! と気づきました。

この、自分を見る目、自己評価が変わることで、行動への許可が出せるのかな、と思います。

というのも、自分は美しくないという評価をしていると、自分を美しくすることにgoが出せないんですね。

美しくない状態が正しい、と認識しているわけなので。

それを無理やり美しくしようとしても、心が認めてないので続かなかったり、元に戻ったりする力の方が強いのです。

私は以前それを、性別移行のときに体感しましたが、今回の体験でようやく言語化できました。

 

自分は美しい、という自己評価に変わると、じゃぁもっと美しくなるため、この美しさを保つために行動してもいいんだな、って思えたんです。

そうなってくると、他者の評価をものすごく小さく感じるようになった気がします。

なんかディスられた気がするけど、あれ誰の事言ってたんだろう? 私は美しいから私の事じゃないはずだよな、みたいな。

まぁあなたにはわからないよね、わかってもらう必要もないけど、みたいな。

自分が自分を美しいと思えていれば、世界中の人に醜いと言われても、自分は美しいという評価が0になることはないんだ、と思ったんです。

あぁ、だったらなんも怖くないわ、って思ったんですよねぇ。

 

という状態がkeepできるとは思っていません。

肉体も精神も常に変化してるので、気持ちも考えも気分も一瞬で変わったりしますし、傷つかないことも傷つけないこともたぶんできません。

でもきっと、それでもいいんだと思うんですよ。

完璧になることがいつでもだれにでもgoodとは限らないですからね。

というか無理なので、そんなこと自分に望みたくない。

 

 

以前私は暴言の記事を書きましたが、今思うとこれは自傷行為だったのかもしれません。

言葉に力があるというのは薄々わかっていて、攻撃的な言葉を使うことで自分も傷つけているというのはなんとなく感じていたんですが、そうせざるをえない自分を否定できなくて、攻撃的な言葉に正当性を持たせようと必死でした。

実際に自己防衛の側面はあったと思いますし、アイデンティティとして頼りにしていた面もあります、子供の頃は特にそうでした。

でも自分をそうやって守る必要がなくなった大人になってからも暴言を吐き続けたのは、自傷行為だったんだなーと思って納得がいきました。

物理的に手首を切っていた時期もありましたが、それをしなくなって自傷行為とは縁が切れたと思ってたんですが、自己評価が変わってないのに自傷行為が収まるってことはなかったんだなーと。

そして自傷行為はやめようと思ってもなかなかやめられないもので、その行動をやめても別の行動で自傷は続きます。

私の場合は肉体を傷つける自傷行為が、他者への攻撃に偽装した自分への言葉の暴力に替わっていったのかもしれません。

だからどれだけ意識して暴言を言わないようにしても無理でした。

一時的に一瞬できる程度。

それをせずに自分を保つ(許す)ことができなかったので、抑えられなかったのでしょう。ちょっと依存症みたいな感じしますね。

 

そんな感じで言葉の使い方をやや無理矢理変えたことで、私の中の私の見方が変わって、結果自己評価が変わってきて、暴言という自傷行為が収まってきました。

騙されたと思ってやってみたら、うまいこと自分が騙されてくれたって感じですね。

 

ただこれを他人にオススメするかはまた別だなーと思っています。

私はおそらく今だからこれができましたが、2年前とかにできたか? と言われたらたぶん無理だったと思うのです。

タイミングもあるし、誰にオススメされるかもあるし、選択肢を増やすこと、そして選択すること、というのは大きなエネルギー消費を伴うので、難しいときもあります。

魔法の言葉ワークは、できるタイミングがそれぞれに違うように思いました。

まぁ、やってダメならやめればいいし、やめたってまた始めればいいので、気軽にやってみてもいいんですけどね。

何も消費しない、誰も困らない、誰も傷つけない、めちゃくちゃコスパのいいチャレンジなので。

 

私は今日も最高だし、明日最高かどうかはわからないけど、最高じゃなかったとしても私が私であるだけで素敵なのである、と思えればもう最強ですよ。

私もあなたも最高です。その証明は必要ない。そうじゃないことを誰も証明できないのだから。